文化逍遥。

良質な文化の紹介。

2018年オーストリア・ドイツ映画『17歳のウィーン』

2020年07月30日 | 映画
 7/27(月)、千葉劇場にて。監督は、ニコラウス・ライトナー。ドイツ語の作品で、原題は『Der Trafikant』。辞書やネットで調べてみたが、「Trafikant」という言葉は見当たらない。「Trafik」という「(新聞・雑誌なども扱う)タバコ屋」を意味する女性名詞がオーストリア方言としてのっているので、あるいは、「タバコ屋の男」を意味する男性名詞として「Der Trafikant」という言葉を使っているのかもしれない。もっともオーストリアでは、自分たちの話しているのは「オーストリア語」であって「ドイツ語」ではない、という人達も多いと聞き及んでいる。なので、「オーストリア方言」などどいっては𠮟られるかもしれない。

 主演となる17歳のフランツ役にジーモン・モルツェ。現代心理学の祖ジーグムント・フロイト役にはブルーノ・ガンツで、この作品が遺作となった、とリーフレットにある。





 悲しい映画だ。
 主人公のフランツは、ウィーンにある「雑貨も扱うたばこ店」に、田舎から見習いとしてやって来る。時は、1937年。ナチスドイツが台頭し、1938年3月13日にオーストリアはドイツに併合される。そんな、激動の時代にあって、フランツが働く店の周囲には様々な人々がやって来る。隣の精肉店の夫婦はナチの信奉者。やってくる客の中には共産主義の労働者、そしてユダヤ人の心理学者フロイト。更には、フランツが思いを寄せる女性はボヘミア人なのだった。複雑な環境の中で苦しみ、悶えるかのように恋をするフランツ。いつしか親しくなったフロイト教授にはロンドン亡命を進言するしかなくなり、やがて孤独の中でゲシュタポに連行されてゆく。

 夢と現実を幻想的に対比させる映像は、鈴木清順の「チゴイネルワイゼン」を思い起こさせた。

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わたしのレコード棚ーブルース97 Willie Dixon

2020年07月27日 | わたしのレコード棚
 およそ、ブルースのオムニバスアルバムなどでは取り上げられることが少ないが、音楽上のバックアップあるいは興行する上で、下支えする重要な役割を果たした人がいる。今回取り上げるウィリー・ディクソン(Willie Dixon)は、シカゴのブルースシーンを支えた重要なミュージシャンだ。おそらく、この人がいなかったら、シカゴブルースは、現在のような隆盛はなかったろう、と思われるほど。以下、手元の資料をまとめてみる。

 生まれは1915年7月1日で、ミシシッピー州ヴィックスバーグ。1936年頃にシカゴに出て、様々な職に就き、ボクサーなどもしていたらしい。1939年頃からはベーシストとしてシカゴのクラブなどで演奏を始めている。その頃は第2次世界大戦が激しくなる頃で、徴兵制に基づき陸軍に徴兵される。しかし、これを拒否して獄中生活を送ったらしい。徴兵を拒否した詳しい理由は不明だが、「良心的徴兵忌避(conscientious objector)」であったという。戦後の活躍は、ここに書ききれないくらいだが、あまり表立ったことをするのが、あるいは本人があまり好まなかったのかもしれない。1982年に「ブルースヘヴン基金(Blues Heaven Foundation)」という非営利財団を設立。若手のブルースマン達の支えになるとともに、ミュージシャンの地位向上に務めた。いずれにしろ、各方面から音楽的にも人間的にも厚い信頼を得ていたことは間違いないだろう。亡くなったのは、1992年1月29日にカリフォルニア州のバーバンク(Burbank)だった。肥満体型な人だったので、心臓に慢性的な疾患を抱えていたらしい。

 基本的にはベーシストでありヴォーカリストだが、メロディーメーカーでもあり、詞をつけることもできて、他のミュージシャンへの楽曲の提供も多い。例えば、マディ・ウォータースのヒット曲「フーチー クーチーマン(Hoochie Coochie Man)」は、ディクソンの手によるものだ。作曲家としても「隠れた大物」と言えるだろう。アルバムとしては、チェスレーベルからディクソン名義のボックスアルバムなどもでているようだが、マディ・ウォータースやハウリン・ウルフに比べれば、本人名義のものはやはり少ない。我が家にも、ベーシストとして参加している音源は、ここに書ききれないくらいあるのだが、ディクソン名義のものは下のLP1枚だけだ。正直言って経済的にも起き場所にも余裕はないし、他のミュージシャンとの多くのセッションが聴けることもあり、あえてディクソン名義のレコードを買いそろえる必要もないのではないか、と感じてしまうこともある。


 PRESTIGEレーベルのLP1003、『Willie's Blues with Memphis Slim』。ウィリー・ディクソンのヴォーカルとベース、メンフィス・スリムのピアノ、他に、ギターはWally Richardson、テナー・サックスにAl Ashby、ドラムスにGus Jhonson。PRESTIGEレーベルは、ジャズ系のレーベルなので、音作りも全体には洒落た感じのサウンドになっている。また、メンフィス・スリム以外は、わたしも馴染みが無い人達なので、あるいはジャズ系のミュージシャンたちかもしれない。
 LPジャケット裏の解説(ライナーノーツ)には、録音地はニュージャージー州のイングルウッド(Englewood)で、ほとんどリハーサルなしでレコーディングされたとある。ただし、録音年月日は書かれていない。欧米のレコード解説には、けっこう大事なことが書き漏れていることがある。

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わたしのレコード棚ーブルース96 Casey Bill Weldon

2020年07月23日 | わたしのレコード棚
 ケイシー・ビル・ウェルダン(Casey Bill Weldon)は、本名はウィル・ウェルダン(Will Weldon)。1909年7月10日アーカンソー州パインブラフ(Pine Bluff)の生まれ、としている資料が多い。1920年代にメンフィスに出て「メンフィスジャグバンド」に参加、メンフィス・ミニーと結婚するが1920代後半には別れていたらしい。つまり、1909年の生まれが正しいとすると、10代で結婚・離婚を経験していたことになり、しかもミニーは1897年生まれなので10歳以上年上だったことになる。これは、ブルース史上の謎のひとつ。
 その後は、スライド奏法を駆使したギターで、シガゴで活躍。様々なミュージシャンと共演している。1940年代になると、忽然とミュージックシーンから消え、没年も不詳だ。カリフォルニアなど西に行ったとも、デトロイトに行ったとも、言われている。

 この人に関して下のCD解説などでは、メンフィスで活動したウィル・ウェルダンと、シカゴで活動したケイシー・ビル・ウェルダンは、別人ではないか、という疑問を呈している。実際、下のCDに入っている1927年にアトランタで録音された2曲と他のシカゴなどでの録音を聴き比べると、ギターの奏法や声の質にかなりな相違が感じられる。ジャケットの写真は、1927年に撮影されたものらしいが、ギターを普通に構えている。シカゴでの演奏では、ほとんどがスライド奏法だが、1927年録音では、ストロークに近い奏法で弾いている。スライド奏法では、ウェルダンは膝に置くタイプのハワイアンに使われるようなスクエアーネックのドブロギターを使っていたらしい。音質的にも、シングルコーンやトライコーンのリゾネーターではなく、明らかにスパイダー・コーンのリゾネーターに聞こえる。また、やはりCD解説によると、ウェルダンはハワイアンスタイルのギターリストに教わった、ともある。


 フランスの「FRÉMEAUX & ASSOCIÉS」というレーベルの2枚組CD、FA268。初期のアトランタ1927年録音2曲を含む36曲を収録。1935年から1938年までのシカゴでの録音が主で、ピアノのブラック・ボブ、ウォシュボード・サム、ギターではビッグ・ビル・ブルーンジー、などがバックアップ。1930年代のシカゴのクラブなどで演奏されていた場面を彷彿とさせる名盤。音作りも、ブルースマンには珍しくメジャー・スケールを巧みに取り入れた独自のもので、ご機嫌なサウンドを奏でている。


 CD解説内にある、1941年「シカゴ・デフェンダー」誌に載ったとされる写真。不鮮明で見にくいが、左でジャズギターを抱えているのがジョー・マッコイ(Jo McCoy)で、右でリゾネーターギターを膝に置いているのがウェルダン。1927年に撮影されたという上の写真と比べる、似ているようでもあり違うようでもあり、はっきり識別できない。メンフィス・ミニーは1929年にジョー・マッコイと結婚(2度目?)しているので、彼女が何か語り残していれば別人説について確認できるのだが、今のところ確認できる記録などは出てきていない。


 ココモ・アーノルドとのカップリングCD、YAZOOレーベルの1049。上のCDと重複しているが、7曲を収録。

 後に、ウェルダンの曲を取り上げて自らのレパートリーに加えたミュージシャンは多く、後世への影響は大きい。日本でも、憂歌団のギタリスト内田勘太郎氏は、ウェルダンの音作りー特にスライド奏法でのヴォイシングなどーにかなり影響を受けているようだ。憂歌団が好きな人は、一度ウェルダンを聴いてみることをお勧めしたい。

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わたしのレコード棚ーブルース95 Kokomo Arnold

2020年07月20日 | わたしのレコード棚
 ココモ・アーノルド(Kokomo Arnold)は、1901年2月15日ジョージア州ラヴジョイ(Lovejoy)に生まれ、1968年11月8日にシカゴで亡くなっている。本名は、ジェームス・アーノルド(James Arnold)で、1941年には音楽活動を止めている。と、そこまでは我が家にある資料で確認できる基本的な事柄だが、細かい事跡に関しては資料によって微妙に異なっている。

 下のLP解説によると、18歳でニューヨーク州バッファロー(Buffallo)に出て製鋼所(Steel mill)で働き、職人としての技術を身に着け1929年にシカゴに移ってからも同じ職に就いていた、そのシカゴで、レコード制作に携わっていたジョー・マッコイ(Joe McCoy)に見出され「Old Kokomo Blues」などのヒットを飛ばした、とある。
 一方で、ロバート・サンテリ著『The Big Book Of Blues』によると、以下のようになる・・・ニューヨーク州では農夫として働き、ピッツバーグに出て製鋼労働者(steelworker)になり、密造酒の製作にも関わった。さらに、1930年にメンフィスでGitfiddle Jimという名でレコーディングデビューしたが、これはあまり売れなかった。1934年、デッカ(Decca)レーベルに吹き込んだ『Old Kokomo Blues』と『Milk Cow Blues』がヒットした。

 この『Old Kokomo Blues』と『Milk Cow Blues』の2曲が後のブルースシーンに与えた影響は大きかった。その意味では、アーノルドは、もっと注目されても良い人なのだが、今では忘れられた存在になりつつある。


 ARHOOLIE系のLP、BC4。ピーティー・ウィートストローとのカップリングLPで、『Old Kokomo Blues』と『Milk Cow Blues』を含む1934年から1937年までの8曲を収録。初期の演奏を聴ける貴重なLP。


 YAZOOのCD、1049。ケーシ・ビル・ウェルダンとのカップリングCD。それぞれ7曲ずつ、合計14曲を収録。

 ココモ・アーノルドは、左利きで、すなわちボトルネックを右手にはめてリゾネーターギターを演奏したらしい。声はダミ声で、時にファルセット(裏声)を使い、ギターではスライド音を多用する奏法は、東部の生まれにもかかわらずミシシッピーの香りが強い。実際、YAZOOのCDの解説などには、ミシシッピーに居たことがあるとも書かれている。
 1934年にココモ・アーノルドが録音した「Old Kokomo Blues」は、1928年にスクラッパー・ブラックウェルが録音した「Kokomo Blues」を下敷きに作られている。その「Old Kokomo Blues」とほぼ同じ歌詞・メロディを使って、『Sweet Home Chicago』を1936年にロバート・ジョンソンが録音した。民間伝承音楽とはそういうものなのだが、「著作権」というものが主張されるようになり、今では「伝承」のあり方が大きく変わってしまった。

 40歳で音楽活動を止めたアーノルドの心境は知る由もない。しかし、その後も30年近く生きているので病気などではなかったと考えられる。彼は、手に職を持っていた可能性が高く、そうなると安定した収入が音楽以外にも得ることが出来て、無理に音楽を続ける必然性もなかったのだろう。あるいは、1941年という年を考えると第二次世界大戦が激化する頃なので、鉄の生産が社会的に必要とされていてアーノルドも製鋼労働者に戻った可能性もある。

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2019年アメリカ・スウェーデン映画『デッド・ドント・ダイ』

2020年07月16日 | 映画
 7/15(水)、千葉劇場にて。監督・脚本はジム・ジャームシュ。出演は、アダムドライバーなど。『パターソン』と同じコンビになる。





 基本的には、ゾンビ映画なのだが、死者たちは魂(soul)を物欲に奪われて、それぞれに求めるものを探しに地上に蘇る設定になっている。スマホを手にして「blues tooth」と言いながら彷徨う死者の姿など風刺をこめたコメディの要素も多く、落語でいう「くすぐり」に近く、笑えないこともない。しかし、引き裂かれた内臓をゾンビたちが食べる様なリアルなシーンなどが強烈な印象を残し、わたしはあまり笑えなかった。わたしは、その手のシーンは苦手なので、むしろスクリーンから目をそらしてしまうことも多かった。

 映画の中で、人との関係を断ち切って森の中で一人暮らす「世捨て人」のような孤独な男ボブが出てくる。ミュージシャンでもあるトム・ウェイツ(Tom Waits)が演じているが、このボブにだけはゾンビ達は興味を示さない。当のボブは、遠くから町の騒ぎをスコープを使って眺めているのだった。

 相変わらずの、心憎い演出の作品だ。しかし、やはり、リアルな内臓などを見られない人にはお勧めできない映画ともいえる。

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わたしのレコード棚ーブルース94 Peetie Wheatstraw

2020年07月13日 | わたしのレコード棚
 ダウンホームなブルースピアニストでありヴォーカリストのピーティー・ウィートストロー(Peetie Wheatstraw)。生年は、1905年としている資料もあるが、他のCDや下のLPジャケット裏の解説によると1902年12月21日テネシー州のライプレイ(Ripley)で、亡くなったのは1941年12月21日でイリノイ州のイーストセントルイス。自動車事故により亡くなったという。39歳の誕生日に死んだことになる。

 ピーティー・ウィートストローの父親の名前はジェームス・バンチ(James Bunch)だったことが分かっていて、本名はウィリアム・バンチ(William Bunch)だったようだ。つまり、ウィートストロー(Wheatstraw)は芸名で、意味は普通に考えれば「麦わら」だ。それにどんな意味合いが込められているのか少し調べてみたが、正確なところは良くわからない。黒人に伝わる古い民話から取っているという説もあるが、あるいは風に飛ばされる様な「はかないもの」という意味合いもあるのか、あるいは都会で活動する本人が田舎の雰囲気を醸し出すために使った可能性もある。



 ARHOOLIE系のレーベルであるBLUES CLASSICS 4。A面がギターとヴォーカルのココモ・アーノルド(Kokomo Arnold)で、B面がピーティー・ウィートストローになっているが、実際には相互にバックをつとめたりしている。録音年は、1930年から1938年までのものでLP全体で16曲を収録している。おそらく、シカゴでの録音だと思われる。わたしの好きなLPの一枚だ。ココモ・アーノルドに関しては別のページで書くつもりだが、やはりダウンホームなヴォーカルとスライドギターで魅力を感じるブルースマンの一人だ。
 ピアノとギターのコンビとなると、どうしてもピアノのリロイ・カーと単音奏法ギターのスクラッパー・ブラックウェルと比較したくなる。繊細なタッチが持ち味のリロイ・カー&スクラッパー・ブラックウェルに、ウィートストローも少なからず影響を受け、同時代に活躍していたこともあり、意識していたことは間違いないだろう。我が家にウィートストローの音源は少ないが、1929年頃にイーストセントルイスに移り住み、ミシシッピー川対岸に位置するミズーリ州セントルイスで活躍したギターリストのロニー・ジョンソンなどとも演奏し、200曲近い録音を残しているという。いずれ、機会があればもっと聴き込んでみたいミュージシャンの一人だ。

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わたしのレコード棚ーブルース93 Alex Moore

2020年07月09日 | わたしのレコード棚
 ブルースの方でも、すぐれたピアニストは多いが、アレックス・ムーア(Alex Moore)もその一人。残念ながら、日本ではあまり評価されておらず、音源も限られている。我が家にあるのも、下の写真のLPだけだが、これがなかなかに味わい深くヴォーカルのノリも良い。
 生まれは、資料によりバラツキがあるが1899年頃テキサス州ダラスで、亡くなったのは1989年1月やはりダラスでだったようだ。90歳くらいまで生きたことになり、当時としては稀な長命のブルースピアニストだったようだ。生涯を通じ、おそらく、ダラスのダンスが出来るホールのようなところで演奏し続けた人と思われる。後の、トム・ウェイツなどを思わせるピアノのタッチで、個人的には魅力を感じるミュージシャンの一人だ。


 1969年、ヨーロッパでのブルースフェスティヴァルなどツアーに参加した時に当時の西ドイツ、シュトゥットガルトで録音された一枚。ARHOOLIEの1048。ピアノソロおよびヴォーカル・口笛など、全8曲を収録。録音時に70歳くらいと思われるが、年齢を感じさせない若々しい演奏。あやかりたい。


 ジャケット裏


 LPのジャケット裏にある、ツアー時の写真を大きく撮ったもの。いずれも、百戦錬磨のブルースマン達だが、なんとなく観光旅行に来てリラックスして記念撮影に収まった普通のおじさん達、といった感じで個人的にはとても好きな写真だ。
 後方左から、アール・フッカー、クリーヴランド・シェニエ、マジックサム、キャーリー・ベル、ジョン・ジャクソン、ロバート St ジュディ。座っている人左から、ジューク・ボーイ・ボナー、クリフトン・シェニエ、マック・トンプソン、そして中腰で微笑んでいるのがアレックス・ムーア。
 それにしても、この時のツアーのメンバーは、地域的にも音楽的にも多様で、すばらしい。具体的に詳しく書いていると長くなりそうなのでやめておくが、特にイーストコートのフォークブルースを代表するブルーマンの一人であるジョン・ジャクソンがモダンブルースに混じって入っているのが特筆すべき点だ。こんなメンバーなら、多少料金が高くても是非にも聴きに行きたい。ジョン・ジャクソンは、この時にムーアと同じように録音をしておりARHOOLIE1017でLPを残している。すでに、このブログで取り上げているので、興味のある人はこちらを参照のこと。

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「ライト」ブルース・セッション2020/7/4

2020年07月06日 | ライブ
 毎月第三土曜日恒例の千葉の「ライト」でのブルース・セッション。新型コロナウィルスの感染拡大のため、4月から6月までは営業自粛に伴いお休みしていた。しかし、千葉県からのライブハウスへの自粛要請も6月中旬に解除になり、「ライト」の営業も7月から再開された。「やっとの思い」というのが、お店にも演奏者にも共通の思いだろう。その上で、「ライト」は感染予防のため、入館時に体温測定・手指の消毒、演奏時にもマスクの着用、休憩時の窓開け換気、などの対策をして営業している。
 この日7/4は、九州南部で豪雨被害が発生している。昨年の夏は、ここ千葉県でも台風で大きな被害が出ている。被災された方々にお見舞い申し上げるとともに、コロナ禍の終息と、被災された方々のが日常生活を一日も早く取り戻すことが出来るよう祈念したい。

 さて、この日はやはり参加する人は少なく、寂しい限りだったが、それでも外に出て人に会い演奏することは、自分のやるべき事が分かるような気がするものだ。部屋の中で一人であれこれと考えているのと、実際に思い通りにやれるのかは全く別物なのだ。練習して、それを実践して、また練習して、それの繰り返しの中でしか本当の力はつかない。失敗を恐れず、失敗に学び、そこからまた歩き始めるしかない。


 左側が、わたし。
 さて、この日は前述のとおり参加者が少なかったので、如何せん演奏する機会も多くなった。正直言って古いブルースの音使いしか練習していないので、モダンブルースの曲のバックに回っての演奏では戸惑うことも多い。それもまた、勉強かな。
 自分が歌った曲を覚えている限りで書いておくが、順は不動。
1.Steady Rollin' Man
2.Dust My Broom
3.夜明け前の静けさの中で(オリジナル)
4.Take A Little Walk With Me
5.Cross Road Blues
6.Sweet Home Chicago
7.Walk On
8.Key To The High Way
その他、バッキングで数曲。

 いつもの仲間でいつもの曲をいつものようにやったり、初めての人と手探りで演奏したり、その中でうまくいったり、いかなかったり。そんな、些細なことがいかに大切なことか・・・来月以降もセッションが続けられるよう願うばかりだ。

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2019年北マケドニア映画『ハニーランド』

2020年07月02日 | 映画
6/29(月)千葉劇場にて。監督は、リューボ・ステファノフとタマラ・コテフスカ。





 ギリシャの北に位置する、旧ユーゴスラビアから独立した北マケドニア。首都のスコピエから20キロほど離れた山地の谷間。電気も水道もなく、寝たきりの母や犬や猫と暮らす養蜂家の女性を3年にわたり撮影した作品。
 「ドキュメンタリー」ということになっているが、実際に観てみると、「やらせ」とまでは言わないが、かなりな部分演出があるのではないか、と感じた。寝たきりの老母の姿や、隣に越してきた大家族のトラブルなどのシーンは、普通だったら撮影させないだろう。あるいは、かなりな金銭を代償として支払っている可能性もある。

 マケドニアというと、どうしてもアレキサンダー大王を思い浮かべるが、大王がマケドニア王として活躍したのは現在のギリシャ北部に当たる。国名もギリシャと論争の末、「北マケドニア」となった経緯がある。いずれにしろ、バルカン半島の歴史に大きな比重を占める地域の映像を見られるだけでも観る価値のある作品とは感じた。また、デジタル化された現代社会から取り残されたような生活を営み、そこでは近代化の波が外圧のように迫ってきている。そんな所がヨーロッパ内部にも存在しているのだと、この作品は観る者に語りかけてもいるように思えた。

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