文化逍遥。

良質な文化の紹介。

講演会「男性介護者と認知症介護を考える」

2016年12月08日 | 介護
 12/3(土)、わたしも会員になっている「認知症の人と家族の会」千葉県支部主催の講演会が千葉県社会福祉センターであったので出かけてきた。



 わたしも母の介護を姉と共に約15年間続け、2014年の春に自宅で看取ったが、「長い介護でしたねえ」と言われることも多い。しかし、認知症の介護に関しては、15年は標準的か少し長いかな、という位の期間といえる。これから高齢化が進むと、男・女に関わらずかなりな期間を身近な人の介護に携わざるを得ない人が多くなるのは確実だ。その間、介護者―特に男性は孤立しやすく、受けられるはずの公的支援などを受けずに離職したりして経済的にも身体的にも限界に達して自らも病に倒れる、という結果を招くことも少なくない。家族の会では、このようなシンポジウムや「つどい」を定期的に開催して会員か否かに関わらず参加できるので、気軽に出かけてみるのも孤立から逃れるひとつの方法だ。

 今回の公演は、読売新聞の介護に関する論説を担当している方の基調講演―これは過去の新聞に取り上げられた記事の中から推移と変化をデータを基にした分析などで、現状を考える上で意味があると感じた。その後に、今もなお配偶者や親の介護を続けている家族の会会員の方の報告などがあった。最も長い方では、23年間奥さまを介護されて自らも2度癌に罹り、その間どのように切り抜けてきたか、お話があり、母の介護をしていた頃を想いだして胸に迫るものがあった。


 下に、会場で配布されたリーフレットを参考として載せておく。千葉市の介護支援の一環だが、各自治体で介護者の孤立を防ぐ支援を行っているので、住居地の支援センターなどに問い合わせてみるのも良い。地元の支援にどのようなものがあるのか知っておくだけでも、気持ちが楽になることもあるだろう。わたしが介護を始めた頃に比べて、現在はかなり豊富で充実した支援がある。それも、介護をめぐり様々な事件や事故があった反省の上に築かれたもの、と言える。

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「食べる」ということ

2014年10月19日 | 介護
10月も半ばになり、秋も深まってきた。下は色付いてきた公園のイチョウ。


食べるものがおいしい季節になったが、それにつけ想うのはこの春に亡くなった母の食事を介護していた頃のことだ。

加齢により歯を失えば硬いものが食べられなくなり、さらに寝たきりになれば飲み込みが難しくなってゆく。特に水様性のサラサラのものが飲み込みづらくなる。これは、飲み込む時に食道と気管の切り替がうまくいかなくなってくるためで「誤嚥(ゴエン)」しやすく、つまりはムセやすくなってくる。さらに食べたものや唾液が気管から肺に入ると肺炎になってしまう。「誤嚥性肺炎」と言われているが、人は体を動かせなくなると内部の機能まで失われていくものなのだ。背中をさすり、顎をマッサージしながらゆっくりとゼリー飲料や介護食でなんとか一日の栄養を摂取して命を保ってゆく。それが、ときには何年も続く先の見えない状態になるので介護者は時に苛立ち疲れてしまうことも多い。
母の場合は一回の食事にかかる時間は20分から30分くらいだったので比較的短い方だったと言える。5年間介護ベットの人だった母。食事やその他の介護で、わたしは疲れはしたがそれが辛いとは思わなかった。死を前にした母との時間はゆっくりと時が流れているように感じられた。不思議なことだが、今は何かおいしいものを食べたいとは思わない。普通に食べられることに、ただただ感謝。
普段は何気なく水や食べ物を飲み込んでいるが、それがいかに大変で大切なことなのか、介護を経験した人には良く分かることでもある。
それが実感できるだけでも長い介護生活は無駄ではなかった、と今は思っている。

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看取りを終えて、本2冊

2014年04月29日 | 介護
5年の間、介護ベッドに居た母の看取りを終えた。
時々に良く考えて最善と思われる方法を採ったつもりだったが、終えてみるともっと良い方法があったのではないか、という悔悟の気持ちに襲われた。「後悔のない介護は無い」とも言われているが・・・

寝付いたときにすでに90歳近い高齢だったので、基本的には経管栄養(胃ろう、経鼻胃管など)はせず口からの食餌で、感染症にかかった場合は薬で対応していった。実際に何度かの誤嚥性肺炎や尿路感染を起こしたが、その都度抗生剤を使って回復した。そして最後は、血管が弱って点滴の針をさすことが難しくなり、飲み薬の抗生剤も発熱や口の中が荒れるなどの副作用が強くなり使えないと判断せざるを得なかった。それでも母は、亡くなる2日前まで自分の口から食べていたのだった。

医師は往診に来た時もまだ未練があったようで、筋肉注射や経管栄養などの選択肢もある旨説明があった。しかし、それは選択しなかった。その日、4月15日の夜、氷が解けるように母は自宅で亡くなった。93歳11ヵ月。
すべては、結果論になる。が、やはり心に残るものを感じる。
そこで、関連図書を2冊図書館から借りてきて貪り読んだ。


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著者は特別養護老人ホームの常勤医で、入所者を安易に病院に送らずホームでの自然な看取りをすすめている石飛先生。
実は母の亡くなる数日前に、早朝のラジオで偶然この石飛先生の話を聞いた。その内容は「死ぬということは細胞が分裂を止めるということで、その時に余分な水分や栄養を人為的に無理矢理入れても吸収できず苦しいだけだ」というものだった。細胞分裂を止めようとしている時点をどこで決めるのか、判断が難しいところだとは思う。が、少なくとも「老齢で食べられなくなった老人には無理な延命措置は苦しませるだけで益は無い」、という主張には慰められるものがあった。


Img_0001
こちらは、石飛先生の考えに同調して自宅での看取りをすすめている在宅医の長尾先生。
開業以来17年間で、700人以上の患者をその自宅で看取った、という実績をもとにエピソードをまじえて具体的に描かれている。


母は、左の手や脚の拘縮(伸ばせなくなること)はあったが皮膚はきれいで、むくみや床ずれなどはほとんど無かった。死に顔も、葬儀に来た人が皆「きれい」と言ってくれた。
上の2冊を読むと、病院で延命治療を受けて死んだ場合、それは珍しい事と言えるらしい。
人は、枯れるような死こそが「自然」なのだと、今は考えている。




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介護の日々

2013年10月13日 | 介護
先週は、家で寝たきりの母の体調が悪化。発熱して昨日までほぼ昏睡状態だったが、抗生剤の点滴により、かなりな回復を見た。
現在93歳の母は2000年頃からアルツハイマー病の症状が出始めたが、医療・介護関係者の助けを得てなんとか自宅で過ごしてきた。
必然的に、わたしが仕事をする上でも色々と制約が生じたが関係者の方々の理解によりここまでなんとか続けてこられた。
長い、長い年月。これで良かったのだろうか、と自問することもしばしばだ。
特別養護老人ホームにも早めに申し込んでいたので入所してもらおうと思えば出来たのだが、なかなかそんな気になれなかった。
母をホームに入れれば、もっと仕事もできたし、音楽活動の方でもライブの出演依頼を受けられたろう。
それでもそれができなかった。
その介護もいつか、そう遠くない日に終焉を迎えるだろう。
その日、わたしはどんな気持ちになるだろうか。後悔するのか、満足感を得られるのか。

今しばらくは介護と仕事に忙しい日々が続く。
ブログの更新も休み休みになりそうだ。


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長い一週間

2012年05月12日 | 介護
病で長く床についている母が先週熱を出し、衰弱がはげしく末期の症状を呈してきた。
血圧は70ほどに下がり、呼吸も途切れがちになった。医師の診察では心音も弱く、すでに多臓器不全の徴候が診られるとのこと。
母は齢九十一。天寿を全うしたと言えるだろう。永訣を覚悟して見守る時間は重苦しく、今週はとても長く感じた一週間だった。

ところが、なんと食欲は落ちず、アイスクリームなどをおいしそうにパクパク食べ、水分も摂取出来たためか熱も下り、持ち直してきた。昨日の血圧は100台まで回復。呼吸も落ち着いてきた。驚異的な生命力に、看護師さん達も驚いている。

千葉の外房に育った母は、子どもの頃は干してある鰯をおやつにしていたと言っていた。
成長期に何を食べ、どのような運動をしたのか、それがその後のその人の生活の質に大きく影響するのではないだろうか。
やわらかく甘いものを食べ、屋内でゲームに興じていることは現代の病の遠因になっている。母を見ていて、そう感じざるを得なかった。


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