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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

火事と喧嘩は江戸の華 消防博物館

2018年04月10日 | 博物館など
四谷三丁目にある消防博物館を見学した。地下1階、地上10階のうち5フロアが展示スペース、その他図書資料室が1フロアある。1月にみた警察博物館とどうしても比較してみてしまう。大きな違いはこちらは江戸時代の火消しを大きく扱っていることだ。当時の消火方法は放水ではなく、建物を壊す破壊消火だったことなど、いろいろ知らないことがあった。
●江戸の消防
江戸の火消しは武家火消と町火消に分かれていた。
武家火消は三代家光の時代の奉書火消し(1629)に始まり、16家の大名を指名した大名火消(1649)に発展した。なかでも忠臣蔵の浅野家は名人と呼ばれた。明暦の大火(1657)のあと、四家の旗本に命じ、幕府直轄で常設の4組(1組100人)の定火消(じょうびけし)という組織をつくり、のちに10組まで増設した。与力、同心という役職もあった。熱に強いラシャでできた火事装束をまとった。江戸時代は平穏な太平の世となったため、出世するには火事場での働きぶりがものをいい、自分の活躍を目立たせるため装束もどんどん派手になった。ピークは1780年代だという。武家の奥方の装束や皮の羽織も展示されていた。

一方、町人の町方火消しは、1718年南町奉行大岡越前守がつくった町火消組合に始まる。ふだんはトビとして建築・土木関係の仕事をしていた。半鐘の「ジャン」という音で「すわ火事だ」となると火事場にかけつけた。やはり人気商売で、歌舞伎や浮世絵にもよく取り上げられた。「火事と喧嘩は江戸の華」とはよくいったものだ。いろは48組の纏(まとい)が有名だが、「ひ、へ、ら、ん」の4文字はなくかわりに「百、千、万、本」の4文字を加えた48組だった。いま見る纏にはたいてい黒線が入っているが、当初は、わ、る、か、の3組にしか入っていなかった、わ組、る組は寛永寺、か組は湯島を守る組で特別な組だったそうだ。
ところで、消防というと放水して火を消す仕事だと思っていたが、江戸時代にはそうではなく、建物を壊して類焼を防ぐ破壊消火が主だった。これには驚いたが、日本の家は木と紙でできていて大火になりやすいため、類焼を防ぐことが防火だったのだ。そこで道具も柱を倒す刺又、天井や屋根を壊す鳶口、屋根に上るための梯子がメインだった。龍吐水という手押しポンプもあったが、力も弱く10mしか飛ばないので、もっぱら火消しの体を冷やすのに使われたというので驚く。トビの職人が多かったことも納得がいく。

破壊消防活動中の町火消
1761年の分間江戸大絵図が展示されていた。江戸城を中心に、北は王子、南は芝、東は亀戸、西は高田馬場まで出ている。これによると定火消屋敷は、八重洲河岸、小川町、半蔵門、駿河台など江戸城の周囲に10か所ほどあった。武家屋敷の名前も書かれていた。尾張徳川の所領があちこちにあった。築地近辺では、浜御殿(浜離宮)のほか、尾張、伊藤、刑部などの名がみえた。刑部はどうやら一橋徳川家の屋敷のひとつのようだ。

●明治の消防
時代が明治になり、消防の世界もがらっと変った。まず大名火消しは明治元年(1868)に廃止され火災防衛隊が編成されたが1年で廃止となった。町火消しのほうは1872年に39組の消防隊となった。1874年東京警視庁が創設され消防は警察の管轄下に入った。
80年に消防本部(83年に消防本署)が設置され、84年に2階建て、薄緑色の庁舎も建造された。場所は警察と同じ敷地、つまり鍛冶橋の旧津山藩藩邸跡地だった。のち東京駅建設にともない有楽町の帝国劇場や第一生命ビルのあるあたりに移転しその後、警視庁とともに桜田門に移った。職員も公務員となった。
また1870年に英国製の蒸気ポンプなどを輸入し、破壊消防から注水消火へ変革を遂げた。

国産の蒸気ポンプも1899年に20馬力の馬牽き車両ができた。とはいってもマキで石炭に火をつけ、蒸気が出始め放水するまでに20分もかかったという。だから消防署の近くで火事が発生したときは、近所を何周か走り回ってから現場にかけつけるという笑い話のようなこともあったそうだ。なおこのころは官民混成の消防隊で、公務員は靴、民間はわらじを履いたそうだ。また1880年に消防ラッパが採用され、消防隊の進退の合図に使われたが半年で廃止され、6年後に復活した。制度もなかなか追いついていけなかった。
1898年に上水道が整備され、消火栓も設置され始めた。馬牽きでない消防用自動車は1917年に輸入されたが、関東大震災(1923)を契機にさらに強化された。1924年にアーレンス-フォックス消防ポンプ自動車が丸の内分署、スタッツ消防車が第5分署(いまの上野消防署)、1925年にいすゞ・メッツ梯子自動車(全伸長24m)が第一消防署(いまの日本橋消防署)、1929年にはマキシム消防車が神田消防署に配備された。丸の内、上野、日本橋、神田などが当時の消防の拠点であったことがわかる。
1932年12月には有名な白木屋デパートの火事が発生した。初の高層建築火災で、24mの梯子では足りず、1938年に33mまで伸ばせる梯子車を導入した。
また1927年には火災専用電話の番号の112から現在の119への変更、30年12月1日に広報活動の一環として防火デーの行事を開始し、1936年には交通事故の増加に対応し救急車6台で救急隊を設置した。

●自治体消防に変わった東京消防庁
敗戦後最大の消防の変化は1948年3月に自治体消防に変わり、警察から独立した東京消防庁が発足したことだ。23区だけでなく1959年以降、多摩地区の各市町村から委託され消防業務を担当し、いまでは10方面本部、81署、職員1万8408人、車両1974台を保有する大組織となった(2018年4月時点のHP)。なお大島、八丈島などの島嶼部と稲城は自前の消防本部がある。なぜ稲城が委託しないのかはよくわからないが、稲城市消防本部のHPによれば「現段階では単独のほうがメリットが大きいという選択」とある。ただ「現在の稲城消防署の装備では委託を受け入れてもらえないという経費面の要因」もあるようだ。
なお警視庁や県警の上に警察庁があるように、東京消防庁の上に総務省消防庁がある。ただし警察庁と異なり、直接的な指揮権はなく助言や指導、調整等にとどまる。日本全体の消防法令や基準の策定をしている。
庁舎も59年に初めてできた。場所は永田町1丁目11-39、隼町の交差点近く、現在永田町合同庁舎のある場所(町村会館の東隣)である。その後76年に大手町1丁目に移転した。
1961年に消防科学研究所、66年に航空隊を設置し、はじめてヘリコプター「ちどり」を導入した。1969年にはオレンジの制服の特別救助隊(レスキュー隊)が発足した。74年に水難救助隊が発足、八王子、青梅、秋川、奥多摩には山岳救助隊が設置された。

珍しい話としては、警察は白バイの前に赤バイを運用していたが、消防にも交通渋滞時の対応として1969年に赤バイが導入された。マンション火災などに活躍したが76年に廃止となった。しかし95年の阪神大震災で消防自動車が動けなかったことを契機に97年に再発足した。

消防庁音楽隊は1949年7月に発足したが、部員を23人募集した。うち19人が海軍軍楽隊出身、2人が陸軍軍楽隊出身だった。警察の初代指揮者が旧陸軍軍楽隊長の山口常光であったのに対し、消防の初代指揮者・内藤清吾は旧海軍軍楽隊長で対照的である。それで旧海軍軍楽隊のイカリマーク付きのユーフォニウムやコルネットが展示されていた。またC管でなくD♭管の木製フルートやナチュラルトランペットといった珍しい楽器が展示されていた。また警視庁音楽隊が日比谷公園小音楽堂で4月から7月の間水曜コンサートを開催しているのに対し、消防音楽隊は同じ会場で4月から10月の間、金曜コンサートを開催している。

バスケット内で操作が可能な30mのイベコ・マギルス梯子自動車 1983年志村消防署に配置された
わたくしは江戸、明治など古いものに関心があったが、3階には「消防隊に変身」「消防隊にチャレンジ」など子ども向けのゲームやシミュレーションも充実し、地下には本物の消防ポンプ車や梯子車が7台あり、ヘリコプターも2機展示されていた。子どもたちは大喜びで、バギーを押すお母さんたちが何組も来場していた。

消防博物館
住所:東京都新宿区四谷3丁目10番
電話:03-3353-9119 
休館日:月曜日(祝日にあたる場合はその翌日)、年末年始
開館時間:9:30~17:00
    (図書資料室は水・金・日の13:00~16:30) 
入館料:無料

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