もう1ヵ月近く前だが、初台の新国立劇場でフリードリヒ・デュレンマット「貴婦人の来訪」を観た。新国に行くのは昨年3月オペラ研修所修了公演「悩める劇場支配人」以来、芝居をみるのは2019年の少年王者舘「1001」以来かと思う。
わたしは翻訳ものの芝居は、シェークスピア、チェーホフ、ブレヒトなどよほど有名な芝居以外は原則としてみないのだが、デュレンマットという名には聞き覚えがあった。第二外国語の授業で「シジフォスの絵」という短編小説を読んだからだ。ただ40年以上前のことなので、小説の内容はまったく覚えていない。
フリードリヒ・デュレンマット(1921-90)はスイスのベルン州コノルフィンゲンの牧師の家に生まれた。チューリヒとベルンの大学でドイツ文学と哲学を専攻、1942年から小説、47年から戯曲を書き始める。本作(1956)と「物理学者たち」(1962)が大ヒットした。90年12月心筋梗塞のためヌシャテルの自宅で69歳で死去した。
以下、「貴婦人の来訪」の話に移るが、ネタばれになるのでそのおつもりで。HPも参考にしたあらすじは、下記のとおり。
小都市ギュレン。「ゲーテが泊まり、ブラームスが四重奏曲を作った」文化都市も昔の話、今は寂れはて、町全体が貧困に喘いでいる。1955年のある日、この町出身の大富豪クレール・ツァハナシアン夫人が45年ぶりに帰郷する。町の人たちは、彼女が大金を寄付し、町の経済を復興させてくれるのではないかと期待に胸を膨らませる。町長、警官、牧師、教師など町の主要人物が列車到着を出迎える。
クレールは17歳で妊娠、しかし恋人イルが子を認知せず、裁判ではイルの友人も含め3人が偽証し敗訴した。1910年のことだ。臨月でハンブルグ行きの急行に乗り、大都市に出て行く。町の人はニタニタして見送った。生まれた子はすぐ福祉施設に送られ1歳を過ぎたころ病死した。
クレールは娼婦になりアルメニア出身の億万長者の老人(ツァハナシアンというちょっと変わった名はアルメニア由来のようだ)に気に入られ長者未亡人になり、7人もの夫を次々にゲームのように入れ替えている。そして復讐に燃える。
偽証した2人を捜索して見つけ出し、去勢し眼球をえぐり盲目にしたうえ、自分の従者にする。(なお2人は強い酒1リットルでイルに買収されたことになっている)。誤審した裁判長を高給で執事として雇い入れる。町も憎んでいたので、ギュレンの大工場を次々に密かに買収したうえで、操業停止し、さらに通りという通り、家という家まで購入し、町を寂れさせる。そして45年ぶりに故郷の町に里帰りしたのだった。町の有力者たちの願いを聞き入れ10兆円寄付することを約束する。同時に一つだけ条件をつける。
「寄付はするが、正義の名において、かつて私をひどい目に遭わせた恋人を死刑にしてほしい」。町民集会で全員一致で死刑が選択される。しかも「お金のためではなく」「正義のために、良心の求めに応じて」だ。町民みんながそう思い込もうとした。
「部屋を閉めろ」「電気を消せ」と声が飛び交い、数人の「特別な」町民によりイルは絞首刑を執行される。
イルの遺骸は棺に納められクレールと共にカプリ島へ旅立つ。イルの死体を抜け出した魂が死刑執行と葬儀の様子を客観的に見守る。
妻の実家の雑貨屋を継ぎ、貧しいながらも平和に暮らしていたイル一家、大富豪クレールの元恋人ということで「町一番の人望だし、次期町長に推薦する。野党とも合意ずみ」とまで現町長本人に持ち上げられたが、あれよあれよという間に死刑囚の地位に転落し、イルの心は揺れ動く。町の人、とくにヒューマニストを自称する教師や医者の心も揺れ動く。
町の一般の人びとは手に入れた「豊かな生活」を手放すまいと、どんどん薄っぺらになり「正義のために、良心の求めに応じて」を口実に、イルの死を熱狂的に望む。ついに家族まで、メッサーシュミットの高級車をツケで手に入れ、娘はフランス語と英語のレッスンを受け、妻は毛皮のコートをツケで買って満足し、映画を見に行くためイルと別れる。
はじめ見たときは、生と死、愛と復讐、(裁判の)誤審と再審、正義の回復、ヒューマニズム、小さな町での同調圧力、など大きな問題の連発とあまりに激しい展開に着いていけず、カネの力や愛憎の問題でなく、ヒューマニズムや「正義」という「徳」を問題にしているのではないかと思った。
それで小川ゆうな訳の脚本を読もうとしたが、入手方法がわからず、市川明訳・鳥影社版の本を図書館で借りだし読んでみた(発注して読むのに1ヵ月近く時間を要する結果になった)。
すると本当に、「カネが世界を支配する」「ヒューマニズムというものは億万長者の財布のために作られた」という考えをベースにしたシナリオだった。
なお、今回の上演はドイツ・ハンブルグ生まれの小川ゆうなの新訳シナリオで「(小川の)言葉の新鮮さに感動した」(演出・五戸真理枝)、「さらさらと本当に読みやすく」(イル役・相島一之)とあるので、ずいぶん印象が違っている可能性はある。ただし原文は同じなもので・・・。
「どうか復讐するなんて不吉な考えはお捨てください。われわれを最悪の事態に追いやらないでください。どうか貧しく、弱いけれどまじめな人たちが、もう少しましな生活を送れるよう援助してください。汚れなきヒューマニズムを発揮してくださいますよう!」(p96 ページ数は鳥影社「デュレンマット戯曲集第2巻」以下同じ)
という教師の懇願に、クレールは
「みなさん、ヒューマニズムというものは億万長者の財布のために作られたものです。わたくしの財力をもってすれば世界の秩序を買い取れます」
「世界はわたくしを娼婦にしました。今度はわたくしが世界を娼婦にするのです。」「お金が払えないのなら、何かを差し出さないと駄目です」と応える(p96)。恐ろしいセリフだ。
またイルの死刑判決を先導した町長自身も、クレールに「わたくしは正義を買いとることができます。誰かがアルフレート・イルを殺してくれたら、ギュレンの町に1000億差し上げます」と提案されたとき、
(まっ青で、厳かに)
「何と言ってもここはまだヨーロッパなのです。私たちは異教徒でもありません。私はギュレンの町の名において、あなたの申し出を拒否します。ヒューマニズムの名において。血で汚れるくらいなら、貧しいままのほうがよい」(p50)と拒絶し、割れんばかりの拍手を受けた。ところが町民の生活がツケで豊かになり、庁舎新築計画が具体化するにつれ町民も町長も考えが変わっていく。
なぜこういう話になったのか、考えてみた。執筆が第二次大戦終結から10年後の1955年、初演は56年1月だった。この時期は東西冷戦の始まりの時期で、NATOの結成(1949)に続き、55年ワルシャワ条約機構が発足した。またドイツにおけるファシズム成立の分析、とりわけ大衆の支持に支えられたナチズムについての考察が始まったころではなかろうか。ハンナ・アーレントが「全体主義の起源」の増補改訂版(1958)を、「自由からの逃走」(1941)で有名になったエーリッヒ・フロムが「愛するということ」(1956)を発刊したころだった。
1956年のチューリヒでの初演のあと、58年にはニューヨーク(演出ピーター・ブルック)、59年にはバーゼルで(演出はデュレンマット自身)、60年にはミラノ(演出はジョルジョ・ストレーレル)で上演され、絶賛を博した。映画版も59年以降ドイツ、オーストリア(バーグマンとアンソニー・クインが主演。64年20世紀フォックス)、セネガルなどで11回も制作された。さらに71年にはウィーン国立歌劇場でオペラ上演、2014年にはウィーンでミュージカルになり、日本でも2015・16年に上演された(涼風真世と山口祐一郎)。
背景に、ラッパを吹く2人の天使の吊ものがみえる
この日は、終演後、演出・五戸真理枝、主演のクレール役・秋山菜津子、イル役・相島一之によるシアタートークがあった(進行・中井美穂)。
五戸真理枝は2005年文学座付属演劇養成所入所、10年演出助手、16年久保田万太郎「舵」で初演出と、文学座育ちの演出家だ。
トークを聞いてわかったのは、この芝居をみてわたしが特徴と思ったことは、ほとんど五戸の演出によるものであったことだ。この芝居の演出の特色を3点挙げる。
上記のあらすじを読めば、かなりシリアスかつグロテスクな演劇のようにも思えるが、実際にはわりに明るく華やかな芝居だった。その要因にもおおいに関係する。
この芝居にはミュージカルのように何曲かの曲が出てきた。「第三の男」のテーマ、シューベルトだかモーツァルトだったかの子守唄、「故郷を離るる歌」(さらばふるさと、さらばふるさと、ふるさとさらば)、ウクライナの戦争で注目された映画「ひまわり」のテーマなどで、最後のフィナーレは4本のスタンドマイクを並べ、12人の役者が歌っていた。練習中、「昭和歌謡」と呼ばれていた、とか。劇場では歌詞まで聞き取れなかったが、市川明訳では
「とてつもないことがよく起こる。
激しい地震 噴火する山 津波 戦争もしかり穀物畑を蹂躙する戦車
太陽のように熱い原爆のきのこ雲」
「しかし何にもましておぞましいのは貧困
貧困はつまり天変地異ではない
貧困は情け容赦なく人類を包みこみ
不毛の日々を積み重ねる」
(略)
「私たちを守りたまわん 神よ
音を立てて動き、変転するこの時代においても繁栄を
聖なる宝を守りたまえ、平和を守りたまえ 自由を守りたまえ
夜は遠くにありて われらの町を暗くすることなかれ
新しく誕生したこの壮麗な町を
われらがこの幸せを幸せに味わわんがために」
この芝居のテーマソングのようになっているクレールの「殺されたって死なないわ」は詞は台本通りだが、曲は秋山さん作曲、何度が出てくる「森の歌」も練習中に曲ができたようだった。牧師/ロビー役・外山誠二の生ギター演奏もあった。
音楽がたくさん出てくるので、シリアスに感じないという一面があった。
次に、天井から吊るされた「ギュレン」「交番」「イルの店」といった文字看板が目立った。
ト書きにも「ギュレンという文字が表れる」と書かれているが、天井から大きな文字の看板を吊るしたところが「演出」の力なのだろう。トークでは「異化効果」という言葉も使われていた。
なお「黄金の使途」ホテルのシンボルのラッパを吹く2人の天使も意味深だ。わたしはキリスト教の門外漢だが、ヨハネの黙示録の7人のラッパ吹きあるいは大天使に関係があるのかもしれない。クレールの結婚の場では、バッハのマタイ受難曲が鳴り、コリント人への第一の手紙が朗読されたと書かれている。また照明のトラブルでニュース映画を撮りそこなったため、イルの最後の言葉が1度目は「神さま!」だったが、2度目の撮り直しのときはその言葉が欠落していることに気づいた。短い間に「神はいない」ことを悟ったのだろう。こんなふうにキリスト教との関係も深い脚本なのだろうと思う。わたしにそういう素養が少しはあればよかったのにと思った。
3つ目に、衣装が黄色と白を基調にしていた。それは気がついていたが、トークで五戸から説明があった、芝居が進行するにつれ黄色が増え、それだけでなく布地が薄っぺらく安っぽくなるというところまでは気づかなかった。わたくしの席が2階席だったせいもあるかもしれない。
黄色の衣装、黄色の靴は原文にもあり、演出ではない。しかしどんどん薄っぺらく安っぽくなる点は五戸の演出だ。また黄色は舞台を華やかにした。
小さなことだが、舞台で葉巻きをふかすと煙のかわりにシャボン玉が出てきた。ちょっと寓話を感じさせる見ばえでよかった。
。
いろいろ工夫されていたことは評価する。ただ、こまつ座でよくみた栗山民也、鵜山仁、木村光一のような「感動」する芝居とは作り方が違うようだった。
その点は演出者の個性なのだろう。
役者では、秋山菜津子、相島一之が芸達者であることはよくわかった。わたしは秋山菜津子は、こまつ座の「キネマの天地」(2011)と「きらめく星座」(2017)で観たことがあった。そのときは、まだこんなに力のある役者だと思わなかったので、今回拝見して得をした。また山野史人(ふびと)、加藤佳男が味のある演技をしていた。わたしは、理由はわからないが、医者役の福本伸一が気になった。機会があれば本拠地のラッパ屋の芝居を観に行きたい。
ロビーにあった熊のぬいぐるみ。芝居に関係あるのかと思ったが、黒豹は出てきたが、熊は関係がない。コロナ予防のマスク着用のPR用か?
☆観劇の前にデュレンマットの「犬」という8pの短編を読んだ(岩淵達治訳 河出書房新社「世界文学全集 3-06」2010年11月)。
毎日町のあちこちの広場で聖書の文句を朗々と唱え、説教するぼろ服をまとった男がいた。漆黒の毛皮、硫黄のように黄色い目、黄色の歯並みの巨大で恐ろしい犬といつもいっしょだった。男の後を追うと、半地下の部屋で、娘と2人で住んでいた。
「父はたくさんの工場をもつ富豪だったが、人びとに真理を告げ知らせるために、わたしの母や兄弟を捨てた」という。ある日娘が突然ぼくの部屋に現れ「犬を殺してちょうだい」「今すぐ」という。あわてて武器をもち部屋に行ったが、少し遅く、床には、黒い血だまりのなかの白い肉塊となった男が横たわっていた。
ところが3日後の夜ふけ、娘がまるで羊のように静かに音もたてずに歩いていくのをみかける。丸く黄色い、きらきらと輝く眼をした犬と並んで。
ほとんど怪談である。真理を求める元・富豪の老人など「貴婦人の来訪」との共通点がみられる。また寓話的でもある。
●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。