ボイス・オブ・ヒロシマ

2002年に広島市の主催で行われた「広島・長崎講座」で、被爆の
実相を多角的にとらえることを学んだ受講生で結成したNGOで
す。命を慈しむ多くの市民と共に被爆、核、戦争、平和等を学
び、相互に発信し、活動することに取り組んでいます。    
     

「こんにちわ 貢寮」を見て。

2006-04-06 23:08:04 | 行事報告
 大学生だったチェ・スーシンさん(女性)は台湾の第4原発の建設予定地の貢寮に行き、彼らに強いられた不公平な運命に対してショックを受けて原発神話がくずれてしまったそうです。そして原発反対の人々とふれあう機会を持つことによって、1998年から2004年までの貢寮の原発建設にゆれる人々を撮り、映画「こんにちわ 貢寮」を制作しました。
 1980年に貢寮が原発予定地に選ばれた時は独裁政治の戒厳令下のために抵抗はできない状況でした。1987年になってようやく学者が貢寮を訪れて放射能の危険性を伝え、原発反対運動が始まりました。原発に反対することは彼らにとって、生まれ育った土地や海を愛し、家族を愛することでした。国家暴力に圧迫され、行政特権に翻弄され、そして政治家に裏切られても、ひたすら頑張っている姿から大きな力をいただきました。上映後の懇親会で、反原発の人々は台湾では少数派ということを聞きました。今では政治家やマスコミに頼らずにできることをやっているそうです。例えば知人の紹介で学校で子どもたちに
「台湾は、今パソコンで世界の中でも高い能力を持つようになった。これからはエネルギーに関しても、環境を破壊しない自然エネルギーの先進国になって欲しい…」
等の話をしているそうです。子どもたちに今と未来を、民間人が話し希望を伝えているといえるかもしれません。
 もう一つ心に残ったことがあります。チェ監督が言ったことですが、友人から
「広島でも原発を動かしているので安全だと思うといわれることもあったのだが、広島の資料館を見て原発はやはり私たちにとってだめだということを伝えたいと思う。」
と聞いた時には、ドキッとしました。平和を発信する広島が、原発の安全性の広告塔にも使われることもあると思いました。
 日本の原発が貢寮に輸出されたのは申し訳ないと云うことを聞きました。私は企業を情けないなと思っていましたので、考えが足りないことを思いました。
この映画の自然と人を守っていく思いの深さに感動しました。
 貢寮の第4原発は広島に来られた方の力にもよると思いますがまだ動いておりません。永久に動かないといいと思います。