多面体F

集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

さようなら、岩波ホール

2022年06月20日 | 映画

岩波ホール閉館になるというニュースを聞いたのは、今年の1月か2月のことだった。足かけ3年にわたる新型コロナ禍の影響もあるのだろう。もちろんエキプ・ド・シネマは知っていたが、わたしはそれほどなじみ深かったわけではない。ホールに行ったのは2、3回だけだったと思う。しかし、日本の映画史のひとつのエポックだと思う。
過去の上映作品一覧をみると、「フェリーニの道化師」「自由の幻想」「旅芸人の記録」「大理石の男」「伽耶子のために」「八月の鯨」「眠る男」「ハンナ・アーレント」は見たことがあるが、はたしてこのホールでみたのか、他の映画館あるいはレンタルビデオでみたのか思い出せない。
閉館するまでに一度は行こうと決意した。
やっと実現したのは6月半ば、最終上映作「歩いて見た世界――ブルース・チャトウィンの足跡(ヴェルナー・ヘルツォーク監督 サニーフィルム 2019)だった。
岩波ホールは神保町交差点の南西の角・岩波神保町ビルの10階にある。席数200弱の中規模ホールだ。エレベータを下りると赤いじゅうたんで贅沢さは感じる。朝一番の10時半の回だったのでガラガラかと思ったら、1/3ほど埋まっていた。女性2対男性1くらいの比率、平日午前だからそんなものだろう。BGMでシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」が流れていて心地よい。

ブルース・チャトウィン(1940-1989)はイギリス・シェフィールド生まれの作家。パタゴニア、オーストラリアなどを旅し、「パタゴニア」(1978)、「ウィダーの副王」(80)、「黒ヶ丘の上で」(82)、「ソングライン」(87)などの小説を書いた。
映画は、チャトウィンの旅と生涯をテーマにしているのはたしかだが、監督自身が語ったように伝記映画ではない。チャトウィンの未亡人、チャトウィンの伝記の著者、アボリジニを研究するチャトウィンと旧知の人類学者、チャトウィンが深い関心を抱いたパタゴニアやアボリジニに縁のある人たちへのインタビューの記録(ドキュメンタリー)になっている。
なんといっても監督自身が1983年にメルボルンで、アボリジニの神話好きということで知り合い、チャトウィンが亡くなるまでよき友だった。年齢もチャトウィンが2歳上と近い年代だ。わたしはヘルツォークの映画は「フィツカラルド(1982)しかみていない。エンリコ・カルーソのテナーをインディオに聞かせようとした主人公が、船を山越えさせる映画だった。面白い映画だったし、刺激も強かった。カンヌ映画祭の監督賞受賞作だ。
ヘルツォークの語りも何度も出てくる。ドキュメンタリー映画で監督自身のモノローグが出てくることはしばしばある。ただ制作者としての言葉が多いが、この映画ではヘルツォークも10人あまりの登場人物の一人という感じでチャトウィンについて語る。そこが普通のドキュメンタリーとは少し違う。

ロビーに年度順に掲示されている上映作品の数々

映画はチャトウィンの処女小説「パタゴニア」で始まり、10代のチャトウィンが自転車でよく訪ねたイギリスの遺跡やウェールズのブラックヒル、オーストラリアのアボリジニ、南サハラの放浪者ウォダベ族などを訪ね、死の2年前に発刊された、放浪するアボリジニを描く「ソングライン」で終わる。
一方でヘルツォークの映画「コブラ・ヴェルデ」(87)、「ウォダベ 太陽の牧夫たち」(89)、「彼方へ」(91)など4作の一部が引用される。「コブラ・ヴェルデ」の原作はチャトウィンの「ウィダーの副王」で、メルボルンではじめて出会ったころから映画化したいと話していた。チャトウィンは撮影現場にもきてくれた。ヘルツォークが南パタゴニアの山で「彼方へ」を撮影したとき55時間雪山に閉じ込められ、そのときチャトウィンにもらったリュックの上に座って寒さをしのぎ命拾いしたというエピソードも語られる。「ウォダベ」には西サハラの若い男性が妻を獲得するため、年に一度着飾り化粧し美を競う「グレウォール」の画像が映し出されたが、ほんとうにきれいだった。また「彼方へ」で、命綱もカラビナもつけず素手でパタゴニアの崖上りをする伝説のクライマー、シュテファン・グロヴァッツの動画には手に汗を握った
不思議な作品だが、最後の「本は閉じられた」で、人類学者がチャトウィンの「ソングライン」の一節「アボリジニの人々は、死が近づくと長い旅をして――。(略)彼らは死に向かいつつ――ユーカリの木陰で、ほほえんでいた」と朗読するシーンなど、この劇場の最後の上映作にふさわしいと思った。
閉館まで1ヵ月以上あるが寂しいことだ。

九段下の区立千代田図書館で「ありがとう 岩波ホール」という企画展示を開催していた。わたしが見た時期は、年代別に数作品をピックアップし、スタッフの思い出とともに紹介する展示を開催していた。

また京橋の国立映画アーカイブで「日本の映画館という企画展をやっていた。まさに岩波ホールの閉館に合わせた企画かとみにいったら、そういうわけではなかった。
1897年3月の神田錦輝館に始まり現代までの映画館を4期にわけ、エキプ・ド・シネマは「名画座とアート系劇場」で、1962年「尼僧ヨアンナ」で始まったアート・シアター・ギルドアート作品を積極的に日本に紹介する映画館の志を引き継いだミニシアターと位置付けられていた。展示品も「大樹のうた」のポスター、「ピロスマニ」など代表的な映画のパンフ13点、総支配人・高野悦子(故人)の著書などだけだった。65か国270本の映画を上映したという意義はしっかり評価されていた
日本の映画産業のデータ(1946-2021年)があり、映画館の数は1960年の7457館、入場者数は58年の11億2745万人が最大、ただ公開作品数は2019年の1278作(外国映画689,日本映画589)が最高だ。エキプ・ド・シネマの貢献も含まれているのだろう。
わたしが一番通ったのは銀座並木座や池袋文芸座で、そのリーフはなつかしかった。展示はされていなかったが、渋谷全線座、新宿蠍座などもなつかしい。企画展から脱線する話だが、映画館ではないが、四谷公会堂で連続上映された大島渚の作品シリーズ、大学の大教室を使った「初国知所之天皇(はつくにしらすめらみこと 原將人監督 1973)や「極私的エロス恋歌1974(原一男監督 1974))も忘れられない。ただそんな話を書き始めるとキリがなくなる。
その他、入場券刺し(高知小劇)や銀座シネパトスで香川京子が座ったシートなど、映画館の「文化財」的な「物」もあって楽しかった。銀座シネパトスは2013年3月に閉館した三原橋の映画館だが、記念に「インターミッション(樋口尚文監督)という映画をつくり最後の上映作品とした。インターミッションとは映画の休憩時間の意味で、観客たちの人間模様を描いた映画だった。ちょうどこの年の3月半ばラジオ深夜便に支配人役の秋吉久美子がゲストで出ていて(ただし再放送)、この映画の話をしていた。それであわてて閉館まぎわに行った思い出がある。地下だからか、三原という居酒屋もあった。

☆何事にも終わりはある。神保町周辺でも、1丁目1の三省堂は閉店ではなく建替えだが、5月8日にビルを閉鎖し、新ビルでの営業はたしか5年後だった(現在は旧ビクトリアで仮営業中)。また岩波ビル南のビルも解体中だった。
西側のアネックスの神保町ブックセンターは、岩波直営でないことは知っていたが、岩波の本を優先的に置いていて感じがよかった。書籍の背をみると、さすが岩波と思える良書が多かったが、映画館のような歴史をたどってほしくないものだ。ブックセンターはもちろん書籍・雑誌の販売も続けているが、スペースはむしろカフェ部分が大きそうだった。1000円のランチは結構繁盛しているようだった。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。


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