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ポストモダンの社会のあり方について―barbaroidさんのブログに基づいて―

2004年12月19日 05時10分27秒 | Weblog
barbaroidさんのブログ―Quo vadis, domine? 「社会問題関係」を読んで

上からの指示に的確に順応すべく定型化された行動様式を持つ人民―これがフォーディズム(大量生産方式とも言えますね。)のもたらしたものだと言えるでしょう。そして、そうした人民は、常に指示待ちなので、サディスティックな命令を発する者をさえ歓迎しやすい面があるともされます。産業面ではフォーディズムが通用しなくなりつつある現代でも、かなりの程度にそう言いうるでしょう。

更に進んで、自己同一性喪失の不安が強まるに連れ、「みんな画一的に個性を追求するというジレンマ」に陥るのですが、あくまでジレンマのままにとどまりやすいのです。barbaroidさんは、そもそも「個性というのはあらかじめ存在するものではなく、さまざまな体験を積んだ結果、事後的に見出されるものだと思」うとされていますが、慧眼だと思います。換言すれば、フォーディズムが通用している時代にあっては、各人の定型化された行動様式自体が、各人に共通する「個性」であったとも言えそうですね。「個性」は余暇においてしか発揮されそうにないのですが、その余暇さえ定型化されているでしょう。

そして、その体験過程に成果主義を持ち込むことは、社会的諸事象の因果関係が誰にも見て取れるようにはなっていないためもあって、組織体の成果さえをも蝕む結果を招きやすいのです。又、個人レベルでも、機会主義(=他を出し抜くこと)が跋扈して、足の引っ張り合いとなる弊害もありうるでしょう。

そこで、barbaroidさんは、「上から押し付けるのでもなく、孤独な競争の中に放置するのでもない、下から互いに助け合うことができるような教育こそが求められるべきなのです。」と提言されています。「まずは互いにもたれ合いながら、協力関係を築く経験を積むことが必要でしょう。」とされるのには全く賛成ですね。

擬似中世的とも言うべきポストモダンの世界の行方には不確定な面が多々あると思いますが、単なる相対的安定期に過ぎないのではないか、とも思われる面があります。フォーディズムに強く支配されている領分も多々残っているでしょう。ポストモダンを駆動させるものは何なのかを探究していきたいと思います。

成果主義とか業績主義とか言うものは、ポストモダンの社会にあっても、組織体運営の観点からは避けて通れない問題として生き続けるのではないか、と思っています。問題は、その業績連関が、個々の組織成員には見通せないものとなっていること、場合によっては、トップの指導者にさえ見通せなくなっている場合が多いのではないか、というところにあると思います。産業連関表という研究分野がありますが、それと似たものとして、社会的業績連関を対象化していくことが、とりわけ国家と社会という問題視角からは重要であり続けると思います。剰余価値論を実体化することも、これと関連するのではないでしょうか。

人と人との協力関係を適正に築くことが可能になるためには、その関係を規律づける規範体系を新たに構想し直さなければならないと思います。刑事司法に妥当する手続的正義を広く社会関係一般に妥当されるとか、平等の意味を問い直すとか、最近とみに盛んになりつつある消費者契約法の分野を支配すべき法原理を相関社会科学的に構想するとか、種々の課題が我々に課されていると思います。

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