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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

旅人にやさしかった大洲、内子、そして松山

2018年09月21日 | 
1960年代にNHKの朝ドラ「おはなはん」で有名になった大洲で、驚くような博物館を見つけた。「大洲レトロタウン 思ひ出倉庫」だ。
館内に入ると、「二人の銀座」( 和泉雅子 山内賢)、「虹色の湖」(中村晃子)、「白い色は恋人の色」(ベッツィー&クリス)など60年代後半の歌が聞こえてくる。

昭和30年代のまちの情景は映画「三丁目の夕日」などで有名になり、たとえば石神井の練馬区立ふるさと文化館や青梅の昭和レトロ商品博物館など、日本中いろんなところにミュージアムがある。多くは駄菓子屋やブリキのおもちゃの展示が多い。ところがこの施設は、その水準にとどまらず、散髪屋、バイク屋、ボタン屋、貸雑誌屋などが当時の店頭そのままのかたちで再現されている。60年代の飲み物というと「スカッとさわやかコカ・コーラ」だったが、ビン・缶ともに商品モデルの変遷が並んでいる。そして公平性を図るためか、ペプシやクラウンも同じようにたくさん並んでいた。
おそらくわたくしより年長の団塊の世代のマニアの方が「情熱」を傾けて収集された個人コレクションだろうと思った。受付の方に聞くと、そうではなく、まだ59歳の方のコレクションということなのでまったく驚いた。7月の豪雨災害でお気の毒にも本業の喫茶店は大きな被害にあったが、この施設は助かった。いったい元は何の建物だったかお聞きすると、家具だかの倉庫だったので、温度変化にも比較的耐えられる建屋なのだそうだ。あまりにも暑い日で、これだけコーラをみると飲みたくなった。驚くべきことに屋外にはコーラの昔の自販機があり販売中だった。150円だったが、もちろん買って飲んだ。今のようにペットボトルでなく、機械に付いている栓抜きで金属の栓を抜く形式だった。
脇にタバコ屋、駄菓子屋、辻遊び道場などの店が並ぶポコペン横丁があった。黒い板塀にはマツダランプ、ウテナ粉白粉、ハト印赤線ビニールなどホウロウ製の広告看板が山のように掲示されていた。残念ながら日曜のみ営業とのことだった。
その他、大洲商業銀行の建物を使った赤煉瓦館、おはなはん通り、明治の家並、少し離れた場所に大洲城があった。「おはなはん」だけでなくテレビや映画のロケ地としてもよく利用されているようで、「東京ラブストーリー」(永山耕三・本間欧彦 フジテレビ1991年)でリカが完治に気づかれないよう、 密かに完治のマンション宛に別れの手紙を投函した赤ポスト、「男はつらいよ19作 寅次郎と殿様」(山田洋次 松竹77年)で殿様(嵐寛壽郎)に寅さんがラムネをご馳走した茶屋(ただし茶屋はいまは残っていない)、「となり町戦争」(渡辺謙作 角川映画2007年)のロケ場所「ポコペン横丁」などに「おおずロケ旅」の表示があった。観光用のものだけでなく、寿司屋の隣に、いまだに民進党の蓮舫党首のポスターが貼られているのをみてこのレトロさは「天然」か、と思った。
なおJRの伊予大洲駅から、城など古い町並みが残っている地区までバスで5分ほどかかる。このあたりは商業地としてはサビれ、駅に近い地域が繁盛しているそうだ。ところが7月の水害は肱(ひじ)川そのものでなく、能力以上にダムの放流をやりすぎたための決壊で、被害にあったのは駅に近いほうの地域だったそうだ。そういうことで、古い町並みや城はなんの被害もなかった

左から2軒目が大江健三郎の生家
大洲から電車で15分、内子も町並み保存で有名な町だ。駅からバスで16分、わたくしはレンタサイクルで40分ほどかけて行ったが、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎氏の生家が内子町大瀬にある。駅から1キロくらいのところを国道379号線が走っており、それを道なりに8キロほど行けばよいだけだ。8キロで40mほどのゆるやかな上りだが基本的に林間コースで人家は少ない。初めて走るところなのでときどき不安になった。肱川の支流・小田川に沿っているので、
少なくとも景色は涼しい感じがした。
目的地は大瀬本町の成留屋地区だ。街道沿いに酒店、米穀店、電器店、種苗店、宅急便取扱い店、愛媛新聞販売店などが並ぶ古い商店街だ。旧村役場はすぐのところ、小学校も100mくらいのところなので集落の中心部だったと考えられる。ただ大江家は商家ではないし、もちろん観光施設ではない。健三郎は男4人女3人の7人兄弟の5番目の子だった。近所の人に伺うと父は和紙の原料・ミツマタを集める仕事をしていたが、その後ガスを商うようになり、斜め前に大江燃料店という看板の家があった。いまは長男の子ども(孫かもしれない)が小学校の教員になり、家を守っているとのことだ。母・小石さんが生きておられたころは時おり奥方・ゆかりさんや子どもを連れて帰郷することもあった。母校の大瀬小学校で光さんのコンサートをしたこともあった。小石さんは毎日のように大瀬中学の近くにある庚申堂にお参りしていたので、1994年に再建されたときに健三郎が「庚申堂」という題字を書いたそうだ。大江は1935年1月生まれなので、小学校は国民学校時代の大瀬小学校に入学した。校舎は昨年黒い木造に建て替えられたばかりで、石造りの校門だけ当時のものかもしれない。中学は47年開校の新制大瀬中学の1期生のようだ。現行憲法施行の年だった。中学も1992年大江の友人、原広司の設計で新築された。そして内子駅の近くにある内子高校に50年入学したが2年になるとき松山東高校に転校し、伊丹十三と知人になった。
なお、内子高校には42回全国高校文化祭長野大会に吹奏楽部がアルプホルンで出場56回インターハイにライフル射撃で出場という珍しい種目の看板がかかっていた。
1994年暮れのノーベル文学賞受賞後は大瀬を訪問することはまったく途絶えたそうだ。本人が望まなかったのか、公民館で聞いても資料コーナーのようなものもなさそうだった(旅行後に気づいたが、お遍路さんの宿泊施設になっている「大瀬の館」に書籍や資料が展示してあるそうだ。ただ原則無人の施設なので、見学するのは難しいかもしれない)。大江の小説によく出てくる森や谷間はこんな雰囲気だったのだろうかとイメージしつつ自転車を走らせた。

大瀬の森や谷間
といってもわりに熱心に読んでいたのは『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』(1982)ごろまでだった。ただ『取り替え子』(チェンジリング 2000年)は読んだように思う。いちばん好きな小説はなんといっても『万延元年のフットボール』(1967)だ。

大瀬からの帰り道、内子に入るあたりに道の駅「からり」がある。一見したところ野菜・果物など農産品のかなり大きな直売所とレストランがある普通の道の駅にみえる。しかしただ者ではなかった。2015年に国交省が全国の道の駅から全国モデルとして選んだ6つのうちの1つで、17年には農林水産祭「むらづくり部門」で内閣総理大臣賞・農林水産大臣賞を受賞した。
スタッフの方に、その理由をお聞きした。まず地域で採れた農産物しか置かないこと、次にトレーサビリティ(出荷者情報)まで含めたIT化、POS化が進んでいることを挙げた。梨、ぶどう、桃、柿などの果物で有名な土地だが、特産品としてもち麦という麦、花粉症に効果があるナリムチンを含むじゃから、内子豚などがある。直売所の商品には大小2種のQRコードが付いていて、客がその場でトレーサビリティ(栽培履歴)を閲覧し「安心感」を得ることができる。それを支えたのは、勉強会から始まりいまでは400人が登録する出荷者協議会だ。直売所を経営するのは第3セクターの(株)内子フレッシュパークだが、会社はシステム構築とパソコン取扱い方法をアドバイスするだけで、生産者が自分で入力することになっている。入力しなければ出荷・陳列することも代金の受取すらできない。徹底している。
その背景には、内子町が1970年代から町並み保存を展開し、自力の地域おこしを続けてきたことがあるそうだ。したがって平成の大合併も内子にとってはメリットがないので、町のまま残った。その実力と自信があるということだ。
7月の洪水では内子にはなんの被害もなかったが、特産品の内子豚の食肉処理場やもち麦の精米施設が町外にあり稼働しなくなったため大きな被害を受けたとのことだった。サプライ・チェーンが複雑に広がるなか、想定外の突発事態が生じる社会の反映のようだ。
昼食にうどん処「あぐり亭」でもち麦の天ぷらうどんを食べた。一見そばのように黒っぽいが太くしっかりした麺だった。天ぷらというとエビを想像するが、この店はがぼちゃ、なす、ピーマン、大葉など野菜の揚げ物だった。野菜はなんでもできる土地だそうだ。

ツム・シュバルツェン・カイラーの「シュバイネ・ブラーテン」
内子の町並みはたしかによく保存されていた。白蝋の取扱いで明治の豪商になった上芳我(はが)邸、大正10(1921)年ころの薬屋の生活と商売を展示する「商いと暮らし博物館」、大正5(1916)年、町の旦那衆18人が発起人として開設した芝居小屋の内子座など大きな施設や重要文化財がいくつもある。それらすべての施設の周囲の通りや交差点を含めた町並み全体の保存がすばらしい。
メインストリートをかなり上がった本芳我邸の隣に「ツム・シュバルツェン・カイラー」というドイツ料理店がある。創業5年目で、ドイツ人のマスターと日本人の奥さまが2人でやっている店だ。意味は「黒い猪」だそうだ。マスターが好きなパソコンゲームがあり、ゲームに出てくる居酒屋の名がこれで、もし自分が店を始めるならこの名がよいとずっと考えていたので、この店名になったとか。聞いてみないとわからないエピソードである。
注文したメインは「シュバイネ・ブラーテン」だが、まずビールと「内子チーズとドイツ香草のカプレーゼ」をお願いした。カプレーゼとは何かわからなかったが、カプリ風のサラダとか前菜ということのようだった。基本的にはトマトとチーズだが、内子チーズとは何か。内子の酪農家と蔵王や北海道で修業したチーズ職人が共同してつくった工房の産直チーズだそうだ。
シュバイネ・ブラーテンは、何日も乳清に漬け込んだ豚肉をホロホロになるまで数時間煮込んだ料理だ。肉ももちろんだが突合せのマッシュポテトやパンもおいしかった。
ママさんは東京や京都やドイツにも住んだことがある。しかし東京は人間が住む場所ではないと失望し、郷里の愛媛県(ただ内子ではないそうだ)に戻ることにし、内子で店を開いた。
内子はドイツ南部にあるローテンブルクと2011年に姉妹都市盟約を締結した。ローテンブルクは第二次大戦で町が破壊され町並み保存を熱心に取り組んだという縁があり、20年以上前から内子の中高校生をローテンブルクに派遣していた。そんなこともあり、ドイツ料理店をオープンするに当たり、大変親切にしてくれたそうだ。難点は古い家屋で断熱性が悪く、夏は暑く冬が寒いことだそうだ。本格的なドイツ料理店は西日本にはほとんどないそうで、わたくし自身7年前にベルリンで食べて以来だったので、旅先の「ここで食べられる」とは感激した。

道後温泉本館
今回は、大洲、内子、松山の3泊4日の旅で、ブログ(9月13日の記事含む)に書いた以外では、松山で、3階に「坊っちゃん」の間のある道後温泉本館、子規記念博物館、学校では伊丹の母校、松山東高校と南高校、旧制松山高校や松山農科大学などを母体とする愛媛大学、寺では四国霊場51番札所・石手寺、城は大洲城と松山城にも寄った。松山東高校の正門近くには安倍能成の胸像があった。
松山は意外に大きな町で、デパートでは三越と高島屋の両方があった。もう30年以上前のことだが、岐阜が人口40万人で、松山や、西宮、船橋などと同規模という話を聞いたことがあった(現在の松山の人口は51万人)。たしかにそのくらいの規模や歴史がありそうだった。
なお愛媛大学のミュージアムはなかなか充実している。ちょうど「明治150年 明治時代の四国遍路展」が開催中だった。遍路は1周するだけでなく、2周以上する人が2割もいて、しかもその半分は7~24周もしている、とか明治の神仏分離令で変更になった札所が88のうち9か所も出現したことなど、知らなかった事実を知った。またわたくしはみていないが、この大学は昆虫のコレクションが北大、九大に次ぐ国内3位で、その展示を見られるそうだ。

大洲「思ひ出倉庫」のコカ・コーラのコーナー(左はクラウン・コーラ)
わたくしが行ったのは大洲、内子、道後温泉、松山だけだが、愛媛はお遍路さんを歓迎しもてなす「伝統」があるからか、どこに行ってもホスピタリティが豊かなように感じた。観光施設やレストラン、交通機関のスタッフは質問するとどこでも親切・ていねいに教えてもらえた。だからこんなに長い記事を書くことができる。さらに路面電車の運転手がわからなくても、横で話を聞いていたお客さんが自分のスマホで調べて教えていただけるようなことまであった。また「漱石が教えた旧制松山中学がNTTの近くにあったはずだが、どこかに石碑がないか」と通行人に聞くと「自分のまちの歴史や文化なのに何も知らずすみません」とあやまられてしまい、恐縮したこともあった。お遍路へのもてなしだけでなく、城下町の伝統もあるのかもしれない。要するに、旅人にやさしい街ということだ。
そういえば、ドイツ料理店のマスター、チーズ工房の職人、旅の案内所 「旅里庵(たびりあん)のスタッフも県外からの移住者だ。
この記事で、愛媛の7月の被災に触れたが、道後温泉で客が激減しているという話を聞いた。「当時テレビで映すのは、いちばん被害が大きかった地域ばかりで、なんの影響も被害もなかった観光地が多くあるので、ぜひ知らせていただきたい」との切実な要望を伺った。
愛媛に限らず、倉敷、広島、北海道などほかの被災地でも同じようなことがありそうだ。
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