わたくしは、昔から村山知義や賀川豊彦のようないくつもの才能をもつ多面的な人物に興味がある(典型は15世紀のダ・ヴィンチだが)。
そんな一人で、もっと新しいメディア時代のマルチタレントとして、伊丹十三がいる。
「お葬式」「マルサの女」などの映画監督のイメージが強いが、それは1984年51歳以降の顔である。監督になる前に、商業デザイナー、イラストレーター、エッセイスト、俳優、テレビマン、CM作家と、雑誌・書籍・テレビ・広告のメディアの世界をまたぐ6つの顔があった。さらに、伊丹十三記念館の展示では音楽愛好家、料理通、乗り物マニア、猫好き、精神分析啓蒙家という側面にもスポットを当てているが、やや趣味に近いので、ここでは省略する。
松山の中心商業地・大街道から砥部行きの伊予鉄バスで15分ほど、東石井に伊丹十三記念館がある。開館は2007年5月、延床面積860平方メートルの施設である。生まれてから松山東高校生徒までの少年・池内岳彦(本名・義弘)伝を加え13のテーマから成る常設展示がある(このパートのみ撮影可能だった)。
岳彦は1933年5月、京都・鳴滝生まれ。5歳で東京・祖師谷に転居、世田谷区立桜第一小学校入学、8歳で再び京都に戻り、師範付属国民学校に転入、6年で特別科学教育学級に編入。これは敗戦直前の45年1月から2年だけあったエリート養成制度で、東京では平川祐弘、鈴木淑夫、藤井裕久らが出身生だ。
小学1年のときの野菜の絵
まず驚くのが、岳彦少年小学1年のときのナス、キュウリ、サヤエンドウの野菜の絵である。父・万作の松山中学時代の友人で俳人の中村草田男が大事に保管していた。なんとも味のある絵だ。よく見ると観察力が際立っていることがわかる。朝顔日記、玉葱日記などもあるが、アゲハ蝶のスケッチがすばらしい。ナミアゲハという和名のほかPapilio xuthusという学名まで付されているが、それが活字体のレタリングのような書体なのだ。高校生時代の作かと思ったら小学6年のときの作とあり、「天才だ!」と驚いた。
小学6年のときのナミアゲハのスケッチ(昆虫観察ノート)
46年京都府立一中(現・洛北高校)に進学するが、半年後の9月父・万作が死去、48年山城高校付設中学に転校し49年高校進学、しかし50年1月以降は休学し、50年4月松山東高校に転入した。2年生のときに大江健三郎が県立内子高校から転入し親しくなる。当時のクラス写真が展示されていた。名門校だが、男性26人、女性24人が写っている。男女共学に変わり、旧制中学と女学校が統合されて間もなくのころだ。しかしなぜか半年後の10月から休学し、52年4月東南に2キロ弱の松山南高校2年に転校し、54年に卒業した。のちに伊丹の妹・ゆかりが大江の妻になり親戚になるが、わずか半年のつきあいだったわけである。
卒業後、上京し商業デザイナーになる。文藝春秋社の雑誌「漫画読本」の社内吊り広告(60年ごろ)、安岡章太郎の単行本(66年 文春)、さらにATGの「アート・シアター」(創刊号から13号まで担当)が並んでいた。図案家、版下屋と呼ばれていた時代(いまはグラフィック・デザイナー)で題字のレタリングやカットまで自分で描いていたのが伊丹らしい。
デザイナー時代に河出書房の「知性」の編集者・山口瞳とも知り合った。山口がこの編集部にいたのは3年ほどの短期間なので、やはり伊丹は運が強い。目次デザインや車内吊り広告を担当した。
「伊丹万作全集」(筑摩)、山口瞳の単行本の装丁、漫画読本の車内吊り、「アート・シアター」
イラストレーターの顔もある。「ミセス」(文化出版局)のブーツや傘などの細密なイラストは小学生のときのアゲハ蝶を思い出させる。「女たちよ!」(文藝春秋社)の、たとえば室尾犀星の顔やダッグウッド・サンドウィッチの正しい持ち方のユーモラスな線画をみると、80代の晩年のピカソのクロッキーを思い起こさせる(少しオーバーかも)。映画「妹」で、壁面に青空の絵を描きながら自死する俳優・伊丹がいたが、もしかするとあの絵も伊丹自身の作品だったのかもしれない。監督になる前、俳優以外の仕事でわたくしたちがいちばん知っていたのはイラストレーターの顔だったのかもしれない。
犀星の顔(「女たちよ!」)とバッグ(「ミセス」71年)
エッセイスト 伊丹のエッセイの単行本は「ヨーロッパ退屈日記」「女たちよ!」「日本世間噺大系」(いずれも文藝春秋社、現在は新潮文庫で読める)「問いつめられたパパとママの本」(中央公論社)など多数あるが、わたくしは1冊も読んでいないのでなんともいえない。ただ今回「ガイドブック」に収録されているエッセイのごく一部(20篇くらい)を読んだ。だいたい400字詰め2―7枚程度(特別短いものは200字前後)だが、どれもエッセンスが効いていて秀作だった。
俳優 伝説の「北京の55日」(ニコラス・レイ)や「ロード・ジム」(リチャード・ブルックス)は観ていないが、日本映画の「日本春歌考」(大島渚1967)、「妹」(藤田敏八1974)、「もう頬杖はつかない」(東陽一1979)、「家族ゲーム」(森田芳光1983)などは印象が強くよく覚えている。俳優生活の始まりは1960年(27歳)の大映のニューフェイス(芸名・一三)だったというので驚いた。「おとうと」(市川昆1960)、「金瓶梅」(若松孝二1968)、「わが道」(新藤兼人1974)、「スローなブギにしてくれ」(藤田敏八1981)、「細雪」(市川昆1983)、「居酒屋兆次」(降旗康男1983)、「草迷宮」(寺山修二1983)にも出ていたそうだ。見れば思い出す、と思う。
テレビマン 国鉄提供・テレビマンユニオン制作、1970年10月スタートの「遠くへ行きたい」に71年4月からレポーターとして出演、73-74年には「天皇の世紀」(大佛次郎原作、テレビマンユニオン制作)に出演、製作スタッフの役割も果たしていたようだ。
わたしはその当時はテレビをほとんど見ていないので、番組のこともわからない。しかし77年の「アート・レポート」はクリストやウォーホールの作品も出てきたようで、ちょっと見てみたくなる。
CM作家 「ジョニー・ウォーカー・赤」、松下電器・冷蔵庫ビッグ「ルーツ篇」、「西友のお中元」、味の素マヨネーズ「かあちゃんの手紙篇」、タカラCANチュウハイ「伊丹宣言篇」などをつくった。これも上記「テレビマン」と同様、見ていないので記憶にない。ただし注目すべきCMとして「一六タルト」のシリーズがある。
この記念館の案内表示に「伊丹十三記念館/ITMグループ本社」とあった。ITMは伊丹の略かというくらいに考えて、受付で聞くとICHIROKU TOTAL MIXTUREの略だそうだ。わたくしは一六タルト自体知らなかったのだが、愛媛では有名とのことで、それなら松山との縁、あるいは松山東高校の縁でつくったのかと思ったら、まったく違った。一六本舗の玉置泰社長が一六タルトの新しいを企画したとき、電通提案のタレントリストに名を見つけて伊丹に決め、渋谷で会った。そして湯河原の伊丹邸で「成績篇」「手洗い篇」「贈物篇」の3タイプ(各30秒と15秒)を撮影し、79年年頭から県内で放映を始めた。伊丹が松山弁で「もんたかや。まあ一六タルトでもお食べや」と語りかけるCMで話題になった。
その後、玉置社長は伊丹映画第1作「お葬式」から9作「マルタイの女」まで全作品の製作を務めた。さらに伊丹プロダクションの社長、伊丹の死後は伊丹十三記念館を運営するITM伊丹記念財団の理事長も兼務している。記念館ももともと一六本舗の敷地だった場所にある。
映画監督 やはりこれがすごいと思う。先にも触れたように監督第1作「お葬式」は1984年11月51歳の作品で最後の9作「マルタイの女」が96年64歳の作品なので、13年間のものだ。
20年くらい前にみた映画もいくつもあるが、半年ほど前に、まだ見ていなかった「タンポポ」(1985)、「大病人」(1993)、「静かな生活」(1995)、「スーパーの女」(1996)、「マルタイの女」(1997)の5本をまとめてみた。面白かった。もう一度「マルサ」「ミンボーの女」や「お葬式」をみたくなった。今回見た5本のなかで一番可能性を感じたのは、意外かもしれないが原作・大江健三郎の「静かな生活」(1995)である。
企画展は今回が4回目で「おじさんのススメ」。「食事、酒、お洒落」「デザイン」「自作の宣伝」など4ジャンルから成るが、常設展の12の顔のうちいくつかを、さらに深く突っ込んだ展示だった。
その一角に父・伊丹万作コーナーがあった。「無法松の一生」のシナリオで有名な万作(1900-1946)は息子を上回る波乱万丈の人生で、1926年26歳のときには松山で中学時代の友人3人で「おでん屋」を営業したこともあった。しかし経営不振で1年しか続かなかった。もっと詳しく知りたかったが、受付の方に聞くと、かつて企画展で扱ったことがあり人気がよかったので、その一部をいまも展示しているとのことだった。
中庭には桂の木が草のなかに1本植えられている。展示のトップに宮本信子館長がビデオで「中庭の草の上で腹這いになって本を読んでいる人がいる。伊丹十三だ。そばにはシャンパンのグラス」と語っていたまさにその風景だ。
屋外には一見馬小屋あるいは納屋かと思ったら、イギリスの紺色のベントレーが止まっていた。乗り物マニア・伊丹最後の愛用車だったそうだ。
ガイドブックとチケット
ショップコーナーでDVDや書籍が販売されていた。ガイドブックは文庫本サイズで472pもある充実した書籍だ。税込1404円だったのでさっそく買い求めた。伊丹の2大特徴は、知的好奇心と、卵焼きのエピソードにみられるように「凝り性」であったことがあることがよくわかった。
かつて新書版サイズのガイドブックをつくりたいという要望があり、100pくらいの博物館ガイドをつくったことがあったが、こういう手もあるとわかった。
ブックカバーは黒一色、袋も透明ビニールに入った黒の紙だった。記念館の外観も黒だが、イメージカラーはシックな黒のようだ。
伊丹十三記念館
住所:愛媛県松山市東石井1丁目6番10号
電話:089-969-1313
休館日:毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
料金:大人800円 高・大学生500円 中学生以下無料
大街道のバー露口の店内
せっかく松山に行くのならと、伊丹記念館と同じくらい期待していたのが大街道のバー露口だ。今年8月で開店60年、80代の露口貴雄さんが店主、奥方の朝子さんと2人で営む13席のサントリー・バーだ。長い間、浜田信郎さんのブログ「居酒屋礼賛」を愛読しているので、わたくしにとっては何年も前から来ている店のような気がした。お二人のお人柄も、想像どおり、浜田さんの記述のままで、なじみの感じがした。
ブログ効果か、わたくしより前に並んでいる方がいた。大阪から来訪されたそうだ。開店直後から6-7人客が入っていた。壁には吉田類さんの色紙とサントリーの故・佐治敬三社長の「燦」という色紙が飾ってあった。吉田さんは高知出身で、高知と愛媛の居酒屋を訪ねる番組をもっていてその取材で来られたとか。
昨年末に亡くなった「花へんろ」の脚本家・早坂暁氏の話などで盛り上がった。わたくしは、その日訪れた伊丹記念館や前日に行った大江健三郎生家のことを調子に乗って話したが、地元の方も含め、みなさん結構熱心に話を聞いてくださった。
なお浜田さんは今年もお盆のころ来訪されたとか。また早坂さんと同じ北条出身の方らしい。
そんな一人で、もっと新しいメディア時代のマルチタレントとして、伊丹十三がいる。
「お葬式」「マルサの女」などの映画監督のイメージが強いが、それは1984年51歳以降の顔である。監督になる前に、商業デザイナー、イラストレーター、エッセイスト、俳優、テレビマン、CM作家と、雑誌・書籍・テレビ・広告のメディアの世界をまたぐ6つの顔があった。さらに、伊丹十三記念館の展示では音楽愛好家、料理通、乗り物マニア、猫好き、精神分析啓蒙家という側面にもスポットを当てているが、やや趣味に近いので、ここでは省略する。
松山の中心商業地・大街道から砥部行きの伊予鉄バスで15分ほど、東石井に伊丹十三記念館がある。開館は2007年5月、延床面積860平方メートルの施設である。生まれてから松山東高校生徒までの少年・池内岳彦(本名・義弘)伝を加え13のテーマから成る常設展示がある(このパートのみ撮影可能だった)。
岳彦は1933年5月、京都・鳴滝生まれ。5歳で東京・祖師谷に転居、世田谷区立桜第一小学校入学、8歳で再び京都に戻り、師範付属国民学校に転入、6年で特別科学教育学級に編入。これは敗戦直前の45年1月から2年だけあったエリート養成制度で、東京では平川祐弘、鈴木淑夫、藤井裕久らが出身生だ。
小学1年のときの野菜の絵
まず驚くのが、岳彦少年小学1年のときのナス、キュウリ、サヤエンドウの野菜の絵である。父・万作の松山中学時代の友人で俳人の中村草田男が大事に保管していた。なんとも味のある絵だ。よく見ると観察力が際立っていることがわかる。朝顔日記、玉葱日記などもあるが、アゲハ蝶のスケッチがすばらしい。ナミアゲハという和名のほかPapilio xuthusという学名まで付されているが、それが活字体のレタリングのような書体なのだ。高校生時代の作かと思ったら小学6年のときの作とあり、「天才だ!」と驚いた。
小学6年のときのナミアゲハのスケッチ(昆虫観察ノート)
46年京都府立一中(現・洛北高校)に進学するが、半年後の9月父・万作が死去、48年山城高校付設中学に転校し49年高校進学、しかし50年1月以降は休学し、50年4月松山東高校に転入した。2年生のときに大江健三郎が県立内子高校から転入し親しくなる。当時のクラス写真が展示されていた。名門校だが、男性26人、女性24人が写っている。男女共学に変わり、旧制中学と女学校が統合されて間もなくのころだ。しかしなぜか半年後の10月から休学し、52年4月東南に2キロ弱の松山南高校2年に転校し、54年に卒業した。のちに伊丹の妹・ゆかりが大江の妻になり親戚になるが、わずか半年のつきあいだったわけである。
卒業後、上京し商業デザイナーになる。文藝春秋社の雑誌「漫画読本」の社内吊り広告(60年ごろ)、安岡章太郎の単行本(66年 文春)、さらにATGの「アート・シアター」(創刊号から13号まで担当)が並んでいた。図案家、版下屋と呼ばれていた時代(いまはグラフィック・デザイナー)で題字のレタリングやカットまで自分で描いていたのが伊丹らしい。
デザイナー時代に河出書房の「知性」の編集者・山口瞳とも知り合った。山口がこの編集部にいたのは3年ほどの短期間なので、やはり伊丹は運が強い。目次デザインや車内吊り広告を担当した。
「伊丹万作全集」(筑摩)、山口瞳の単行本の装丁、漫画読本の車内吊り、「アート・シアター」
イラストレーターの顔もある。「ミセス」(文化出版局)のブーツや傘などの細密なイラストは小学生のときのアゲハ蝶を思い出させる。「女たちよ!」(文藝春秋社)の、たとえば室尾犀星の顔やダッグウッド・サンドウィッチの正しい持ち方のユーモラスな線画をみると、80代の晩年のピカソのクロッキーを思い起こさせる(少しオーバーかも)。映画「妹」で、壁面に青空の絵を描きながら自死する俳優・伊丹がいたが、もしかするとあの絵も伊丹自身の作品だったのかもしれない。監督になる前、俳優以外の仕事でわたくしたちがいちばん知っていたのはイラストレーターの顔だったのかもしれない。
犀星の顔(「女たちよ!」)とバッグ(「ミセス」71年)
エッセイスト 伊丹のエッセイの単行本は「ヨーロッパ退屈日記」「女たちよ!」「日本世間噺大系」(いずれも文藝春秋社、現在は新潮文庫で読める)「問いつめられたパパとママの本」(中央公論社)など多数あるが、わたくしは1冊も読んでいないのでなんともいえない。ただ今回「ガイドブック」に収録されているエッセイのごく一部(20篇くらい)を読んだ。だいたい400字詰め2―7枚程度(特別短いものは200字前後)だが、どれもエッセンスが効いていて秀作だった。
俳優 伝説の「北京の55日」(ニコラス・レイ)や「ロード・ジム」(リチャード・ブルックス)は観ていないが、日本映画の「日本春歌考」(大島渚1967)、「妹」(藤田敏八1974)、「もう頬杖はつかない」(東陽一1979)、「家族ゲーム」(森田芳光1983)などは印象が強くよく覚えている。俳優生活の始まりは1960年(27歳)の大映のニューフェイス(芸名・一三)だったというので驚いた。「おとうと」(市川昆1960)、「金瓶梅」(若松孝二1968)、「わが道」(新藤兼人1974)、「スローなブギにしてくれ」(藤田敏八1981)、「細雪」(市川昆1983)、「居酒屋兆次」(降旗康男1983)、「草迷宮」(寺山修二1983)にも出ていたそうだ。見れば思い出す、と思う。
テレビマン 国鉄提供・テレビマンユニオン制作、1970年10月スタートの「遠くへ行きたい」に71年4月からレポーターとして出演、73-74年には「天皇の世紀」(大佛次郎原作、テレビマンユニオン制作)に出演、製作スタッフの役割も果たしていたようだ。
わたしはその当時はテレビをほとんど見ていないので、番組のこともわからない。しかし77年の「アート・レポート」はクリストやウォーホールの作品も出てきたようで、ちょっと見てみたくなる。
CM作家 「ジョニー・ウォーカー・赤」、松下電器・冷蔵庫ビッグ「ルーツ篇」、「西友のお中元」、味の素マヨネーズ「かあちゃんの手紙篇」、タカラCANチュウハイ「伊丹宣言篇」などをつくった。これも上記「テレビマン」と同様、見ていないので記憶にない。ただし注目すべきCMとして「一六タルト」のシリーズがある。
この記念館の案内表示に「伊丹十三記念館/ITMグループ本社」とあった。ITMは伊丹の略かというくらいに考えて、受付で聞くとICHIROKU TOTAL MIXTUREの略だそうだ。わたくしは一六タルト自体知らなかったのだが、愛媛では有名とのことで、それなら松山との縁、あるいは松山東高校の縁でつくったのかと思ったら、まったく違った。一六本舗の玉置泰社長が一六タルトの新しいを企画したとき、電通提案のタレントリストに名を見つけて伊丹に決め、渋谷で会った。そして湯河原の伊丹邸で「成績篇」「手洗い篇」「贈物篇」の3タイプ(各30秒と15秒)を撮影し、79年年頭から県内で放映を始めた。伊丹が松山弁で「もんたかや。まあ一六タルトでもお食べや」と語りかけるCMで話題になった。
その後、玉置社長は伊丹映画第1作「お葬式」から9作「マルタイの女」まで全作品の製作を務めた。さらに伊丹プロダクションの社長、伊丹の死後は伊丹十三記念館を運営するITM伊丹記念財団の理事長も兼務している。記念館ももともと一六本舗の敷地だった場所にある。
映画監督 やはりこれがすごいと思う。先にも触れたように監督第1作「お葬式」は1984年11月51歳の作品で最後の9作「マルタイの女」が96年64歳の作品なので、13年間のものだ。
20年くらい前にみた映画もいくつもあるが、半年ほど前に、まだ見ていなかった「タンポポ」(1985)、「大病人」(1993)、「静かな生活」(1995)、「スーパーの女」(1996)、「マルタイの女」(1997)の5本をまとめてみた。面白かった。もう一度「マルサ」「ミンボーの女」や「お葬式」をみたくなった。今回見た5本のなかで一番可能性を感じたのは、意外かもしれないが原作・大江健三郎の「静かな生活」(1995)である。
企画展は今回が4回目で「おじさんのススメ」。「食事、酒、お洒落」「デザイン」「自作の宣伝」など4ジャンルから成るが、常設展の12の顔のうちいくつかを、さらに深く突っ込んだ展示だった。
その一角に父・伊丹万作コーナーがあった。「無法松の一生」のシナリオで有名な万作(1900-1946)は息子を上回る波乱万丈の人生で、1926年26歳のときには松山で中学時代の友人3人で「おでん屋」を営業したこともあった。しかし経営不振で1年しか続かなかった。もっと詳しく知りたかったが、受付の方に聞くと、かつて企画展で扱ったことがあり人気がよかったので、その一部をいまも展示しているとのことだった。
中庭には桂の木が草のなかに1本植えられている。展示のトップに宮本信子館長がビデオで「中庭の草の上で腹這いになって本を読んでいる人がいる。伊丹十三だ。そばにはシャンパンのグラス」と語っていたまさにその風景だ。
屋外には一見馬小屋あるいは納屋かと思ったら、イギリスの紺色のベントレーが止まっていた。乗り物マニア・伊丹最後の愛用車だったそうだ。
ガイドブックとチケット
ショップコーナーでDVDや書籍が販売されていた。ガイドブックは文庫本サイズで472pもある充実した書籍だ。税込1404円だったのでさっそく買い求めた。伊丹の2大特徴は、知的好奇心と、卵焼きのエピソードにみられるように「凝り性」であったことがあることがよくわかった。
かつて新書版サイズのガイドブックをつくりたいという要望があり、100pくらいの博物館ガイドをつくったことがあったが、こういう手もあるとわかった。
ブックカバーは黒一色、袋も透明ビニールに入った黒の紙だった。記念館の外観も黒だが、イメージカラーはシックな黒のようだ。
伊丹十三記念館
住所:愛媛県松山市東石井1丁目6番10号
電話:089-969-1313
休館日:毎週火曜日(火曜日が祝日の場合は翌日)
開館時間:10:00~18:00(入館は17:30まで)
料金:大人800円 高・大学生500円 中学生以下無料
大街道のバー露口の店内
せっかく松山に行くのならと、伊丹記念館と同じくらい期待していたのが大街道のバー露口だ。今年8月で開店60年、80代の露口貴雄さんが店主、奥方の朝子さんと2人で営む13席のサントリー・バーだ。長い間、浜田信郎さんのブログ「居酒屋礼賛」を愛読しているので、わたくしにとっては何年も前から来ている店のような気がした。お二人のお人柄も、想像どおり、浜田さんの記述のままで、なじみの感じがした。
ブログ効果か、わたくしより前に並んでいる方がいた。大阪から来訪されたそうだ。開店直後から6-7人客が入っていた。壁には吉田類さんの色紙とサントリーの故・佐治敬三社長の「燦」という色紙が飾ってあった。吉田さんは高知出身で、高知と愛媛の居酒屋を訪ねる番組をもっていてその取材で来られたとか。
昨年末に亡くなった「花へんろ」の脚本家・早坂暁氏の話などで盛り上がった。わたくしは、その日訪れた伊丹記念館や前日に行った大江健三郎生家のことを調子に乗って話したが、地元の方も含め、みなさん結構熱心に話を聞いてくださった。
なお浜田さんは今年もお盆のころ来訪されたとか。また早坂さんと同じ北条出身の方らしい。