夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

大津絵 その19 女虚無僧 その2   

2020-11-02 00:01:00 | 掛け軸
現在、展覧会が東京ステーションギャラリーで「もうひとつの江戸絵画 大津絵」と題されて9月19日(土)から11月8日(日)まで開催されており、当方にも家内の友人からチケットが届ていていますが、未だに時間の都合がとれずに行けていません。今週末にでも行こうかと思っています。



その展覧会の案内には「これまで大津絵の展覧会は、博物館や資料館で開催されることが多く、美術館で開かれたことはほとんどありませんでした。それは大津絵が、主として歴史資料、民俗資料として扱われてきたからですが、本展では、大津絵を美術としてとらえ直し、狩野派でも琳派でもなく、若冲など奇想の系譜や浮世絵でもない、もうひとつの江戸絵画としての大津絵の魅力に迫ります。

大津絵は江戸時代初期より、東海道の宿場大津周辺で量産された手軽な土産物でした。わかりやすく面白みのある絵柄が特徴で、全国に広まりましたが、安価な実用品として扱われたためか、現在残されている数は多くありません。

近代になり、街道の名物土産としての使命を終えた大津絵は、多くの文化人たちを惹きつけるようになります。文人画家の富岡鉄斎、洋画家の浅井忠、民藝運動の創始者である柳宗悦など、当代きっての審美眼の持主たちが、おもに古い大津絵の価値を認め、所蔵したのです。こうした傾向は太平洋戦争後も続き、洋画家の小絲源太郎や染色家の芹沢銈介らが多くの大津絵を収集しました。

本展は、こうした近代日本の名だたる目利きたちによる旧蔵歴が明らかな、いわば名品ぞろいの大津絵約150点をご覧いただこうというものです。」と記されています。観に行くの楽しみですね。



そういえば男の隠れ家にあった掛け軸に古いぼろぼろの版画のような作品がありました。どうしようもなく痛んでいた作品は破棄したのですが、極力作品を遺すようにして何点の作品は額装にして飾って祀っています。

上記写真では左から「庚申様」、「天神様」、「不動明王」・・、写真にはありませんが、白隠禅師のような書(肉筆)まであります。これらの版画類はいつからあるのかは知りませんが、明治期にこのような版画はあちこちで売っていたのではないのでしょうか? 大津絵との関連性は不明です。

当方では展覧会に出品されているような立派な作品ではありませんし、本日紹介する作品もそれほど古い作品ではないでしょう。大津絵には贋作もあるそうですが、大津絵については製作時期、真贋は当方は一向にお構いなし・・。

大津絵 その19 女虚無僧 その2   
紙本着色軸装 軸先陶製 合箱 
全体サイズ:縦1500*横340  画サイズ:縦700*横240

 

顔を完全に隠した虚無僧の図ですが、その華奢な指先や少しだけ覗かせる足先から美人画とわかります。春画のようなジャンルには決して筆を染めなかった大津絵ですが、美人画自体は非常に多種多様に渡って存在し、中にはこういった一風変わった絵もあります。



「藤娘」、「太夫」その他の大津絵には女姿の美しい数々の画題があります。「虚無僧」は元来、普化宗の行脚僧で、深編笠をかぶり尺八を吹いて布施を乞う僧を指します。ところがいつしかこれにならって、いつしか女が身を隠して町々に色を売ることが行なわれたと見え、これを画題にしたのが「女虚無僧」であると云われています。この図はごく古い文献には現われてきませんが、遺品から推すると古い風俗画の一図として描かれた事は、残る優品で明らかです。



江戸初期から現代まで描き継がれている定番の図柄です。尺八を吹く姿から、「芸事上達のお守り」として飾られる方もおられるようです。ただ「女が身を隠して町々に色を売ることが行なわれた」ことを題材にしていたので人気はいまひとつであったのかみしれません。

本作品はそれほど古い作品ではありませんが、表具は新装されて気持ちのよいほどにきちんとされています。



ところでそもそも虚無僧とはなんなのでしょうか?  下記の記述が参考になれば幸いです。

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虚無僧(こむそう):禅宗の一派である普化宗の僧のこと。普化宗は中国(唐)の普化を祖とし、日本には臨済宗の僧心地覚心が中国に渡り、普化の法系の張参に竹管吹簫の奥義を受け、張参の弟子「宝伏」ら4人の居士を伴い、建長6年(1254年)に帰国し紀伊由良の興国寺に普化庵を設けて住まわせたことに始まる。古くは、「こもそう(薦僧)」ということが多く、もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという。

虚無僧は「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。この宗派は尺八を吹くことで悟りを得ることを目指し、武家の出でなければ入門できません。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。

托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、
男帯を前に結び、
腰に袋にいれた予備の尺八をつける。
首には袋を、背中には袈裟を掛け、
頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。
足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。
旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。



浮世絵でも女虚無僧は題材とされています。

勝川春章画 女虚無僧



鈴木春信画 女虚無僧



なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱(げばこ)は、明治末頃から見受けられるようになったもので、虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたものである(因みに「明暗」に宗教的な意味合いはなく、「私は明暗寺(みょうあんじ)の所属である」という程度の意味である)。江戸時代には、皇室の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などと書かれてはいなかった。江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、偽虚無僧も皇室の裏紋を用いていたようである。

慶長19年(1614年)に成立したという『慶長掟書』(けいちょうじょうしょ)には「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された。」との記述があるが、原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺、鈴法寺にも存在しないため、偽書ではないかと疑問視されている。ただ慶長掟書に、「宗門の者の帯刀を許す。同じく武者修行、敵討ちのための旅行を許す。天蓋は誰の前でもとらなくともよい。幕府からの不逞者などの探索の要請があった場合は協力する...」といった項目があり、還俗するのも比較的容易であったので、武士が身を隠す、敵討ちの旅に出るなどの際の格好の隠れ蓑となったともされる。罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。

明治4年(1871年)、明治政府は幕府との関係が深い普化宗を廃止する太政官布告を出し、虚無僧は僧侶の資格を失い、民籍に編入されたが、明治21年(1888年)に京都東福寺の塔頭の一つ善慧院を明暗寺として明暗教会が設立されて虚無僧行脚が復活した。

自宅に訪れた虚無僧への喜捨を断わるときには「手の内ご無用」と言って断わるが、これは歌舞伎からきている。歌舞伎のセリフに「虚無僧の尺八か、ただしまた、こう振り上げた刀の手の内か(お布施は出さないから虚無僧の尺八は無用だと言っているのか、または娘を斬ろうと振り上げた刀の手並みが無用、斬らずともよいと言っているのか)」というものがあることからのようです。

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この作品入手後に調べたら、当方の所蔵作品の中に他の大津絵での「女虚無僧」の作品がありました。たいした作品でないと収納したままになっていたようです。重複して入手することとなり、反省・・・。

左が「その1」、右が「その2」ですが、まったく同じ時期に同じ版木で作ったようです。

*大津絵は輪郭線は版画です。



他の所蔵作品解説                   
大津絵 その17 女虚無僧 その1 
紙本着色軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横330*縦1530 画サイズ:横245*縦700

 

この女虚無僧の作品は江戸末期から明治期にかけてのわりと新しい作品群と推察しています。本当の古い大津絵はまず市場には滅多にでてきません。江戸期の大津絵最盛期の作品は実は意外に高値で取引され、とくに初期の仏画は数が少なく非常に高価です。

冒頭の写真にあります男の隠れ家に額装にて飾られたような作品群もおそらくどんどん少なくなっています。もともと囲炉裏のあった神棚や仏壇に飾られていたので、現状遺っている作品も強烈に痛んでいる作品が殆どでしょう。

古い作品例は文献に掲載されています。


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