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チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「第一次世界大戦で戦死した著名作曲家/アルベリック・マニャール死後100年」

2014年09月03日 14時47分23秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般

マニャール 葬送歌


第一次世界大戦に従軍して戦死した作曲家は、
Rudi Stephan(ルーディ・シュテファン、1887-1915)、
George Butterworth(ジョージ・バターワース、1885-1916)、
Cecil Coles(スィースル・コウルズ、1888-1918)、
Ernest Farrar(アーネスト・フェラー、1885-1918)、
などがいたが、ほとんどが当時20代から30代前半だった。

本日は、フランスの作曲家
Alberic Magnard(アルベリッキ・マニャル、1865-1914)
が第一世界大戦下、パリの北東約40kmにあるオワズ県バロンの
自宅に近づいてきたドイツ兵に発砲して兵士1人を射殺した仕返しに
未発表作品の自筆譜とともに遺体が判然としないほど
激しく焼き討ちされて100年の日にあたる。

年代的には、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ディーリアス、スィベリウス、
同国人ではドビュッスィー、サティ、ルーセルなどと同世代、
ヴァーグナー・インフルエンス世代である。
古典的な和声による音楽がいよいよ出尽くしに近くなってきて、
何かしら奇天烈なことをしないといけなくなってきた時代である。
そうした時代の作曲家のご多分に漏れず
マニャールも教会旋法に活路を求めた。とはいえ、
上記の作曲家連中ほどにはパッとした作品は作り出せなかった。
耳障りのいい音楽ではあるものの、
人が心の底から感動するほどの"味"が欠落してた。つまり、
フィガロの編集長だった父フランスィスの庇護のもとに音楽の素養を身につけた、
ごくごく平凡な(しかも裕福な)一市民にすぎなかったのである。

また、幼少期に普仏戦争があり、
パリをドイツ人によって陥落されるという屈辱的な心傷を負った。
これが対独好戦的な人格を形成した。そうした意味では、
その最期はあっぱれな討ち死にざまである。

1894年に偉い父親が57歳で死んだとき、その追悼として、
"Chant funebre(ション・フーネブル=葬送歌)"(op.9)
を作曲した(完成は翌1895年)。冗長感あふれる音楽で、
この程度の作品で音楽史に名を残してるのは逆にすごいと思う。が、
アイスバケツをかぶるレディ・ガガ女史と富士真奈美女史を見間違えてしまうような
拙脳なる私が聴く耳を持たないだけなのだろう。
(この「葬送歌」の冒頭をSibelius Firstで作ってこちらにアップしました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/magnard-chant-funebre-beginning )
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「音楽を奏でる嗅ぎ煙草入れ(op.32)と親指の付け根/リャードフ没後100年」

2014年08月28日 17時20分37秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般

リャードフ 没後100年


本日は、ロシアの作曲家、
Анатолий Константинович Лядов
(アナトーリィ・カンスタンチーナヴィチ・リャーダフ、いわゆる
アナトーリー・コンスタンチノヴィッチ・リャードフ、1855-1914)
が死んで100年の日にあたる。同人は、音楽一家に生まれた。
1870年にペテルブルク音楽院に入ったが、ほとんど出席せず、
一度除籍処分となったが、成人してから入り直して卒業した。
リャードフが入学当時はまだ楽理など無知なのに
同音楽院の教授にちゃっかりおさまってた
リームスキー=コールサコフの授業などバカらしくてサボってたのかもしれない。

いずれにしても、
リャードフという人物は堪え性がない男だったようである。だから、
交響曲やオペラのような大作や長い曲は苦手だった。
ヂャーギレフから依頼された「火の鳥」も遅々として進まず、結局、
やっぱイワンこっちゃないわ、このグズ!
としびれを切らした依頼主はストラヴィンスキーを代打に立たせてしまった。
とはいえ、
ピアノの小品作りばかりに勤しんでた(これがけっこう銭にはなる)が、
50過ぎの晩年になってからは、
いっちょおいらの実力を見せてやるか、
と単一楽章の交響詩のような管弦楽曲はそこそこ作るようになり、
師リームスキーより垢抜けたその巧みなオーケストレイションの才も示した。

リームスキーからの妬みに閉口してたモスクワ音楽院のチャイコフスキーに近づき
(同じくペテルブルク音楽院に学んだアレンスキーも同様だが)、
親交を得た。そのチャイコフスキーが死んだ1893年にリャードフが作曲したピアノ曲に、
"Музыкальная табакерка – Вальс-шутка
(ムズィカーリナヤ・タバーキェルカ ヴァーリス・シュートカ)
「音楽の煙草入れ 冗談ワルツ」
(op.32)
というものがある。
A-B-A-C-A-B-Aというロンド形式の、2分ほどの小品である。
automaticamente(アウトマティカメンテ=機会ふうに)
という標語がつけれてるこの曲のAのルフランは、
♪ファ>ミ>レ<ミ<ソ>ド<レ<ファ>シ<ド<レ<ミ♪
という、ヘミオラで紡いだかわいらしいものだが、サン=サーンスの
「ヴァイオリン協奏曲第3番終楽章」のサブ・テーマ、
♪ドー・ーー・・>シー・ー>ラ│<シー・ーー・・<レー・ー>ソ│
<ラー・ーー・・<ドー・>ファ│<ソー・ーー♪
のドをファと置き換えたものとほぼ同じである。

ちなみに、
この曲のタイトルの英語表記は、
"A musical snuffbox"
とされてるが、
snuffとは「嗅ぎ煙草」のことであり、
snuffboxはその嗅ぎ煙草の粉を入れておく、
装飾を施した豪華な煙草入れのことである。
それがオルゴールのような形なので、
洒落で音楽の煙草入れと命名したのだろう。あるいは、
実際にオルゴールにもなっている嗅ぎ煙草入れがあったのかもしれない。

この曲を実際にピアノで弾いてみると、
とくに右手は人差し指と小指で6度の重音を弾いて次は親指、そして、
人差し指と薬指で5度の重音を弾いて次は親指、というような
単純動作の繰り返しを強いる。ので、
親指の健が酷使されるのである。
親指を伸ばして反らすと、その親指と手首との間に窪みができる。これを、
英語で"snuff box"、日本語でも「解剖学的嗅ぎ煙草入れ(解剖学的嗅ぎ煙草窩)」
などと言うのである。ことによると、
リャードフはその意味もかけてたのかもしれない。

ところで、
sn-という接頭辞は「鼻」に関連した事柄を指す。
ムーミンのSnufkinスナフキンも嗅ぎ煙草愛用者
ということからそう名づけられたという。が、同じく嗅ぐのでも
sniffだと麻薬っぽい。ともあれ、
sn-関連語を少し挙げてみると……
嗅覚を使ってうろうろ探し回るさま→snoop→スヌーピー
snoozeうたたねは鼻提灯
這うさま→鼻をこすりつけるさま→sneak、snake
雪が降ると地面を覆う→白いものが地面を這いつくばっているさま→snow
snob=俗物、エセ野郎←sine nobilis(スィーネ・ノービリス=高貴なし=下賎)にひっかけて、
ケンブリッジ大の学生らが「革の臭いばかり嗅いでるくせに
大学に出入りしてる鼻持ちならない靴屋」と見下した差別語
sneeze=くしゃみ(鼻粘膜を刺激されて出る)
sniffle=snivel=鼻をすする
snook=忍者青影の「ダイジョーブ!」、あっかんべー
→snooker(ビリヤードの一種=相手が穴に入れにくいようにするゲイム=あっかんべー
→そうされた相手は入れられる箇所を犬のようにクンクンと探さなければならない)
snore=いびき
snot=洟
……といった具合である。

語源とか地名のいわれとはかくも意味深いもので、
豪雨で悲惨な被害が出た広島市安佐南区の「八木」はもともと、
「八木 蛇落地 悪谷」(やぎ・じゃらくじ・あしだに)
今回のように豪雨で山肌を蛇が這い降りてくるような災害があったから、
そのように呼ばれていたものを、
「八木 上楽地 芦谷」(やぎ・しょうらくじ・あしや)
といいように改名し、さらには
住居表示で「八木」だけにする、という、
「土砂崩れしやすい土地」の現実を覆い隠したのである。

ちなみに、ロシア語の
"Ляд"(リャート)には「汚れた」(形容詞)、「地獄」(名詞)という意味がある
("Ляда"(リャーダ、女性名詞)は「湿地」「窪地」)。だから、
文字どおり"渾名"がサーネイムのほとんどを占めるロシア人名の中で、
"Лядов"(リャーダフ、いわゆるリャードフ)という名は、
そうしたじめじめした汚泥の草地に住んでた者が先祖だということである。

(のちに作曲者自身が
「ピッコロ、フルート2、クラリネット2、グロッケンシュピール、ハープ」
に編曲したのだが、このピアノ曲を
「チェレスタ、グロッケンシュピール、チューブラーベル」
の編成でスタッカートを取り去って"オルゴールふう"にアレンジしてみました。
全体的に音が小さいのでキキモラさないようにお願いいたします。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/lyadov-music-snuff-box-arr-for-celesta-glockenspiel-kamomeno-iwao )
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「モーツァルトにとってのGluck(幸運)の神、グルック生誕300年」

2014年07月02日 17時10分50秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
巷では「集団的自衛権」に関して
憲法の解釈変更に反対する者らの意見や行動が
マスコミに多く採りあげられてるようである。
在日・帰化を問わず反日の悪意に満ちた者らが多いらしい
マスコミが、そうしたことをことさらに目立って採りあげるのは
当然である。また、
反対してる"政治家"や"文化人"らもまた、
そうした民族にルーツを持つ者または
自分の"作品"が広範に購買されなくなると
その生活水準が維持できなくなるので
反日を前面に掲げてるような者らである。
自分は東京でも一等地の成城や半蔵門などの
高級住宅に住まい、清貧とは真逆のシュミを満喫してるくせに、
いかにも"弱者の味方でござい"ふうな主張を繰り広げる。
"若者を戦争で死なせる気か?"
とかなんとか……。が、
集団的自衛権を"行使しません"という国に対して、
"はい、そうですか。なら、手は出しません"
という国があったら教えてほしい。それこそ、
"若者は戦争に行く前に他国によって殺され"ます。
"日本人の若い女は性奴隷に、その他の女や男は皆殺し"
と公言してはばからない近隣悪徳国家も2つほどある。

日本は対連合国(主たる相手は米国)との戦争で負けた
「敗戦国」なのである。敗者は勝者の言いなりになるしか
生きる道はない。たまたまカネを持ってない
アメリカ先輩と懐にたんまりと入れてるニホン君が歩いてて
アメリカ先輩を襲おうとしてたアメリカ先輩と敵対する輩が
命が惜しけりゃカネを出せと迫ったとき、
仲間であるニホン君が
"ボクのおカネは自分で使うためのものなので
アメリカ先輩のためにでも他人のために使ってはいけないと
親が言ってるので出せません"
とい方針だったとしたら、仲間のアメリカ先輩はどう思うだろうか。
また、そう言って本当にアメリカ先輩が刺されてしまったら
どうなるだろうか。どう考えても、
アメリカ先輩のためにカネを差し出すのが
筋(あるいは"人道的")というものではないだろうか。

もし本気でそれがいやなら、
またアメリカ先輩に一戦挑んで勝ってくればいい。
(そのときは反日日本軍と明言して戦ってネ)
日本は300百万人以上の尊い命を代償にして生き残った。
反日政治家・貶日文化人らのプロパガンダに乗せられて
「安倍の強行」などと唱えてる者らは、現在、
悠長にそんなことをしてられるのは、そうした
犠牲者のかたがたがなくした命のおかげだということを
真剣に考えてなどはいない。また、
首相官邸前での"抗議デモ"を煽ってる者らの
何割ほどが"なりすまし日本人"なのだろうか。
ベネトンを着てたら間違いなく
こういうことひとつ取っても、
つくづく徳川幕府というのは
"危機管理意識"が正常に働いてた政権だったかと思わされる。
その徳川幕府の治世は「開国」によって断ち切られた。
"時代の流れ"である。

ヴィーンを中心にヨーロッパを数百年制してたハプスブルグ家もまた、
その男系相続が途絶えるいわゆるマリア=テレジアまでは、
武力を抑止力として領土の安定を保ってきた。が、
ヨーセフ2世の治世ではもう帝国は崩れかかってたのである。
そのヨーセフ2世の死によって跡を継いだ弟レーオポルト2世の
冷遇によってモーツァートも(サリエーリもなのだが)いよいよ
生活苦が深刻になったのである。そして、
皇帝の代替わりからたった14箇月で35歳のモーツァートは死ぬのである。

モーツァートはいわゆるザルツブルグからヴィーンに出てきた"田舎者"である。が、
当時の(ヴィーン)音楽界においては当然ながら、その才能と芸風は
抜きんでてかつ異彩を放ってた。そして、
その音楽とそれを創りだすモーツァートは、
平凡な才能の音楽家らからの羨望と嫉妬の的になった。その中で、
かつてはマリー=アントワネットにも作曲を教えてた大御所グルックだけは、
温かい目でモーツァートに対してたという。

1784年3月、皇帝ヨーセフ2世臨席の演奏会で、
「グルックの主題による10の変奏(ト長調)」(k.455)
がモーツァート自身のピアノ独奏で披露された。
その20年前にグルックが作曲したオペラ「メッカの巡礼者」の中の
デルヴィーシュ(托鉢僧)のアリエッタ「民が愚かにも考えたことといえば」
の節を主題として採ったものである。
♪ドー・ドー・・>シー・シ<ド│>ラー・ラ<ド・・>ソー・ーー│
<ファー・ファー・・ファ>ミ・>レ・>ド│ドー・<ミ>レ・・>ドー・●●♪
(人々は我らのような托鉢者の生活を、
他人からのお布施がなければ生きていけない
貧乏なものと思ってる。だが、
本当は幸せな生活なのだ)
みたいな歌詞内容である。
やはり列席してたグルック本人の前で、
モーツァートはその恩に報い、敬意を表したのである。今日は、
Christoph Willibald Gluck(クルストフ・ヴィリバルト・グロック、1714-1787)
が生まれて300年の日にあたる。Gluckのuにウムラオトが附いたドイツ語
Gluck(グルック)は「幸運」という意味である。
この演奏会の3年後にグルックは死に、
モーツァートに理解のあるヨーセフ2世のおかげもあって、
その宮廷作曲家の座にモーツァートは任じられることになった。
グルックさまさまである。が、
上記のように、モーツァートのヴィーンでの優雅な暮らしは
きわめて短期間なものだった。次第に収入が減り、
生来の賭博好き(もちろんスッてばかり)で借金がかさんでたという。

この変奏曲をオーケストレイションしたのが、チャイコフスキーの
「組曲第4番(モーツァルティアーナ)」の最終楽章(第4楽章)である。

(グルックのアリエッタのバスが歌うパートをチェロのソロに置き換え、
モーツァルトの変奏曲の主題提示部分、そして、
チャイコフスキーのアレンジのやはり主題部分を
その順に並べてみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/gluck-la-rencontre-imprevue-les-hommes-pieusementmozart-and-tchaikovsky

)
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「バイエルン人の二人、アロイス・アルツハイマーおよびリヒャルト・シュトラウス生誕150年」

2014年06月14日 22時17分30秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般

アルツハイマー リヒャルト・シュトラウス 生誕150年 Richard Strauss' obsession


今日は、
Aloysius Alzheimer(アロウスィウス(アロイス)・アルツハイマー、1864-1915)と
Richard Strauss(リヒャート・シュトラオス、1864-1949)の
生誕150年にあたる日である。ともにバイアーンに生まれた。
前者はご存じ"アルツハイマー型認知症"の名称の由来になった医者である。

「認知症」の症状の典型に、
「過度の反復」がある。
同じ内容の発言をしたり、
同じ動作や行動を繰り返したり、
同じ物ばかり食べる。いわゆる
"常同行動"である。

リヒャート・シュトラオスは、
いわゆるバイエルン王国の宮廷ホルン奏者を父に、
ミュンヘンの大ビール醸造業者プショールの娘を母に、
ミュンヒェンで生まれた。そうした
恵まれた家庭に育ったこともあって、
指揮者としても作曲家としても
若いときから順調に成功してった。

そんなシュトラオスには、早くから
♪ソ<ド<レ<ミ♪
という音型への執拗なこだわりがあった。
(cf;「リヒャート・シュトラウスの愉快なひとつ覚え、ソドレミ音型」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f3133978dcee8552b77ae8cf54f4b4e1 )
この音型は調性音楽では必然的に
ごくありふれて用いられることになる動機だった。
(cf;「スメタナ作曲交響詩ヴルタヴァ(モルダウ)の主要主題と小ぎつねコンコン」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/debc590c4f43b1f769cfbdfaf2c78087 )
シュトラオスはモーツァルトに傾倒してた。モーツァルトといえば、
5歳のときの作品といわれてるk.1cの
「アレグロ(ヘ長調)」
♪【ソーーー│<ドーーードーーー・<レーーーレーーー│<ミーーー】<ファー・<ソーーー♪
と、その30年後の最後のオペラ(スィングシュピール)「魔笛」の終いのひとつ手前の第20曲、
パパゲーノが歌う
♪【ソーーー│<ドーーードーーー・<レーーーレーーー│<ミーー】<ファ>ミーー>レ・>ドーーー・ーーーー♪
にも「ソ<ド<レ<ミ」音型はちりばめられてる。
モーツァルトも「クラ音」におけるもっとも原始的なこの
「ソ<ド<レ<ミ」音型を採り入れたのである。

リヒャート・シュトラオスは感傷的な音楽を作らせたら
クラ音界ではラフマニノフと並ぶツートップである。

(「イタリアから」第1曲(カンパンニャにて)……「ドン・フアン」……「死と変容」
…「ティル・オイゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」……「薔薇の騎士」
……の「ソドレミ音型」を並べてみました(音楽ソフト「Sibelius First」で制作)
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/richard-strauss-the-so-do-re-mi-motif-collector )

2014年6月16日追記:
リヒャルト・シュトラウスの誕生日は6月14日ではなく、
1864年6月11日です。
日付を思いこみで3日分間違えてました。
アルツハイマー型痴呆症かもしれません。
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「ダリウス・ミヨー『スカラムーシュ』第3曲ブラジレイラ/FIFAワールドカップ開幕」

2014年06月12日 16時37分26秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般

ミヨー スカラムーシュ ブラジレイラ


FIFAワールドカップ2014ブラジル大会が始まる。私は、
日頃はサッカーにはほとんど興味がなくても、
ワールドカップになると話題にするミーハーのひとりである。

ブラジルはポルトガルによって征服され、
連れてこられた黒人奴隷や原住民などとの混血が
複雑に進んでる。そうした意味では、
米国より先んじてる国といえる。
未来の世界人類のパイロット版かもしれない。
そうした多種多様雑多な国で発展した音楽の
ポップスのひとつがサンバである。

つい40年前まで生きてたフランスのクラ音作曲家
Darius Milhaud(ダリュス・ミヨ、1892-1974)は、
父親ほども年上の外交官文士
ポル・クロデル(ロダンの愛人で自身も彫刻家だったキャミユ・クロデルの実弟)
と馬があった。クロデルがブラジル公使となったときにその秘書として同行し、
ブラジルの通俗音楽にふれて影響されたらしい。

そうした作品のひとつが、
2台のピアノのための"Scaramouche スカラムシュ"だそうである。
1937年のパリ万博で演奏するための作品を
委嘱されたことから、既成の作品から編んだものらしい。
その第3曲"Brazileira ブラズィレイラ(ブラジル女)"は、
サンバということである。

♪ドードー・●>ラー<ド│>シーシー・●>ソー<シ│
>ラーラー・●>ミ<ファ>ミ│<ソーーー・ーーーー│
●>ド<レ<ミ・<ファ>ミ>レ<ラ│>ソーーー・ーーーー│
●>ド<レ<ミ・<ファ>ミ>レ<ド│>ラーーー・ーー>ソー│
<ドードー・●>ラー<ド│>ソー>ファー・●>ド<ファ<ソ│
<♭ラー♭ラー・●>ファー<♭ラ│>ソーソー・●>ラ<♭シ>ラ│
<ファーファー・●>レー<ファ│>ミーーー・>レーーー│
>ドーーー・ーーーー
(>ド<レ<ミ・<ファ>ミ>レ<ラ│>ソ<ド<レ<ミ・<ファ<ソ<ラ<シ)♪

いわゆるダリウス・ミヨーと鬼警部アイアンサイドのレイモンド・バー、あるいは、
心理探偵フィッツのロビー・コルトレインの顔を
瞬時には判別できないこともある拙脳なる私には、
舞踊家でもないのにいい歳をして不必要にロングなヘアの
アルヘリッチ女史が関わる演奏が、その丸太のような腕同様に
一本調子でセンスのかけらもないのに
世間からは賞賛されることが不思議でしかたない。
楽譜の強弱指定には不忠実ながら
ラベック姉妹のほうがはるかにセンスがある演奏をしてる。

ミヨは時代的にも、
人々に感動を呼び起こす和声音楽が
ほとんど出尽くした、いわゆる
シェーンベルク以降の「現代音楽」の人ながら、
こうしたセミ・クラスィカルな
"焼き直し"的な単純和声の曲も多く残した。

(作曲・楽譜作成ソフトウェアの入門者用Sibelius Firstを使って
pf2台の「ブラズィレイラ(ブラジル女)」を再現してみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/milhaud-scaramouche-brazileira-2-pianos
また、ギター・木管・打楽器用にアレンジしてみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao01/milhaud-arr-kamomeno-iwao-scaramouche-brazileira )
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