
最初の3連休は家内が風邪でダウンしたために、遠出せずに近場で「相棒」の映画を観てきました。株・円・国債暴落のXデーをテーマにした映画でなかなか面白い作品でした。
個人投資はますます難しさを加えています。金利の良い時代はゆうちょが一番でした。その後は国債に流れましたが、この低金利時代は何に投資して良いのかよくわかりません。
今年の1月までは外貨建の投資信託に投資した方は10%~20%の利を得たはずです。株はその銘柄によって利は千差万別ですが、滅多に損をした方はいないでしょう。ここまで円安、株高が進行したら何に投資するか難しいようです。少なくても手数料以上の利を出さなくてはいけません。
その点、骨董は気楽でいいものです。自分の好きなものに投資すればよい。そういうものを人生において持たなくてはいけません。
さて、本日から法事もあり早めに秋田へ帰郷です。しばしブログは休稿です。
寺崎廣業の作品を探していたら、本作品にめぐり合いました。高橋万年、萬年とも書きますが、ほとんど地元秋田でも知っている人は非常に少ない画家でしょう。戦後まではそれなりに名があったようですが、今では絵の固さ、というか独創性のなさゆえというか・・名の出る画家ではありません。この絵は寺崎廣業の名作の模作と言うところで存在価値があります。
杜甫 寺崎廣業作模作 高橋万年筆
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1880*横650 画サイズ:縦1150*横500

「高橋万年:1897-1956 大正~昭和時代の日本画家。明治30年12月21日生まれ。上京して寺崎広業に入門するが,病弱のため郷里の秋田にかえる。」

高橋万年が21歳の時の寺崎廣業の作品であり製作年代は不詳ですが、それから数年後の作品ではないかと推察されます。

「大正12年院展に初入選。秋田の田園風俗をこのんで描き、代表作は「野山柴」。昭和31年8月10日死去。58歳。本名は計治。」

秋田でも知る人は少なくなった高橋万年です。

寺崎廣業の「杜甫」は1918年(大正7年)に描かれ、最後の文展出品作となっている。平成4年に開催された「寺崎廣業とその時代展」(秋田市千秋美術館)に出品されたが、所蔵は記されていないため個人蔵と推察されます。

唐代の詩人杜甫は、政変によるうち続く混乱と惨状を自らの痛みとして詩作を続け、晩年は漂白生活の末病没しています。胸を病み、なお、ついの窩は得られずに、大岩石に独り腰を下ろしたときの図であろうかと推察されます。

誌想を練るというよりは、生きることの深い憂愁を詩観しているかに見えます。表情に「詩人の情相」があるとも評されました。さらに杜甫は通常「騎驢図」で描かれますが、本作品は座している構図はこれを破ったものとして注目されました。横山大観の「千ノ与四郎」という作品と双璧と評された。
絵葉書にもなっています。

この年、広業は病気を理由に文展審査員、東京美術学校教授、帝室技芸員の辞表を出し、翌年大正8年2月21日、咽頭がんのために没しています。
個人投資はますます難しさを加えています。金利の良い時代はゆうちょが一番でした。その後は国債に流れましたが、この低金利時代は何に投資して良いのかよくわかりません。
今年の1月までは外貨建の投資信託に投資した方は10%~20%の利を得たはずです。株はその銘柄によって利は千差万別ですが、滅多に損をした方はいないでしょう。ここまで円安、株高が進行したら何に投資するか難しいようです。少なくても手数料以上の利を出さなくてはいけません。
その点、骨董は気楽でいいものです。自分の好きなものに投資すればよい。そういうものを人生において持たなくてはいけません。
さて、本日から法事もあり早めに秋田へ帰郷です。しばしブログは休稿です。
寺崎廣業の作品を探していたら、本作品にめぐり合いました。高橋万年、萬年とも書きますが、ほとんど地元秋田でも知っている人は非常に少ない画家でしょう。戦後まではそれなりに名があったようですが、今では絵の固さ、というか独創性のなさゆえというか・・名の出る画家ではありません。この絵は寺崎廣業の名作の模作と言うところで存在価値があります。
杜甫 寺崎廣業作模作 高橋万年筆
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1880*横650 画サイズ:縦1150*横500

「高橋万年:1897-1956 大正~昭和時代の日本画家。明治30年12月21日生まれ。上京して寺崎広業に入門するが,病弱のため郷里の秋田にかえる。」

高橋万年が21歳の時の寺崎廣業の作品であり製作年代は不詳ですが、それから数年後の作品ではないかと推察されます。

「大正12年院展に初入選。秋田の田園風俗をこのんで描き、代表作は「野山柴」。昭和31年8月10日死去。58歳。本名は計治。」

秋田でも知る人は少なくなった高橋万年です。

寺崎廣業の「杜甫」は1918年(大正7年)に描かれ、最後の文展出品作となっている。平成4年に開催された「寺崎廣業とその時代展」(秋田市千秋美術館)に出品されたが、所蔵は記されていないため個人蔵と推察されます。

唐代の詩人杜甫は、政変によるうち続く混乱と惨状を自らの痛みとして詩作を続け、晩年は漂白生活の末病没しています。胸を病み、なお、ついの窩は得られずに、大岩石に独り腰を下ろしたときの図であろうかと推察されます。

誌想を練るというよりは、生きることの深い憂愁を詩観しているかに見えます。表情に「詩人の情相」があるとも評されました。さらに杜甫は通常「騎驢図」で描かれますが、本作品は座している構図はこれを破ったものとして注目されました。横山大観の「千ノ与四郎」という作品と双璧と評された。
絵葉書にもなっています。

この年、広業は病気を理由に文展審査員、東京美術学校教授、帝室技芸員の辞表を出し、翌年大正8年2月21日、咽頭がんのために没しています。