夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

月白風清 小杉放庵筆

2020-01-13 00:01:00 | 掛け軸
帰省した先では年始恒例の亡くなった母の道具を使っての書初め・・・・。家内も小生も書きます。



なんと息子は「ポツンと一軒家」を書きたかったようです。



仏壇の前でお披露目、母は字がうまかったので「まじめの書け!」と怒られそう



さて戦後に新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した根強い人気のある小杉放庵・・、よって贋作には要注意ですが、思いのほかに売買されている価格は高くはない・・・・



月白風清 小杉放庵筆
和紙本水墨淡彩 軸先 旧題共箱
全体サイズ:縦1340*横570 画サイズ:縦340*横430



作品中には「未醒絵」とあり、印章は資料と同一印。



箱には「月白風清」と題され。裏には「題旧作」とあり描いた後の後年による箱書きされた作品であろうと推察されます。

 

箱には「湖山指黙」と同一印章の「放庵」(朱文白長方印)が押印されています。

 

小杉放庵については本ブログにて何点か作品を紹介していますが、改めて略歴は下記のとおりです。

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小杉放庵(こすぎ ほうあん):1881年(明治14年)12月30日 ~1964年(昭和39年)4月16日)。明治・大正・昭和時代の洋画家。本名は国太郎、別号に未醒、放菴。 長男は東洋美術研究者の小杉一雄で、放庵の著作を多数編さんしている。二男はインダストリアルデザイナーの小杉二郎。俳優の小杉義男は甥になります。

栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に二荒山神社の神官・富三郎の子として生まれる。父は国学者でもあり、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)にかけては日光町長も務めていたそうです。 少年時代を日光の山中で過し、父に国学の素読を習い、中学は一年で退学していmす。

*出身地の日光には小杉放庵記念日光美術館があり、小杉放庵の日本画、油彩画、水彩画などの作品が展示されています。小杉放庵をいう画家の多彩な才能と日本の近代美術史上における広範な影響関係を紹介しています。

1896年(明治29年)から日光在住の洋画家・五百城文哉の内弟子となり、西洋名画の図版などを手本に模写をし、或は風景写生を試み、油絵、水彩を自由気儘な作画をみてもらっていました。その後に4年ほど五百城文哉の許で学んでから五百城に無断で出奔し、白馬会洋画研究所に入りますが、これに馴染めず、肺尖カタルをも患ったため帰郷。再び五百城の元に戻っています。

1900年(明治33年)に今度は許可を得て再度上京し、小山正太郎の不同舎に入門する。1902年(明治35年)に太平洋画会に入会し1904年(明治37年)に未醒の号で出品する。

1903年(明治36年)からは国木田独歩の主催する近時画報社に籍をおいて挿絵を描き、漫画の筆もとっている。

1904年から始まった日露戦争には、『近事画報』誌の従軍記者として戦地に派遣され、迫真の戦闘画や、ユーモラスな漫画的な絵などで、雑誌の人気に大きく貢献した。

1905年には美術雑誌『平旦』を石井柏亭、鹿子木孟郎らと創刊した。

1908年(明治41年)に美術誌『方寸』の同人に加わり、この年から文展に出品し、第4回展で3等賞、第5回展で『水郷』、第6回展で『豆の秋』と題した作品が続けて2等賞となる。

1913年(大正2年)にフランスに留学しますが、当地で池大雅の「十便図」を見たことがきっかけで、日本画にも傾倒し、油絵と同時に日本画にも筆をとる様になり、翌年の帰国後は墨絵も描き始めた。油絵もまた、油気を抜いた絵具を渇筆風に画布にすり込んでゆく技法で、画面の肌は日本画を思わせるようなマチュールを好んだ。同年、再興された日本美術院に参加し、同人として洋画部を主宰する。また、二科会にも同時に籍を置いていた。

*なお小杉放庵の油絵は決して評価の低いものではなく、希少価値もありかなり評価が高い。

1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を絵に対する考え方の違いから脱退。

1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。

1924年(大正13年)に号を放庵と改めたが、これは親友である倉田白羊が一時期使っていた「放居」という雅号から「放」の字を貰って付けたものである。なお、雅号は後に放菴と更に改めているが、その時期や理由については不明。

*ちなみに本ブログで取りあげている平福穂庵は「 菴」から「庵」に逆に改めています。

1925年(大正14年)、東京大学安田講堂の壁画を手がける。

1927年(昭和2年)には、都市対抗野球大会の優勝旗である「黒獅子旗」のデザインを手がけた。

1929年(昭和4年)に中国へ旅行。

1935年(昭和10年)に帝国美術院会員。第二次世界大戦中に疎開のため新潟県赤倉に住居を移し、東京の家が空襲で失われたため戦後もそのまま暮らす。ここで、新文人画ともいうべき独自の水墨画を残した。 題材は古事記、奥の細道、歌人、孫悟空、おとぎ話など古典によるものが多く、次で花鳥、風景に及んでいる。油絵より日本画に移り、新文人画とでもいうべき水墨の、気品に富んだ作品を多くのこしている。又歌人としても知られる歌集が出版され「山居」、或は隨筆集「帰去来」などの著書がある。戦後の水墨画が小杉放庵の代表作となっている。

下記の写真は1955年(昭和30年)に撮影されたものです。



1958年(昭和33年)、日本芸術院会員を辞任。

1964年(昭和39年)、肺炎のため死去。墓所は日光市所野字丸美。

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1924年(大正13年)に号を放庵と改めたことは年代の解るひとつのターニングポイントであり、別号の未醒も記憶しておく必要があります。

ところで10年以上前に下記の作品「湖山指黙」という友人所有の作品を依頼されて思文閣に査定額にて12万で売却しましたが、思文閣の販売開始価格(大交換会)は25万でした。売買というのはそのようなもので、売る時には意外に安いものですが、現在ではもっと安くなっています。

湖山指黙 小杉放庵筆
古紙水墨指墨淡彩軸装 共箱 軸先本象牙 
全体サイズ:縦1268*横438 画サイズ:横288*縦394



小杉放庵の画は洋画からスタートしており、その画風の変遷は知っていないと同じ画家の作品とは予想のつかないものもあります。

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文典に入選した初期の画は、東洋的ロマン主義の傾向を示す。未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えている。

安田講堂壁画は、フランス画、特にピエール・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させ、日本的な志向もあらわしている。

フランス帰国後から東洋趣味に傾き、油絵をやめ墨画が多くなる。こうした洋画からの転向は「東洋にとって古いものは、西洋や世界にとっては新しい」という認識に支えられていた。

代表作は『山幸彦』(1917年)、『老子出関』(1919年)、『炎帝神農採薬図』(1924年)など多数。晩年には『放庵画集』(藤本韶三編、三彩社、1960年)、『奥のほそみち画冊』(龍星閣、1962年)が刊行した。

画文集『絵本 新訳西遊記』(左久良書房、1910年/新版・中公文庫、1993年)、また画担当した田山花袋『耶馬溪紀行』(図書出版のぶ工房、2018年)が改訂刊行されている。

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当方でまだ紹介していない小杉放庵の作品に下記の作品があります。

啄木 小杉放庵筆
紙本着色絹装軸共箱二重箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横511*縦431



小杉放庵の代表的な作品のひとつと言える作品ですが、詳細の紹介はいずれまた・・・・・


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