広田多津の野菜を描いた大幅の作品です。これほど大きな広田多津の作品は珍しいかと・・・。
静物 広田多津筆 その2
紙本着色軸装 太巻共箱
全体サイズ:縦1650*横970 画サイズ:縦460*横710
裸婦図や舞妓図で人気の高い広田多津の作品ですが、意外に静物画も数多く描いています。
あらためて広田多津の画歴は下記のとおりです。
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広田多津:明治37(1904)~平成2(1990)。初め三木翠山に学び、のち竹内栖鳳の画塾に通う。
昭和10(1935)年西山翠嶂に師事、画塾青甲社で研鑽に励む。
昭和11年秋の文展鑑査展に初入選、
12年の第1回新文展から毎回入選を重ね、
14年第3回新文展に「モデル」で特選。
昭和15年、西山塾の向井久万と結婚。
23年、創造美術創立に参加。
49年創画会設立以降、創画展に出品。
52年、京都府美術工芸功労者、
53年、京都市文化功労者となる。
裸婦や舞妓などの女性像を通して、みずみずしい女性の美しさを描き続けた。平成2年(1990)歿、86才
*西山翠嶂、向井久万や三木翠山の作品は本ブログに作品を投稿しています。
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ちなみに広田多津は女流画家です。
さらに画歴の補足事項は下記のようになります。
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補足:明治37(1904)年5月10日、京都市中京区の麻織物商を営む父覚次郎、母京の次女として生まれる。大正5年京都市立竜池小学校を卒業、しかし病弱のため進学せず、家事を手伝いながら独学で絵を始めた。同8年頃、竹内栖鳳の門下生で美人画を得意とする三木翠山を紹介され、1年ほど住み込みで絵の手ほどきを受ける。次いで同12年頃から「国画創作協会」の影響を受けていた甲斐庄楠音のもとで学んだ後、旧師・翠山から紹介を受けて竹内栖鳳の竹杖会で研鑚を積む。
昭和8年竹杖会が解散したのち、翌13年、西山翠嶂の青甲社に入塾。
1936年(昭和11年)文展鑑査展に「秋晴」が初入選。
1939年(昭和14年)第3回新文展で、初めての裸婦「モデル」が特選を受賞。
昭和15年には、西山塾で同門の向井久万と結婚(35年まで)。
17年の第5回新文展で「大原女」が再び特選となり、戦後21年の第2回日展でも「浴み」が三たび特選を受賞した。しかし、官展に出品したのは、翌22年の第3回日展までで、戦後1948年(昭和23年)、向井久万、上村松篁、秋野不矩、沢宏靭、橋本明治、福田豊四郎、吉岡竪二ら、京都・東京両系の画家による創造美術の結成に参加、創立会員となる。同人の秋野不矩と共に、当時の女性画家では珍しく裸体デッサンや裸婦作品を試みた。
下記の作品は本ブログに投稿した作品です。
鏡 広田多津筆 その1
紙本着色軸装→額装に改装
2022年5月に額装→折れ補修のため同年7月に裏打ち直し
全体サイズ:縦1890*横647 画サイズ:縦875*横537
*上記の作品は「鏡」という作品の模写の可能性があります。
ちなみにこの作品では印章が逆さに押印されており、「逆さ印に贋作なし」というセオリーを逆手にとった?のかな。真贋は不明の作とご了解願います。
初期のデッサンには、陰影によって裸体の立体感を出そうと試みた様子も見られるが、その結果、余分なものを削ぎ、簡潔で美しい線による表現技法に到達する。ペン書体のような肥痩のない細い輪郭線は、多津の特色のひとつとなる。「世界性に立脚する日本絵画の創造」をうたった同会は、26年新制作派協会と合流して新制作協会日本画部となったため、会員として以後同展に連年出品する。
1955年(昭和30年)「大原の女」で第5回上村松園賞を受賞。この頃から一時期、テーマを舞妓に絞って制作を行う。それまで多津にとっての舞妓とは「着飾った人形」にすぎなかったが、「都をどり」のポスター原画を以来されてスケッチをする中で、美しい舞妓が「水泳やスケートを自由に楽しみ、現代に生きる女性」であることを知り強い興味を持ったという。
*当方では舞妓を描いた作品では下記の作品があります。この作品は真作と判断しています。
扇面 舞妓 広田多津筆 その2
金彩下地着色扇面額装 誂:黄袋+タトウ
全体サイズ:縦440*横690 画サイズ:縦875*横537
1968年(昭和43年)二人の舞妓を描いた「凉粧」が文化庁買上げとなる。この間、29年現代日本美術展、30年日本国際美術展に出品し、また35年より裸婦を一時中断して舞妓を多く描く。
創立会員として、50年第2回展「帰路」、56年第8回「白扇」、60年第12回「臥る裸婦」をはじめ毎年出品した。また36年エジプト・アメリカ等8ケ国、48年イタリア・スペイン、52年インド、56年シルクロードを旅行。44年東京の彩壷堂での第1回個展以降、50年、56年と東京セントラル絵画館で個展を開催した。裸婦や舞妓を題材に、おおらかで豊饒な女性の美を描き続けた画業であった。
1977年(昭和52年)京都日本画専門学校校長就任。1978年(昭和53年)京都府と京都市の文化功労賞を受賞。晩年は《想》(1988年)など、人体を極限まで無駄のない線でとらえた生命感のある女性像を多く描いた。
1990年(平成2年)11月23日、心不全のため京都市北区の自宅で死去。86歳没。
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表具はきちんとしたもののようです。
収納箱は太巻の共箱二重箱の誂えとなっています。
それでも作品の下部には絵の具の剥落が見られます。
作品中や共箱の落款や印章は上下の写真の通りです。
軸装は京都の藤井好文堂の表装のようです。
誂えもしっかりとした作品は気持ちが良いものです。