多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

息長い活動団体が受賞した2019多田謡子反権力人権賞

2019年12月20日 | 集会報告
12月14日午後第31回多田謡子反権力人権賞受賞発表会が、今年も連合会館で開催された。1986年暮れ、弁護士になり2年目、29歳の若さで亡くなった多田謡子さんの命日近辺に毎年行われている会である。
今回の選考経過について運営委員を代表し辻恵さんから報告があった。辻さんは多田さんと同じ東京国際合同法律事務所の同僚で司法修習では4期先輩だった。この賞は、労働運動(例 国労闘争全国連絡会など)、司法の反動化への憤りから冤罪事件の当該(例 免田栄さん、袴田巌さん)、草の根反権力の立場でその時代時代に権力の動向に切っ先を突きつけてきた方に賞を受けていただいた。3番目のジャンルでいうと最近は、沖縄、原発、日の丸君が代反対など教育の分野の受賞が多かった。
今年はどういう時代だったか、息苦しい時代のなかの天皇代替わりの年だったのでまず反天皇制運動連絡会、昨年連帯労組関西地区生コン支部に受賞いただいたが今年も権力は7次、8次の再逮捕を繰り返し、普通の労働組合運動を犯罪と決めつけ圧殺しようしていることを見過ごせず、関西の地で、生コン弾圧も含めさまざまな弾圧と闘いずっとがんばってこられた関西救援連絡センターを選んだ。また、ここ数年外国人労働者への差別問題、入管行政が非常にひどい。日本の国の在り方を根底から考え直す必要がある。自身も収容を体験し、そのうえで周囲への呼びかけを続けるエリザベス・アルオリオ・オブエザさんに熱い連帯を抱きたいということで3団体・個人に賞を受けていただくことになった。
今回は、受賞3団体・個人を含め、ふくいち周辺環境放射線モニタリングプロジェクトなど反原発関連、辺野古の抗議船船長・大畑豊さんなど沖縄で闘う方、「主戦場」の映画監督・ミキ・デザキさん、差別・排外主義に反対する連絡会など、18団体・個人のエントリーがあった。

反天連は35年、関西救援連絡センターが50年、エリザベスさんも少なくとも8年、たゆまず闘いを続けている。多田謡子反権力人権賞のひとつの基準は息長い活動という点にもあるように思える。またあまり日が当たらない活動にも、注目してくれている点でも意義がある。たしかに今年は天皇代替わりの年で、もう少し反天皇制問題にも関心が集まるかと期待したが、社会の脚光を浴びたのは天皇や皇后賛美の側だった。以下、3つの講演を紹介するが、発言順は少し変えた。

刑事弾圧と闘い、ニュースを発信し続けて50年
      関西救援連絡センター  永井美由紀
さん
関西救援連絡センターの発足は、東京のセンター発足の少しあと、1969年秋のことだった。兵庫、京都、大阪でつくったが中心は大阪で、呼びかけ人でみると京都2人、兵庫1、大阪4だった。当時は阪大、関大など学生がたくさん闘争に関り逮捕者も多かった(配布資料・救援センターニュース70年2月号によれば、大阪だけで69年4.29沖縄闘争デモから12月の約8カ月で94件400人以上)。
当時は当番弁護士制度がなく、まず弁護士を探すことが必要だった。また未成年の場合、身元がわかるとすぐ親に連絡がいくので、「完黙で2,3日ガンバレ」が合言葉になっていた。当時は3日くらいで出られる時代だった。わたしは72年から京都救援連絡会議の電話番をしていた。べ平連解散後、「毎日デモ」をやり毎日逮捕者が出るという状況で、しかもある時期まで専従は中核派のメンバーだったが革マルとの内ゲバである日突然姿を消したからだった。事務所は京大病院地下の青年医師連絡会の部屋の一隅を間借りしていた。74年6月ごろ、関西救援連絡センターを閉鎖するかどうかという事務局会議があった。各大学や逮捕者ごとに救援会があり、その分担金や人間でセンターを運営してきたのだが、それが行き詰りつつあったのと、病院や弁護士を紹介しても連絡不能になる人が何人か現れ、そのせいでとうとう紹介できる病院がなくなったのが原因だった。結局閉鎖しないことにはなったのだが、さてどうするかということで、「せめてニュースづくりを手伝おう」と月一度京都から出かけたのが、わたしとセンターとの関係の始まりだった。
現在ニュースは隔月でB4表裏2pで発行を続けており、これがメインの業務になっている。編集方針として、社会になかなか報道されない事件をていねいに紹介するようにしている。たとえば大阪拘置所の確定死刑囚Mさんが起こした「再審請求中は死刑執行をするな」という地位保全確認訴訟や連帯労組関西地区生コン支部(関生)への組合弾圧である。2018年7月から今年11月までの18次にわたる組合つぶしの刑事弾圧、延べ89人の逮捕は、大津地裁で3つ、和歌山地裁で1つ、京都地裁で2つ、大阪地裁で2つ、合計8つの訴訟が現在進行中だ。それなのに全国紙でほとんと報道されない。
(なお関生は2018年の多田謡子賞の受賞団体だが、そのころまでの経緯はこの記事を参照)
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1970年代のニュース。左は「1969年大阪における弾圧状況」一覧、8カ月の闘争で94件もの逮捕が執行された。
また共謀罪、盗聴法など、法律に関するニュースを発行する場所が大阪ではほかにないので、記事にし、大阪の百数十人の弁護士に郵送している。弁護士は所属委員会のこと以外に知る機会があまりないので、若い弁護士が関心をもって読んでくれている。
いまは弁護士を紹介してほしいという連絡はほとんどない。関生は大阪労働者弁護団、中核派系は独自の救援会がバックアップしている。古い運動団体は、たいていお願いする弁護士がすでにいるという事情もある。たまに依頼の電話が入ることはあるが「うちは市民運動やデモなど警備公安事件だけをお手伝いしています。一般刑事犯は扱う力量がないもので」とお断りし、求められればアドバイスだけ行い、たとえば当番弁護士制度の説明や連絡先電話番号を教えている。また関西救援連絡センターは無料で弁護活動をしてくれると勘違いしている人もいるので「うちは私選弁護なので、費用もかかります」と説明している。またセンターは逮捕・起訴前までしか扱わない。起訴後、裁判でどう主張するかは、逮捕された人の運動体がやるべきことであり、運動により状況が異なるからだ。

いま救援センターとしてお願いしたいのは、「(運動体が)自分たちの仲間の弁護士をつくってほしい」ということだ。関生の闘いは、ある意味で「国家との戦争」だ。70年代は国家とまじめにケンカしており、緊張感があった。たとえば免許証やパスポートはつくらない、喫茶店ではカーテンのある席にしか座らない、重要な電話番号はメモに残さずすべて記憶する、というようなことを実践していた。
しかしいまの若い弁護士たちは運動経験がないので、「釈放されるには、こうしよう」と言いだしかねない人までいる。運動のなかで国とケンカする気力のある弁護士をつくらないといけない。その点で、かつて赤軍派は留置所のなかで接見弁護士に自分たちの正当性を訴え、弁護士をオルグしていた。その点だけは偉いと思う。そういうことも含め、これからどうすればよいか、いっしょに考えていきたい。

人権無視の入管と闘い、被収容者・仮放免者に寄り添う
      エリザベス・アルオリオ・オブエザ
さん
エリザベスさんはナイジェリア人、戦争のため自由で安全な環境を求め1991年にビザなしで来日した。講演は基本的には日本語だが、ときおり英単語が混じりそれも訛りがあるため、支援者の方の説明をお聞きして初めて理解できたこともある。そこでわたくしが理解できた部分のみ紹介させていただく。
支援者とは、NPO法人・北関東医療相談会仮放免者の会を支援する人々、エリザベスはカソリックなので神父やいっしょに祈る人などで、日本人だけでなく、ブラジル、アメリカ、イタリアなどさまざまな国の人たち、ドキュメンタリーディレクターなどだった。
ただし、日本政府の“難民”への人権無視の非人間的対応に対するエリザベスさんの激しい怒りはストレートに伝わってきたことを申し添える。
まず10分ほどのエリザベスのドキュメンタリー(監督・撮影・編集 高倉天地 2019)を見た。このサイトで見ることができる。

映画の1シーン。エリザベスが大村入国管理センター近くで、収容者と電話しているエリザベスは、大村(長崎)、牛久(茨城)、成田、名古屋、大阪など各地の入国者収容所で収容者たちと面会し、カソリックなので祈りを捧げ伝道している。収容所の外から呼びかけたり、都会で街宣することもある。食費や旅費は支援者のサポートを受けている。日本政府は難民に冷たいので、いまはもう難民申請はしていない。
自分自身も2度収容されたことがある。2011年に収容されたときは、小さい部屋に14人も詰め込まれトイレは一つだけ、シャワーも電話もテレビもない部屋だった。土日はドアも開けない。フィリピン人の少女がうつ病になり、自分のTシャツで首を絞め自殺を図ったこともあった。早く病院にと、ベルを鳴らし職員を呼んだがだれも来ない。病気になっても医師や病院にかからせてもらえない。そこで施設のなかで当局に対し闘い、抗議する姿を被収容者たちに見せて励ました。入管はその姿を見せないため7か月間隔離室に閉じ込めた。座り込みのストライキも行い、自分の権利を主張したので、仮放免で出所できた。こうした体験をもとに、面会に行くと「主張しないと入管は動かない」、さらに「言葉で言うだけでなく、文章にして何が必要なのか書くように。係官はちゃんと受け取るから」とアドバイスしている。
ただし仮放免では、就労できない。だから家族がいるのに食べていけない。鳥ではなく、人間なのに・・・。住民票も取れず健康保険にも入れない。しかし確かに日本に住んでいるのに・・・。収容所は太陽光があまり入らないので目を痛める人が多い。エリザベスもその一人で緑内障で2―3カ月に一度通院しているが、健康保険がないので薬代が高額になる。旅行に行くにもその度に許可が必要だ。また仮放免の人の子どもは学校に行けない。また仮放免になるには保証金の準備が必要だが、かつては20万とか50万だったのに、いまは300万というケースもある。
今年は、本当に仮放免が出なかったので、みんな困っていた。それで5―6月はハンストで抗議する人が多かった。6月24日大村収容所で、ナイジェリア人の男性が病死した。5月24日からお腹が痛いといっていたのに、トイレや隔離室には連れていっても医師には見せなかった。死亡3日後から重い人の仮放免が再開された。といっても一種のガス抜きだからか2週間だけの仮放免で、すぐ再収容された。インド人の父親は収容所、母親と3人の子どもは外にいるがビザを出さないというケースもある。子どもといっても日本生まれで、母国語は話せず日本語しか話せない。上はいま大学生で、学費はインターネットでみつけたアメリカの篤志家が払っている。また強制送還されたガーナ人がいる。日本人妻と2人の子どもが日本に残されたが、奥さんはうつ病で気が狂ったようになってしまい、子どもたちは施設に送られた。
「家族離れ離れはダメ」と聖書にも書いてある。税金ならわたしたちも消費税その他で払っている。なぜアベと日本政府は差別し、いじめるのか

反天連創設と多田さんの思い出
      反天皇制運動連絡会 天野恵一
さん

反天連の結成は1984年12月20日で、ヒロヒトXデーもにらんでのことだった。3日後の23日に山谷の映画を撮り始めた佐藤満男監督が刺殺されるというショッキングな事件が起こった。普通の人に寄せ場の支援にきてもらおうと始めた「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に佐藤さんは2,3度来てくれた。衝撃のなかのスタートだった。
多田謡子弁護士と直接話をしたことはただ1回だけある。1986年2月11日渋谷・宮下公園で紀元節反対集会とデモを行い不当逮捕されたとき、留置所に弁護士として接見に来てくれたのが多田さんだった。集会の講師、京都大学のIさんを多田さんも知っているとのことで、共通の知人がいたので「デートのような」楽しい接見になった。
前月1月には日雇全協の山岡強一さんがピストルで眉間を撃ち抜かれ殺され、その直後のことだった。山岡さんは反天連の事務局会議にも顔を出してくれた準構成員的な仲間だった。山岡さん殺害への抗議の雑誌論文の原稿を書き上げ、山谷に行きそのまま渋谷に行ったのが2月11日のことだった。すさまじい時代だった。
もうひとつ、京都大学の竹本信弘助手(ペンネーム 滝田修)の滝田事件救援会が関西と東京で活動を展開していた。東京の救援会のメンバーがその後、反天連を強力にバックアップしれくれた。多田さんは京都大学の学生時代に救援活動に参加していた。ずいぶんたくさんの人びとが反弾圧運動のなかで結びつき、あとの運動で組織的な力を作り出した。そのひとつの合流点が、86年2月の接見だったといえる。反天連は「殺せ、殺せ、反天連」などとウヨクから人権蹂躙の対象となる活動を10年、20年と続けてきた。「反天連」という名称は、反天連の事務局構成メンバーだけでなく、反天皇制や反靖国の行動をしている人たちへのラベルとなっている。
今日の受賞は、山岡さんなど殺された人、病気で死んだ人も含め、反天皇制の人たち全体への励ましだと捉えている。
日頃、誹謗中傷を受け人権蹂躙され続けている団体なので、「受賞」などといわれると戸惑いを感じるという天野さん、たしかにやや緊張気味だった。聴衆としては、反天連発足後、現在までの経緯や、35年たった現在の課題や問題点の話を期待していたので、ややガッカリという感想はある。講演というより談話のようなもので物足りなかったが、おそらく講演の社会的影響などを熟慮検討の末、こういう話にとどめられたのだろうと思う。

たった一夜のために9億5000万円の経費をかけて建造された皇居内の大嘗宮
☆宮廷費か内廷費かという議論もあったが、どちらにせよ原資が国民の税金であることは間違いない。たった一夜のために9億5000万円かけて建てられた大嘗宮、ほんの30分か1時間の祝賀パレード用に新調されたトヨタ・新型センチュリーをベースにしたV8・5000cc特別仕様のオープンカーは予算時点で8000万だという。格差社会を可視化するシンボルである。
天皇制は家父長制、女性差別、身分差別のシンボルなので、集会でこの点を衝きアピールする女性が多かった。しかし大嘗宮一般参観に行ってみると友人、親子など圧倒的に女性グループが多かった。もちろん平日昼間なので、勤労世代の普通の男性が行けないのは確かだ。
しかし高貴なもの、セレブの人への憧れ、ロイヤル尊敬、皇室崇拝感情の強さを目の当たりにすると、いくら「家族や個人のことでなく、わたしたちは天皇制度に反対している」といっても、道が相当に遠いことを実感する。11月10日の祝賀パレードには4.6キロの沿道に11万9000人もの人が並んだというのだから。


●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。
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