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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」

武蔵学園記念室でみた旧制7年制高校

2010年04月09日 | 日記
西武池袋線江古田駅南口を降り千川通り沿いに6分ほど歩いたところに武蔵学園がある。この学校はいまから80年以上前の1922年に7年制の旧制武蔵高校として創立した。旧制7年制高校は全国に9校(官立1校、公立3校、私立4校、文部省所管外の台北高校)設置され、その他高等科というかたちで宮内省所管の学習院があった。武蔵高校はこのなかで最も古く、東京高校と同じ1921年に設立、22年(大正11年)4月に第1回入学式を挙行した。

正門の右手に開校から6年後の1928年に竣工した大講堂があり、2階に武蔵学園記念室が設置されている。創立70周年を記念し94年5月にオープンした施設である。
学校創立、旧制高校、大学などのブロックに分けて写真や資料がたくさん展示されている。わたしはかつて、ある旧制7年制高校の記念誌を手伝ったことがあり、関心があり訪れた。
この学校は、東武鉄道社長で甲州財閥の根津嘉一郎(1860年8月~1940年1月)が設立した私立高校であることは知っていた。
1917年9月新高等学校令が公布され、7年生高校の設置が認められようになった。21年9月根津は根津育英会を設立し、同年12月高等学校設立が文部省に認可された。11人の評議員には、根津のほか、一木喜徳郎(枢密顧問官 のちに宮内大臣)、宮島清次郎(日清紡績社長)、正田貞一郎(日清製粉社長)、山川健次郎(東京帝大、京都帝大総長等)らの名前がある。一木は静岡、宮島は栃木、正田は横浜出身で、とくに山梨出身者のグループというわけではない。
また少なくとも宮島や正田は名前を借りるというレベルではなく、開校後12年たった1934年でも原則として毎月開催された理事会に、理事長の根津とともに出席している。備品購入について「植物学教室用ライカ引伸器用レンズ76円、尋常科理化用品スカンクの剥製標本50円(コレハ教科書ニ載セテアルモノニシテ教材トシテ是非必要ナルモノナリ)」などとあり、かなり細かい物品まで審議・承認していたことがわかる。
生徒は80人募集したところ1102人が応募した。すごい人気である。1922年4月17日の第1回入学式の写真があった。12歳の少年たちの集合写真だが、みんな賢そうにみえた。10時半から行われた入学式で、一木校長から三理想の訓示があった。
 1.東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物を造ること
 2.世界に雄飛するにたえる人物を造ること
 3.自ら調べ自ら考える力ある人物を養うこと
開校当初から国際人の育成を目標にしていたことがわかる。

壁に掛かった旧制高校の写真には、篭球(バスケットボール)部インターハイ優勝(1933年)、蹴球部インターハイ優勝(37年)、剣道部と弓道部インターハイ優勝(40年)の記念写真があった。旧制高校は37校(帝大予科を入れると40校)あり、一高や三高は1学年300人以上の規模だが、武蔵は尋常科入学者80人という小規模校なので、よく健闘している。なお20年間教頭と校長を務めた先生の好みで、野球、ラグビー、柔道はなかった。たとえば、野球は「くせ球」(カーブ)や盗塁があり、紳士のスポーツとはいえないという見解だった。
皇紀2600年(1940年)の記念植林の写真があった。場所は西武池袋線・武蔵横手で、山林1万坪を購入し檜を植えた。2600年というと、一般には祝賀パレードや講堂での式典のイメージが強いが、よほど気が利いている。
武蔵高校開校に伴い、1922(大正11)年に武蔵野鉄道武蔵高等学校用仮停留所が現在の江古田駅より西寄りの武蔵野稲荷神社付近に設置された。当初は朝と夕の通学時間に1本ずつ停車したらしい。それまで電車は池袋、東長崎、練馬しか停まらなかった。昔のJR並の駅間隔である。
寮は開校半年後の9月に設置された。しかし東京出身者が圧倒的に多く、東京在住の生徒も含め寮生は40―60人と少なかったそうだ。

記念室では武蔵学園史年報を発刊している。「旧制高校に関心がある」というと第5号(99年12月発行)をいただいた。328pもある立派なものだ。内容は1928-47年の理事会記録、1960―65年の経営懇談会記録、1922-42年の校務記録と史料解題である。
開校半年後に教頭が書いた校務記録は興味深い。たとえば9月22日外部から「本校生徒池袋駅前にてボールを遊び一般通行人に妨害を加え数日前老婆の頭にあてて一斉に笑いたり」という投書が届いた。中学1年なのでありそうな話だが先生方もたいへんだ。
7学年そろった28年度の終わりのころには「校友会の諸部の実施に当り高等科生と尋常科生とを混じて行うことは健康上よりも又思想の上からも面白くない現象が表れたから生徒課及校友会各部長に於いて深き注意をせられたい」「大学生と本校生徒の交渉は危険の伴う虞あるからなるべく避けるよう注意する」などとある。
武蔵学園史年報には巻末に解題が付いている。史実に基づく考察が記されており、秀逸である。
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