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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

住宅都市・練馬のはじまり

2010年09月28日 | 博物館など
今年3月、石神井池の南側に「石神井公園ふるさと文化館」が開館した。練馬区の歴史や文化を展示する博物館で、同様の施設は北区、豊島区、文京区、品川区などたいていの区が設置している。この文化館も旧石器時代の石斧、縄文時代の土器に始まり、各時代の資料が多く展示されている。練馬といえば名産・練馬大根なので、都市近郊の農村社会の発展の様子が詳しく展示されていたが、わたくしは近郊住宅地としての練馬に関心があり、住宅開発の部分に絞り紹介したい。

練馬には1915(大正4)年4月武蔵野鉄道(池袋―飯能間)が開通し、石神井公園、練馬の2駅、22年には旧制武蔵高校開校にともない江古田駅が設置された。そして宅地開発がスタートした。21年城南文化村(現在の向山住宅)の組合が結成され、24年には東京商科大学(一橋大学)誘致をめざし箱根鉄道(現在のコクド)が大泉学園都市の建設に着工した。目白文化村第1次分譲が22年、田園調布が23年、成城学園が25年、玉川学園が33年なので山手線外側としてはかなり早い時期に当たる。
また石神井公園や武蔵関公園が整備され、26年には樺太工業(後の王子製紙)専務・藤田好三郎が自身の所有地3.6万坪を公開し遊園地・豊島園を開園した。

その10年後の1935年の武蔵野電車沿線整理地鳥瞰図が展示されていた。これによると大泉長寿郷、富士見台、石神井の3つの分譲地がった。また一方大泉だけでなく貫井、中村橋、中新井、江古田で土地区画整理が進展していた。豊島園や石神井公園のほかに、江古田の北には府立第十高女(現在の豊島高校)、大泉には新興キネマ東京撮影所や豊島師範、森永の牧場が描かれていた。このほか武蔵高校や1929年に開校した武蔵野音楽学校もあったはずである。また成増の南側(現在の豊渓小・中の場所)に兎月園という遊園地があり映画館、ボート池、運動場を備えていた(43年閉園)。
人口は1920年には2.1万人だったが、25年に3万人、30年に4.1万人と順調に増えていった。
鳥瞰図に描かれているように、35年大泉に新興キネマ東京撮影所が完成した。新興は松竹系で人情喜劇を得意とした。監督では牛原虚彦や久松静児が所属し、スターでは河津清三郎山路ふみ子が有名だった。42年の戦時統合で大日本映画(大映)になったが、スタジオが6つもあったため大泉は直後に閉鎖された。新興キネマの12年のあいだに277本の映画が完成した(立花忠男「新興キネマ モダニズム篇」2002年ワイズ出版 )
撮影所は戦時中は軍需工場として使われ、戦後47年に太泉(おおいずみ)スタジオという貸スタジオになり51年に合併して東映・東京撮影所になった。
練馬区(1947年設置)の人口は戦後、1950年に12.5万人だったのが55年に18.5万人、60年に30.5万人とめざましく増加した。55年までの5年間の増加率は48%で、23区で江東区に次ぐ2位、60年までの増加率は64%で1位だった。それも2位板橋の2倍だった。とりわけ57年から60年の4年は毎年10%も増えた。

57年の大泉学園第一団地のパンフレットが展示されていた。50年に始まった住宅金融公庫融資制度を利用した建売住宅で、戸数20戸、敷地は61-66坪、建築面積13-16坪。土地代66-72万円、建築費54-66万円、その他設備費9.8万円で合計131-150万円(公庫融資限度59-69万円)。60万円借りた場合、月収は最低3.3万円必要で、第1回返済額は5527円とある。物価がよくわからないが、給与から推測すると現在の20分の1くらいだろうか。なお少し後の68年の物価は、映画観覧料201円、入浴料23円、ビール大瓶115円、米(1kg)112円、鶏卵(10個)245円、テレビ(14型)57100円とあり、ものによりインフレ率には大きな差があることがよくわかる。

1960年代の石神井公園駅南口が再現されていた。実物大の交番、たばこ屋、中華そば屋があり、たばこ屋の前にはミゼットが駐車していた。中華そば屋のメニューは、中華そば50円、タンメン70円、カレーライス70円、カツ丼80円、オムライス80円、ぎょうざ30円、氷(イチゴシロップ)15円などいやにリアルな料金設定だと思ったら写真のとおり石神井公園南口を下車し向かって左側の実在した店のメニューだそうだ。価格は63年当時のもの。
もう一つ1972年の民家が再現されていた。居間には三洋のFMラジオや扇風機がある。電話は、ダイヤル式黒電話でなつかしい。郵便入れにEXPO70のガイドブックが入っており、壁にはビクターのスターカレンダーがかかっていた。7-8月はゴムボートやオールを背にした三田明と佐良直美、9-10月はボウガンを手にした森進一だった。
子ども部屋の机には、手動鉛筆削りやそろばんなどいまはもうないものも置いてあり、つくづく時間の流れは大きいと思った。
練馬区の人口は、69年に50万、88年に60万、そして2008年4月についに70万を突破した。人口70万というと政令指定都市の岡山市や静岡市クラスである。東京23区では世田谷に次ぐ大きさだ。
住宅地と直接関係があるわけではないが、現代の練馬の「地場産業」、アニメの発祥についてふれる。56年東映の大川博社長が「東洋のディズニー」を目標に東映動画を東大泉に創設した。58年には白蛇伝、63年にはテレビアニメ「狼少年ケン」を制作した。東映動画が「西遊記」(60)を制作した際、原案構成のため通っていたのが手塚治虫だった。
手塚は、このときの経験を生かし61年に手塚動画プロダクション(のちの虫プロ)を富士見台の住宅地に設立した。
また東映動画から500-600mほど離れた北大泉に松本零士が住んでおり、78年に松本の原作「銀河鉄道999」を東映動画が制作し大ヒットした。この文化館には「さよなら銀河鉄道999」の台本やセル画が展示されていた。

☆道を隔てた向かいには、明治20年代に中村に建てられた茅葺農家・旧内田家が復元されている。名主の家だったので建築面積は190平方メートルあり、板の間にはいろりが切ってある。昭和の住宅とはスケールが違う。当初は4室だったが、07年に解体するときには6室と納戸に増えていた。
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