夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

雪中訪友図 木下逸雲筆 その4

2017-02-28 00:01:00 | 掛け軸
週末は祖父は会合で留守・・、「さて昼飯は鰻だ!」息子と意見が一致。



危機に瀕する鰻を今のうちに愉しめ! 最近は食事に際しても膝の上・・・



南画を愉しむ文化が日本において永きにわたり衰退していますが、この文化はもはや復興することはないのでしょうか?

雪中訪友図 木下逸雲筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1930*横660 画サイズ:縦1250*横500



賛の字体から当方の他の所蔵作品と同時期の作ではないかと推察されます。



元の画家のどの作品を参考にして描いたのかは定かではありませんが、長崎にしかない職業で江戸時代中期に長崎奉行所内に設けられた「唐絵目利(からえめきき)」としての職業から、中国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価をしており、数多くの中国渡来の作品を見ていたことには相違がなく、その中のひとつの作品の筆致を模倣した作品であろうかと推察されます。



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木下逸雲:寛政12年8月1日(1800年9月19日)~慶応2年8月4日(1866年9月12日)。江戸時代後期の長崎の南画家。鉄翁祖門・三浦梧門と共に長崎三大家とされる。幼名弥四郎といい、のちに通称を志賀之介とした。諱を相宰。逸雲は号、ほかに如螺山人・物々子。室号を養竹山房・荷香深処とした。



長崎八幡町、木下勝茂の3男に生まれる。文化14年(1817年)、18歳で木下家代々の乙名(名主)の役を引き継ぐも、文政12年(1829年)にその役を兄の子に譲り、自身は元来関心のあった医師を生業とし、医門名を得生堂と称した。蘭医オットー・モーニケによって伝えられた種痘術の普及に努めている。

画は、はじめ唐絵目利の石崎融思に学び、来舶清人の江稼圃・張秋谷からは南画の技法を修めた。その後も清人陳逸舟、徐雨亭にその画風を学んだ。さらに雪舟、狩野派・大和絵・円山四条派などの諸派や西洋画の画法を熱心に研究し、様々な技法を取り入れた。画僧鉄翁祖門と画を共に学び生涯の友となった。逸雲は筆が早く、遅筆の鉄翁と対極をなした。田能村竹田・頼山陽・広瀬淡窓など文人と交わった。

門人に、河村雨谷・津田南竹・池島邨泉・長井雲坪など。また姉の小蘭、甥の秋塘も画家である。逸雲は多芸多才で知られ、書・篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで、煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で優れた和歌を詠んだ。また白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っている。長崎円山花月楼清譚会の世話役を務め、日中文化交流を促した。



慶応2年(1866年)4月、京阪・江戸に漫遊し、同年8月横浜から長崎行きのイギリス船黒龍号に乗船するも、玄界灘で海難事故に遭い、帰らぬ人となった。享年68。

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補足
江戸時代、日本で唯一外国に門戸を開いていた港町長崎には中国・オランダなどからさまざまな“もの”が入ってきた。その中には、書籍・絵画なども多く、またあわせて中国より文人画家 も来舶し、彼らのもとで長崎の画人たちが画を学び、その指導のもと多くの文人画家たちが育っている。文人画は文字通り、中国において専門画家ではない、学者・医者・官吏などの文人が描いた 絵であり、わが国の文人画家たちの経歴もまた、武士・儒者・医者・商家など多種にわたっている。

鎖国体制下にあって、長崎という特殊な環境で生まれた職業に乙名職がある。「おとな」と読む長崎奉行に属する町役人のことで、町の支配を任され、市政をはじめ出島管理などを行った。この乙 名職を代々勤める家に生まれ、自らもこの職を勤めた経歴をもつ木下逸雲は、後に長崎を代表する文人画家となる。

逸雲は、寛政11年(1799)、木下清左衛門勝茂の四男として、長崎八幡町(長崎市)で生まれた。木下家は本姓藤原氏で、代々八幡町の乙名を勤める家柄で、逸雲も兄の隠居後、18歳でその役を 継ぐが、若年より医学の勉強をしたいという志しがあり、職を兄の子に譲り、本格的に医学の勉強を始め、内科・外科の二科を兼ねた医師となり、医門名を得生堂と称した。



ところで、逸雲は多芸多才な人で、絵画はもとより、書・篆刻を能くし、琵琶の演奏・制作に巧みで煎茶をたしなみ、藤原相宰の名で和歌を詠むなど、それぞれに一家をなすほど精通するが、その中でも特に画家として著名である。



絵は初め地元の石崎融思(いしざきゆうし)(1768~1846)に学ぶ。石崎家は「唐絵目利(からえめきき)」四家のうちの一つで、この唐絵目利というの も、長崎にしかない職業で江戸時代中期に長崎奉行所内に設けられた。中国から船載されてきた書画や器物の鑑定と価値の評価、さらに輸出入の交易品や鳥獣類などの写図の作成が主な職務であった。また長崎奉行所の御用絵師を兼務することが多かった。



融思の元で学んだ後、逸雲はさらに雪舟、狩野派、大和絵、円山四条派などの諸流派の研究にも専心し、水墨、淡彩、著色の技法を駆使して、細密画から大津絵に至るまで実に様々な絵を描いた。西洋画法にも関心を持ち、西洋絵の具の研究も熱心 に行った。また、白磁染付で知られる亀山焼の発展に尽くし、自ら絵付けも行っているが、文人画風の雅味のある焼物と評判となった。長崎画壇興隆の基礎を築いた逸雲の自信はたいしたもので、 慶応2年(1866)4月、諸国の名勝を探ろうと京阪・江戸に漫遊した際、江戸から長崎の門人に送った書簡には「長崎の南画、当時日本第一、他に見るべきものなし」と書いている。

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衰退していくものには、なにか愛着が湧くことがある。



鰻も南画も同じ・・・




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