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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

若松孝二の「わが映画履歴書」

2010年04月20日 | 集会報告
4月15日(木)冬に舞い戻ったような寒い夜、阿佐ヶ谷市民講座で「若松孝二 わが映画履歴書」というインタビュー形式の講演会が開催された。
少し遅れていったため、わたしは監督のプロフィール紹介から聞いた。

若松監督は1936年宮城県遠田郡涌谷町生まれ。農業高校1年で中退、家出し上京した。新宿で安田組のヤクザの下働きなどをし、57年に逮捕され半年間勾留された。拘置所で反抗的だったのでいじめられ、「警官をいつか殺してやろう」、「やっつける方法として『表現』しかない」と考えた。執行猶予付きで出所し、ロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手を務めた。しかし日本テレビのプロデューサーにあまりにも不条理なことを言われてイスを振り上げて追いかけまわした。そして田舎に帰るしかないと覚悟を決めたとき、成人映画のマネジャーから「300万で好きなものを撮ってよい。ただし女性の裸を入れることが条件」との誘いを受けた。
63年に「甘い罠」で監督デビューした。最後は「おまわりをぶち殺す」映画だった。
以降「ピンク映画の黒澤明」と呼ばれ、年に10本も撮る人気監督となった。当時の成人映画は、乳首も尻の割れ目もスクリーンに出すことはできず、10分に1回ベッドシーンを入れることが「お約束」だった。
壁の中の秘事(1965)、「裏切りの季節」(1966)、「犯された白衣(1967)、「性賊 セックスジャック(1970)、「赤軍―PFLP・世界戦争宣言(1971)の5本の一部をつないだDVDが上映された。背中にケロイドのある男、スターリンの写真、低く流れるチェロの「赤旗の歌」、共産同の沖縄返還粉砕ジグザグデモなど、シュールで激しい画面だった。
●赤軍―PFLP・世界戦争宣言
「赤軍―PFLP・世界戦争宣言」(71)は、若松孝二と足立正生が、パレスチナゲリラの「日常」を写したドキュメンタリー映画である。
この映画を撮ったきっかけについて、監督は次のように語った。
71年「性賊 セックスジャック」がカンヌ映画祭に正式招待され、足立正生とパリに行くことになり、足立が帰りにレバノンでPFLPのドキュメンタリーを撮りたいと言い出した。PFLPとのコネは、新宿でカンパ要請を受けた重信房子に頼めばよいという。当時日本ではベトナムは話題になってもパレスチナのことはほとんど知られていなかった。
レバノンの日本大使館で「重信にギャランティを支払うこと、必ずベイルートに連れて帰ること」という誓約書を提出し、3人でヨルダンの山の上のPFLPのキャンプに出かけた。2週間ほど毎日軍事訓練、綱渡り、塹壕堀りをやらされ、ちっともカメラを回させてもらえなかった。最後の日に「今日中に映画を撮って山を降りろ、インタビューも受ける」と言われた。夕方まで撮りまくり米や鶏の食事をもらい山を降りた。翌日ベイルートの新聞で、彼らが全員つかまり殺害されたことを知った。昨日まで足立と2人で柔道や空手を教えてやり、いっしょにタバコを吸った連中だった。そのときパレスチナはこういう国であることを日本で知らせなければいけないと考えた。
帰国して編集作業を行い、バスを買って赤く塗った「赤バス」を巡回させ、全国で上映を行った。鹿児島の上映隊長が岡本公三だった。
監督は、「腹が立つから映画をつくる。これが原点だ。映画を撮りたくなるのは腹が立ったときだ」と述べた。
●実録・連合赤軍 あさま山荘への道程
実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(07)は、若松監督が自費制作し08年公開されキネマ旬ベスト・テン日本映画第3位に選ばれた。なぜこの映画を撮ろうとしたのかとの問いに監督は次のように答えた。
連合赤軍をテーマにした映画として、「鬼畜大宴会(熊切和嘉監督 1997)、「光の雨(高橋伴明監督 2001)、佐々淳行原作の「突入せよ!『あさま山荘』事件(原田眞人監督 02)などがある。自分はつらくてなかなか撮れなかったが「突入せよ」をみて堪忍袋の緒が切れた。青年たちがやったことをきちんとした形で残そう、これだけは撮っておかないと映画監督としてダメだと考えた。そして名古屋の映画館や別荘を売り資金をつくり、最後の映画のつもりでつくった。
「実録」とあるとおり、K三兄弟の末弟が「俺たち、みんな勇気がなかったんだよ。俺もあんたも」というセリフは坂東から聞いた話に基づく。この映画は事実に基づいてつくったつもりだ。
最終的に5時間に及ぶ映画になったが、最後の攻防戦を中心に3時間15分にカットした。粛清は全員の分を撮影したが大幅に切った。映画研究者などからカットした分は残っていないかとよく聞かれる。持っていると直したくなるのでカット屑すらない。
俳優への演技指導について次のように語った。
俳優は基本的にオーディションで選んだ。山で生活するときにリュックに何に詰めるか、とか当時の衣装も自分で探させた。すると初めの一週間たるんでいた役者の顔つきがどんどん変わっていった。坂東国男役の大西信満君は撮影が終わるころには針金のような髪になっていた。このくらい追い詰めた。この映画は群集劇なので、カメラを向けていてもいなくても全員芝居をするようにと言った。だからどのカットでもみんないい顔をしている。
不思議なことだが、ARATAは坂口弘に、大西信満は坂東国男に、菟田高城は吉野雅邦に、顔がとてもよく似ている。
原則はオーディションだったが、永田洋子役の並木愛枝(あきえ)さんだけは違う。2004年のぴあフィルムフェスティバルでグランプリを取った「ある朝スウプは」でヒロインを演じており、とてもうまかったので受賞パーティのとき「いっしょに仕事をしませんか」と声をかけた。
●キャタピラー
キャタピラー」は、今年2月寺島しのぶが第60回ベルリン映画祭最優秀女優賞を受賞した映画である。8月に全国の劇場で公開される予定だ。
この作品と主演の寺島について、若松監督は次のように語った。
「実録・連合赤軍」の青年たちの行動の背景には、侵略戦争に対し親世代がいっさい反省していなかったことがあった。青年たちの行動を説明するにはその前のこと、すなわち戦争の映画をつくらないと、新宿騒乱や連合赤軍の青年のことはわからない。
寺島しのぶさんは、子どものころどこの村にもいたお母さんを思い起こさせる。モンペが似合う女優だ。どうしてもやってほしかった。しかし、どうせ断られるだろうと思いながら助監督に脚本を届けさせると、思いがけず引き受けていただけた。
撮影予定は14日間だったが、集中して撮ったので10日で終了した。また「実録・連合赤軍」で、一番つらく当った大西君を、主演男優に抜擢した。

今後の抱負として、監督は次のように語った。岡山で母親をバットで殴り殺した17歳の少年が自転車で逃走する「17歳の風景 少年は何を見たのか(04)、もうすぐ17歳になる少年が登場する「実録・連合赤軍」を撮った。もう1本17歳の映画を撮りたい。
1960年10月日比谷公会堂で浅沼稲次郎・社会党書記長を刺殺した山口二矢(おとや)を主人公にしようとしたが、60年ころの風景を映画でつくるとなるとカネがかかりすぎる。それで三島由紀夫を入れた映画をつくろうかと考えた。三島が「憂国」を書いたのは61年1月。山口の影響を受けている。そして連合赤軍と同じく5人で70年に陸上自衛隊東部方面総監部に乗り込んだ。右翼であれ左翼であれ、何かを思い行動した人間の生き様を撮りたい。
昭和の事件としてだれも撮らないことを映画にしたい。これを語らないと昭和を語れないというような映画を・・・

☆わたくしが覚えている若松監督の映画は、クロロホルムを室内に噴霧し、女性の意識をなくし連続暴行した男(内田裕也)が主人公の「水のないプール」(82年1月)だ。脚本は内田栄一で、わたくしは内田栄一の天皇制を揶揄した芝居が好きで、よく見ていた。その関連で見にいった。ちょうど若松監督の舞台あいさつがあった日で「自分は内田さんのファンだが、今後も内田さんのシナリオで撮りますか」と内田ファン丸出しの質問をし、「機会があればいっしょにやりたい」というような返事をお聞きした。その後84年に「スクラップストーリー ある愛の物語」が制作された。
故・内田栄一については、そのうちこのブログで紹介したい。ただ内田さんの基礎データが少なすぎるのだが。
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