夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

作品整理 再考 菅井梅関

2020-10-26 00:01:00 | 掛け軸
菅井梅関は江戸後期における南画の画家ですが、南画最盛期でもあり、おそらく戦後まで贋作が横行し、本ブログにも投稿されている釧雲泉らとともに真贋の難しい画家でもあります。

当方での蒐集作品を整理したリストには下記の作品があります。明らかに出来の悪い作品(NO91)はすでに破棄か売却処分されているのか記憶になく、当方の手元にはないようです。

整理した「菅井梅関 所蔵作品リスト」は現在下記の写真のとおりです。



整理も兼ねて作品を紹介します。

真作
1.墨梅竹図 菅井梅関筆
紙本水墨 軸先木製 杉箱入 
全体サイズ:縦2030*横944 画サイズ:縦1690*横870



2.秋景山水図 菅井梅関筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2215*横717 画サイズ:縦1195*横563



3.冬景獨釣図 菅井梅関筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
古美術鑑定事務取扱日本美術親交會発行鑑定書高畑翆石鑑定書付
全体サイズ:縦2230*横692 画サイズ:縦1340*横555



4.寒山積雪 菅井梅関筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 高畑翆石鑑定書付
全体サイズ:縦1990*横410 画サイズ:縦1312*横265



5.秋山訪友之図 菅井梅関筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦2000*横750 画サイズ:縦1240*横540



6.墨梅図 菅井梅関筆
絹本水墨 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1932*横477 画サイズ:縦1162*横365



7.秋窓晩翆 菅井梅関筆 →真作
絹本水墨 軸先木製 犀東庵箱書 杉箱二重箱
全体サイズ:縦1290*横510 画サイズ:縦1880*横630



91.青緑山水図 菅井梅関筆                      処分?
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

最後まで判断に躊躇したのが作品NO7「秋窓晩翆 菅井梅関筆」です。

秋窓晩翆 菅井梅関筆
絹本水墨 軸先木製 犀東庵箱書 杉箱二重箱
全体サイズ:縦1290*横510 画サイズ:縦1880*横630

賛には「秋窓晩翆 □宋人筆意味於板鼻僑居 梅関筆意 印」とあり、印章は「菅井兵輔」の白方印、「仙台東斎」の朱方印が押印されている。



箱書は「梅関居士秋窓晩翆絹本竪幅」とあり、箱裏には「昭和二十一壬戊(昭和二十一年は丙戊)林鐘(林鐘:陰暦六月)犀東庵主人鑑題」とあります。「犀東庵主人」とは詩人の「国府犀東」のことでしょう。
 
*国府犀東: こくぶ-さいとう 1873-1950 明治-昭和時代の詩人。明治6年2月生まれ。博文館の「太陽」編集部や内務省,宮内省などにつとめ,のち慶大,東京高校でおしえる。歴史,地誌,有職(ゆうそく)故実にくわしく,漢詩を主に新体詩もつくった。昭和25年2月27日死去。77歳。石川県出身。東京帝大中退。名は種徳(たねのり)。詩文集に「花柘榴(はなざくろ)」,著作に「佐渡と新潟」など。

  

本作品の判断に躊躇した理由は本作品のブログにあったコメントに凝縮されています。

本作品に関するブログへのコメント 「印」          2013/04/15 02:16:24
「贋作とは本当に精巧なものもあり蒐集する立場から見れば恐ろしいものです。この梅関の印も思文閣掲載の印と比べると菅の中のつくりが左右の冠の縦棒より下に突き出している、井の字の横棒の膨らみ方が思文閣と違って上下に膨らんでいる、下の印も多くの文字の横線が思文閣のものより太くなっているなど、偽造印である可能性が高いのです。そういう目で絵を見れば、一番最後に掲載された真作と比べると質が著しくおとり、構図などがよく似ていることからそういうのを参考にした贋作である疑いが濃厚となります。いろんなことがあると思いますが、これからも蒐集頑張ってください。」

贋作の疑いのひとつが下記の印章の比較の写真です。

 

上記写真の左の写真が本作の印章ですが、絹本への押印では多様の変形があり、左上に変形しています。また右の資料はページがゆがんだ状態で撮影されています。資料を拡大すると下記のようになります。

 

ちなみに資料の元は下記の写真です。他の作品群や資料と比較しても本作品の印章を偽印とするには早計のようです。



この印章の資料は上記作品群の照合の大いに役に立つものとなっています。



一方でこの作品の出来からの判断ですが、資料の作品は名品ですので、本作品との比較での優劣には無理があります。



菅井梅関は母の死、家業を継いだ弟の失明で帰郷しています。涌谷領主の伊達桂園に仕えますが、失明した弟家族を養う生活は苦しく、しかも大飢饉。そこに追い打ちをかけたのが、桂園、南山、東洋の相次ぐ理解者、支援者の死去です。借金に苦しむ梅関は、還暦を迎えて間もない天保15年(1844年)1月11日62歳で没していますが、これらの状況に心折れ、自ら井戸に身を投げています。



菅井梅関の最晩年の作品は、亡失感に包まれた山水を多作し、その「生」を終えてしまったという作品の画面に、見ていてやりきれなさを感じてしまうものです。一般に「帰郷した後の菅井梅関の作品の画は、甘くなる」という評価がありますが、こういう理由もあるのかもしれません。

さらに賛の書体からも本作品は真作であると当方ではジャッジし、この作品は遺すこととなりました。


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