諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

140 「ズレ」を考える #13 帰化した「ヘルバルト」

2021年06月13日 | 「ズレ」を考える
道! 前回の後立山稜線を反対の白馬岳側から見たところ 一番手前が最難所“不帰の剣” 、怖っ。

ヘルバルトの話を続けます。

ヘルバルト(正確にはヘルバルト学派)の教授方法が一般化して120年以上もたつ。
彼(彼ら)の提唱した5段階教授法(予備-提示‐比較‐総括‐応用)は今も生きている、と実感するのは、学習指導案を書く時かもしれない。

・授業の冒頭、面白い図表や、印象的な話題を出して、これからの授業に誘う【予備】
・そして、今日行うテーマを明確にする【提示】
・そのテーマがこれまでの生徒の経験やこれまでの学習と、新しい知識や生徒からの新たな意見などとを【比較】する
・そして、新たな知識や、たどり着いた認識を【総括】する
・(総括)したものが、他の事象でも汎化できるのか【応用】する

どうであろう。授業づくりの気分で書いてみると5段階教授法の普遍性がわかる気がする。

そして、それには思想的にも裏付けがある。
「ルソーとペスタロッチが切り開いた視点を「子どもの心のうごきをふまえる」という観点に発展させて、心理学に基礎をおく教授法理論に発展した点がヘルバルトの議論の大きな意義であった。」
(広田照幸さん)という。
それまでたびたび見られた「反復練習」を超えた近代的教育の到来を感じさせるものだったことも大きいだろう。
ここには、反復練習にはない“巧みさ”があり、その延長線上に学習が成り立つ。良い授業のオーソドックスな型として納得がいくのである。

さらに、ヘルバルトは代表的著作の冒頭で「教育学の根本概念は、教育可能性である」と言い切っている。
「国家による教育内容の決定」、「学級編成(具体的には学年制)」、「一斉授業様式」といった枠組みの中で、近代の「国民皆学」は実施されるが、当然、生徒の実態差、背景の地域や家庭環境の違いが大きかった。そんな時、
「教師が教育的働きかけによって生徒の自己形成力と切り結びつつ、生徒の内に切り開く教育的働きかけの余地(が教育可能性にある)」
としたことは、国民教育の現実に即して、教師たちを勇気づけたに違いない。
(これは、「教育可能性」といっているのであって、子どもの側の「学習可能性」と言っているのではない。つまり、教師主導の教授法を優先せよ、ということである。)

そして、ヘルバルトの教授法は、120年の年輪を重ねながらさまざまな経験を経る。
戦後、各地には、斎藤喜博や大村はまなどのスターに近づきたい、と思うような教師たちが無数にあって、児童生徒本位の授業にむけ、校内での授業研究や、地域の教師間でのサークル等で技を磨き、半ば草の根的に授業の研究が続けられた。民間教育団体の活動も熱気があり、教員の研修センターも各地につくられた。

さらに、後年の初任者研修によって全国ではじまった初任研研究授業も、こうした雰囲気の中で授業力を磨いた先輩教師たちによって進められていたことは私の世代でも実感できるのである。

こんな状況を、上手に描けなくて恐縮だが、120年前、近代のにおいをさせながら輸入されたヘルバルトの教授学は、もうすっかり日本の学校文化に取り込まれている。

(補足)
もっと乾いた表現で言うと、120年間教授をする環境、つまり、「国家による教育内容の決定」、「学級編成(具体的には学年制)」、「一斉授業様式」は変わらなかった。現在も大きくこの環境は変わっていない。
しかし、ヘルバルトがドイツ哲学の系譜として示した教授の原則が、教育の可能性を示すものとして、(時代とともに見え方を変えながら)、今日までその教授方法の原則が引き継がれている。この環境下によほど適合したものだったと言える。
その変わらない原則のもと、全国の無数の熱心な教師たちによって、最大限の教育的効果を生む授業が花ひらいた。それは教師の努力であり、学校教育文化の遺産でもある。


広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)を参考にしました。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする