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文化逍遥。

良質な文化の紹介。

『心』小泉八雲著平川祐弘訳2016年河出書房新社刊

2016年07月25日 | 本と雑誌
 「1895年9月15日 神戸にて」小泉八雲が英語で著した『心―日本の内面生活がこだまする暗示的諸編』の個人完訳が今年の5/30河出書房新社より刊行された。それを図書館で見つけたので借りてきて、わたしの蔵書の中にある平井呈一訳と少し読み比べてみた。かなり詳細な註が付いており、当時の社会状況や世相が理解しやすく、また英語の原義にかなり気を使って約されている、と感じた。

 さて、冒頭の「心」に対する八雲自身の説明文の中で「心―kokoro(heart)」の内面性として意味するところを次のようにまとめている。
『この言葉は、「心情」heartだけでなく情緒的な意味における「心意」mindをも意味し、「精神」spirit、「勇気」courage、「決心」resolve、「感情」sentiment、「情愛」affectionをも意味する。そして「内なる意味」inner meaningをも意味する。』
 これは、極めて大切な指摘だ。逆に考えれば、「心」と訳される時、原語ではかなり限定された意味を持つものなのに、あいまいにされてしまう可能性がある。特に、宗教性の強い「spirit」と科学的思考の対象となる「mind」は混同されやすく、時には故意にいっしょくたにしているのではないか、と思われるような翻訳もある。

 「心のありかた」の変遷と欧米文化との比較を考える上で、今読んでも大変有用な著作と感じる。
 

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日本音楽の光彩Ⅱ

2016年07月13日 | 音楽
 7/9(土)、国立劇場小劇場。午後2時からの、1960年代から70年代にかけて作曲された現代邦楽の演奏会に行ってきた。尚、夜は80年代から90年代の作品の演奏会だったが、そちらは聴かなかった。



 和楽器は歌舞伎や寄席では客席から見えない所で演奏されることも多く、その意味では「縁の下の力持ち」とも言える。が、楽器としての表現力がクラッシック音楽で使われるような楽器に劣っているわけではない。むしろ、西洋音楽では排除してきた音を豊富に持ち、多様なニーズに答えられる楽器として現代音楽に取り入れられてのは必然的とも言える。本格的な和楽器の演奏会は、わたしも今回が初めてだった。やっぱり、生の音は良いなあ。特に、武満徹作品『エクリプス』では、あえてマイクを使わなかったので、尺八と琵琶の生音が聞けた。音量自体は小さかったが、微妙な音の変化は実に豊かなものだった。琵琶の生音というのは、本当に繊細で、ギターのフレットに相当する柱の部分が高いので押さえる力を加減することにより音程・音色の変化が富むことになる。今回、琵琶の生音に接して感じたことは「あの音の変化は、マイクでは拾えないな」ということだった。つまり、和楽器全体に言えることだが、CDなど録音されたもので聞いてもその良さが十分に伝わらない。和楽器の演奏に接する機会が増えれば良い、と切に感じた次第。

 学校教育ではクラッシック音楽理論が中心になっている。なので、それに伴いクラッシック音楽の演奏会は頻繁に行われているし、○○コンクール受賞とか肩書がつくと観客が多く集まる、という構図がある。それはそれで良いのだが、邦楽では、たとえ国立の音楽大学で高度な教育を受けても教員免許は取れないし、演奏会にも人はなかなか集まらない。こんな国は他にあるのだろうか。環境が整っているので、天才バイオリストとか天才ピアニストとかがこの国からも結構出るが、「天才尺八奏者」などとはあまり聞いたことが無い。足元にある貴重なものを見落とさないようにしたいものである。


 聴かなかったが、参考資料として夜の部のプログラムも掲載しておく。

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演芸資料展示室

2016年07月11日 | 落語
 7/9(土)、久々に三宅坂の国立劇場に行ってきた。
 国立劇場は、主に歌舞伎などの大掛かりな公演が行われる大劇場、文楽や演奏会などが行われる小劇場、さらに落語など演芸口演の演芸場と三つの会場に分かれている。この日は、小劇場での『日本音楽の光彩Ⅱ』という現代邦楽の演奏会を聴きに行ったのだが、時間があったので演芸場に併設されている演芸資料展示室に寄った。入場は無料。



 現在展示されているのは、二代目の桂小南師が描いた寄席の水彩画十数点と、昔の寄席のポスター・番組表・パンフレットなど。10坪くらいの狭い展示場だが、演芸好きには結構楽しめて、「へぇ~」と思わせる展示も多く、演芸場に行った時にはいつも寄るようにしている。
 小南師匠の落語は、わたしも何度か寄席で聴いたが、関東の落語家があまりやらない珍しい噺を聴かせてくれる芸の幅が広い人だった。展示されている絵を見ると、寄席や落語に対する深い愛情を感じる。師は、1996年に76歳で亡くなった。

 この後に行った、現代邦楽の演奏会についてはページを改めて書くことにしよう。

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大西暢夫著『津波の夜に―3・11の記憶』2013小学館刊

2016年07月08日 | 本と雑誌
 最近、図書館で借りて読んだ本の中から印象に残った一冊。著者はフリーのカメラマンで、著作も多い。この本は、東北への支援活動の傍ら取材した人達の震災後1~2年たってからのインタビュー記録となっている。

 この本を読むと、命が助かった人の多くに共通しているのが「偶然」であったことに驚かされる。避難所やそこに向かう途上で、たまたま流れ着いたり、何かにしがみついたりと、偶然に命拾いしたとしか言えない人が多かったらしい。この本は、つまるところ運良く助かった人たちの証言と写真で構成されている。しかし、そうして助かった人たちの「生」もまた辛く厳しいものがある。眼前で家族や知人友人が亡くなり、あるいはその亡骸を見ながら生活の再建をしなければならない。仮に自分だったら心のバランスを保てるだろうか、と思う。写真に関しは、さすがはプロのカメラマン。写真そのものもさることながら、シャッターを切るのが辛いと思われる人や津波の傷跡をしっかりとした構図と、的確な光を捉えて撮っている。

 

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映画『殯の森』2007年日本

2016年07月05日 | 映画
 昨日は、我が家から歩いて10分程の所にある千葉市生涯学習センターの2階ホールで催された無料映画会に行ってきた。
上映されたのは川瀬直美監督・脚本の『殯(もがり)の森』。奈良の田舎にあるグループホームを舞台に、妻を亡くした初老の男しげきと、子どもを亡くした新人ヘルパー真千子の心の葛藤を繊細な映像で表現した2007年の作品。
 ある日、二人が乗っていた車が悪路で脱輪し、二人は森に迷い込んでしまう。真千子はなんとか戻ろうとするが、しげきは森の奥へ奥へと進みいつの間にか「結界」を越え神聖な場所へと入ってゆく・・・。ある意味、「死と再生の物語」と言えるのかもしれない。その意味では『楢山節考』に通じるものがあるようにも感じた。森の中の映像も今村昌平監督作品に近いものがあった。ただ、全体に楽観が過ぎるようにも感じたが、どうだろうか。


 文書情報管理の仕事を引退して1年半ほどが経つ。当初は、映画を見たりして出歩いていると出費がかさんで財布が底をつくのではないかと心配していた。が、平日の割引や昨日のような無料映画会があるので、思いのほかお金はかからない。本は、ほとんど図書館で借りて読んでいるし、CDも図書館にクラシックなどを中心に借りることが出来る。仕事をしている時には、手元に置いておきたいものが多かったが、無ければないで、さほど困らないものだ。
 少ない道具でいいものを作る、そこまでいければ達人と言えるだろう。自分のような凡人には、その境地は遠いなあ。

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