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文化逍遥。

良質な文化の紹介。

2016年フランス・ポーランド映画『夜明けの祈り』

2017年08月19日 | 映画
 8/18(金)、千葉劇場にて。監督アンヌ・フォンテーヌ。フランス語、ポーランド語、ロシア語。原題は『Les Innocentes』でフランス語だが、英語の「innocence(純潔)」と考えていいだろう。実話を基にした作品だという。
 1945年12月、ポーランドのとある田舎にあるカトリック修道院。ドイツめざして進駐してきたソ連兵に集団暴行を受けていたシスターたちの中で7人が懐妊し、出産の日を迎えようとしていた。命の危機を回避するため、ひとりの修道女が、フランス赤十字の女医マチルドに必死に助けを求める。彼女は、事実の残酷さに打たれながらも、なんとか新たな命の誕生を助けようとするが・・・。
 ヨーロッパという複雑な地域の抱える諸問題―宗教・言語・習慣などを巧みに織り込みつつ、性、あるいは人の宿命的な苦しみを描いた優れた作品だった。アンヌ・フォンテーヌという女性監督は、1959年ルクセンブルクの生まれで、フランスで主に活動しているらしい。この人の作品を観るのは初めてだったが、アンジェイ・ワイダ亡きあとのヨーロッパ映画界を支えるだけの力量があるのではないか、と感じた。





 主演のルー・ドゥ・ラージュ他、女優達の演技は真に迫り秀逸。単なる演技ではなく、なにか使命感のようなものさえも感じた。演劇界のことは詳しいわけではないが、日本の俳優さんであんな演技が出来る人がいるかなあ、と残念ながら考えざるを得なかった。

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藤倉一郎著『人類は地球の癌か』2010、近代文芸社刊、

2017年08月09日 | 本と雑誌
 台風5号が列島を縦断。今日8月9日長崎原爆の日は、東日本で台風一過の猛暑。東京でも体温以上の気温になりそうだ。冷房が無ければ、命が危うい異常な気温。科学技術がもたらした負の遺産。人々が素朴に暮らすツバル諸島では、海水が上昇してきて、満潮時には住居の近くまで迫りくる。そこの人が先日テレビで言っていた「俺たちが何をしたっていうんだ」。

 科学はもっと謙虚に、あるいは慎重に、検証しながらその技術を使うべきなのだ。急ぎ過ぎれば、他の種をも巻き込んで破滅に至る。

 おそらく後世から見れば、スマートフォンの普及が、科学技術による「人」のアイデンティティ崩壊に繋がる歴史的事件として認識される事になるだろう。すでに、スマートフォンの長時間利用により、頸椎に異常が出たり、難聴になったり、あるいは脳への悪影響が報告されている。人を傷つける「便利さ」がどこにあるのだ。
 医学においてもしかりだ。「樹を見て森を見ず」と云うが、病に薬や手術で対処する前にその人の生活それ自体に問題が無いのか、それをまず考えるべきなのは素人だってわかる。最近図書館から借りて読んだこの本は、そんなあたりまえの疑問を公にしてくれている。あたりまえのことなのだが、誰もそれを言おうとしない、そこに今の医学の根本的な欠陥があるのだろう。著者は、1932年生まれのベテラン心臓外科医。若い医師、あるいは広く科学者にも読んでもらいたい著書、と感じた。


「今日のように、長寿のみを目的とした医学は止めて、動脈硬化とか癌のような病気は放置しておく。医学が進み、予防医学が発展すれば医療専門家はほとんどが不要になってしまう。自分自身が自分の健康管理を上手にできるようになるからである。自分自身が自己の最良の医師となり、今日のような医療費高騰をなげく必要もなくなる。」(P89)

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2016年イギリス・ベルギー映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』

2017年08月05日 | 映画
 8/2(水)、神保町岩波ホールにて。原題は「A Quiet Passion」。





 19世紀アメリカ文学を代表する詩人の一人と言われるエミリ・ディキンスンの半生を描いた伝記的作品。撮影は、実際に詩人が人生の大半を過ごしたといわれるマサチューセッツ州アマストの生家でなされたということで、ほとんどその家の中と周辺の映像しか出てこない。その意味では、演劇を観る様な映像に仕上がっていて、セリフも多くの詩を挿入した作品になっている。
 監督はイギリスのテレンス・デイヴィス。成人後のエミリー役はシンシア・ニクソン。歴史的にはアメリカの南北戦争前後の時代で、当然その頃の英語に近い発音で、セリフ回しを聞いているとイギリス英語に近い様に聞こえた。制作国はイギリス・ベルギーだが、やはり、現代のアメリカではこのような映画は作れないかもしれない、とも思った。生前は、10篇ほどの作品しか公表されなかったと言われるが、死後に1800篇の詩が見つかり長い時間をかけて評価が高まったという。女性が、社会の表舞台に登場できない時代。正当な評価を受けられず、揶揄され、引きこもり、完璧主義で、ますますプライドが傷つき苦しみの中に落ち込んでゆく詩人。その姿を描いた完成度の高い作品になっている。
 リズミックに韻を踏んだ詩の朗読も見事だった。わたしは、半分も意味が取れなかったが、それでもその良さを感じ取ることが出来た。漢詩もそうだが、詩は「吟詠」つまりは「うたう」ことが基本。比して日本語は、七五調のリズムが基本で、「詩」と言っても別の表現形態になる。

 歴史に残る作品というのは、作者の死後、不死鳥のようによみがえり広まっていくことが多い。日本では、明治期の金子みすず、知里幸恵など。さらに、樋口一葉などは一応の評価は受けたものの、極貧の中、結核で24歳で死んだ。まさか後世5000円札に自分の顔が刷り込まれるとは思ってもみなかったろう。すこし時代は下がるが宮沢賢治などもそうだった。あまり知られていないが、宮沢賢治の作品は生前ほとんど認められず、著作による収入は殆ど無かったのだった。評価というものは、それをすることも又されることも、難しいものなのだなあ、とあらためて感じされられた作品だった。

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2017/8/2、神保町

2017年08月03日 | まち歩き
 最高気温が25度にとどかず初秋を感じされる日だったので、東京まで足を伸ばした。目的は、例によって神保町の岩波ホールで映画を観ることだったが、それについてはページを改めて書くことにする。

 神保町も、行くたびに街が変わる。特に、新刊本を扱う書店が急速に無くなってゆく。あるいは、店が残っていても店内は改装されて雑貨売場や喫茶などのスペースに変っていっている。無くなった、と言えば、やはり昨年11月に閉店した「岩波ブックセンター」がショックの大きいものだった。岩波書店の発行した本を中心に人文関係書の充実した揃えで、ここに来ると欲しいと思うものが多くて困ったものだった。特に岩波の全集本は、全巻予約しなければ買えないものも多かったが、ここでは一冊ずつでも別々に、予約なしで購入出来たのだった。今でも、閉鎖された入口を見ると胸が潰れる思いだ。岩波書店と資本提携していると勝手に思い込んでいたのだが、完全に別資本だったという。経営者が亡くなった事もあるだろうが、岩波書店が援助して店を続けて貰いたかった。もっとも、出版社数が、ピーク時の半数になっているとも言われる現状では仕方ないか。むしろ、古書店の方が頑張っているようだが、こちらもネットで探して買える時代になり苦戦しているようだ。代替わりで閉店していく傾向は止められそうもない。
 行くたびに、街が面白くなくなってゆく、と感じるのは歳のせいばかりでもなさそうだ。


 別れを惜しんで、昔の栞。

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