諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

161 「学び」と私たち#16 まとめ

2021年10月24日 | 「学び」と私たち
秋 奥秩父(川上村)の針葉樹の紅葉 あまりに見事で圧倒されます

テキスト:佐伯 胖『「学び」の構造』東洋館出版
からずっと学んできました。
一応、今回でシリーズを終わります。

部分を紹介してきたので、最後は大きくまとめてみます。改めて、私たちにとって「学び」とは何かを考えます。

日本の場合、「勉強」というと権威主義だった。
その下での強いられた学びは、形式をなぞる作業そのものだったり、身の処し方のための手段になりがちだ。それが「勉強」の実態の場合が多い。

「学び」はもっと自分自身に還元するものだ。学校でも「主体的に学ぶ」といったとき、もっと内面的に自己の成長に触れるもの、新たな自分の展開に帰するものであることを指すだろう。

人は誰でも(意識していなくても)、「よく生きたい」と願っている。そしてその願いのためには今の自分は不完全だし、もっと努力が必要だと感じている。

「学び」の由来はこの誰も持っている(「よく生きたい」)という感情である。

さて、「よく生きたい」とは何か、それは自分の生き方を反省し、他者の存在を愛し、そして「よく生きる」知恵を文化の中に求めることを繰り返すことであろう。
言い方を変えれば自分を維持する価値観の「一貫性」を求めつづける過程とも言えるだろう。

ところで、脳のシステムは、感覚登録器、短期記憶、中期記憶、長期記憶の連動性によって相互が活性する。そして「わかる」ということは、この相互性の中で「心に落ちる」ことで、長期記憶に保管される。この「心に落ちる」ことが本当に「わかる」ことで、短期記憶と中期記憶を行き来するだけの初期のティーチングマシンの原理には限界があり、機械による教育は、理論上「よく生きたい」という願いには答えられないのは脳のメカニズムの中でも明らかだ。

また、「わかる」ということは、「わからないこと」がわかることでもある。
つまり、「わかりつづける」とは、無限に「わからない」ことを発見する過程でもある。そして、その発展の方向性は個人によってさまざまだ。

そして、「学び」には確かに構造があるが、その発展のありさまは個人における心の問題と深く関わっていて、定型的な教育で促すことは難しい。

さらに、教育は、その学びの末にAがかならずしもBではないという可能性を捨てるべきではなから、教育のやるべきことは科学的な定義ができない。

つまり「学び」に対して教育は、一定の解をもてないまま、子ども達に関心を寄せ続ける要素も強いといえる。

以上が、この本の「「学び」の構造」を私が読み取ってみたことである。

最後に、佐伯さんは、この本をこう結ぶ。

真理の女神というのは、実に冷酷な女神である。わたしたちがどんなに苦労し、山のような本を読みあさり、徹夜に次ぐ徹夜で血まなこになって、何年も何年も辛苦これ努めても、それらの「作業」をやっていることに対しては別になんの評価もしてくれないし、報いも与えてくれない。
しかし、もし、わたしたちが、真理にむかって「問いかけ」「問いなおし」をするならば、この女神は実に寛大で暖かく、少しづつ答えてくれるものであり、わたしたちの手をとって、一歩、一歩と深いよろこびの世界に導いてくれる。

「学び」つづけるということは、どこか修行に近い面があるのではないだろうか。

しかし、一方で教育はそんな個人の都合をこえて社会からの要請というものがある。
そのために10年に1度教育課程が更新される。それは訪れるであろう未来社会の照らし返しでもある。
第四次産業革命を照らし返した教育像ってどんなものか、果たしてのその中で、で子どもたちは育まれ得るのか。
次回からはそんなことを考えます。

           シリーズ 了

今回も読んでいただいてありがとうございました。
11月は、書かないで考える期間とします。ちょっとお休みします。

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