夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

狩場の曾我 植中直斎筆 その2

2016-08-24 00:01:00 | 掛け軸
お盆の帰省の第一義はやはり墓参り・・・。 昔ながらの風習は小さな頃から身につけていくべきものでしょう。先祖を敬う気持ちがすべての原点です。 さて、今日は「ご馳走かな?」と息子・・・。 ところで郷里は銀細工の工芸品が盛んなところです。男の隠れ家から下記のような作品が出てきました。 扇形をした純銀の小さな器です。 結婚式の引き出物のようです。両家の家紋入りのようです。 なんと爪楊枝入です。小粋ですね。「南鐐扇子形楊枝入」とあります。 「南鐐」とはご存知の方は少ないと思いますが、 1 美しい銀。精錬した上質の銀。 2 江戸時代、二朱銀の異称。長方形の銀貨幣で、1両の8分の1。南鐐銀。南挺(なんてい)。 という意味です。 さて、本日の紹介の作品は、箱根旅行した際に「箱根神社に詣でて、橋本雅邦の作品を紹介してる」本ブログにもってこいの作品です。 狩場の曾我 植中直斎筆 その2 絹本着色軸装 軸先鹿角 共箱 全体サイズ:縦2180*横710 画サイズ:縦1430*横510 植中直斎の作品は今回で二作品目の紹介となります。 ひとつ目の作品は下記の作品を紹介しています。 陶工柿衛門図 植中直斎筆 本着色軸装 軸先象牙 共箱 全体サイズ:縦1375*横665 画サイズ:縦410*横510 「植中直斎 」については、そちらでも紹介していますので、ここでは曽我兄弟について記すことにしました。 ********************************* 植中直斎 (うえなか-ちょくさい):1885-1977 明治-昭和時代の日本画家。明治18年10月1日生まれ。深田直城,橋本雅邦に師事。また田中智学に日蓮(にちれん)宗の教義をまなぶ。大正2年山元春挙に入門。文展,帝展などに仏教画を発表。昭和48年「日蓮聖人絵伝」を完成。昭和52年8月12日死去。91歳。奈良県出身。本名は直治郎。 ********************************** かなりの技量の持ち主ですが、ご存知の方は少ないでしょうね。このような画家には贋作もなく、作品も素晴らしいものがあります。小生のような蒐集する者には狙い目の画家です。 以下は曽我兄弟についてです。 ********************************** 曾我兄弟の仇討ち(そがきょうだいのあだうち):建久4年5月28日(1193年6月28日)、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我祐成と曾我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つである。武士社会において仇討ちの模範とされていた。 所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。祐泰の妻の満江御前とその子・一萬丸と箱王丸(筥王丸)が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現社に稚児として預けられた。文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(のちに五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り(時政の前妻が祐親の娘だった)、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。苦難の中で、曾我兄弟は父の仇討ちを決して忘れなかった。 兄弟は、仇討ちの成就を願うために箱根権現社に赴き祈請した。祈請を済ました二人は、かつて世話になった別当の元を訪れ、別当は泣く泣く「思い出して来てくれたのはとても嬉しいことだ。」と言って二人をもてなし、五郎に兵庫鎖の太刀、十郎に黒鞘巻の小刀を与えた(両方とも源義経が木曽義仲討伐に上洛した際、討伐の成就を願って箱根権現へ納めたものであった)。別当は二人を遠くの遠くまで見送りに来て「わしがいる限り、後世のことは心配なさるな。よくよく供養しましょう」と言った。 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、ついに兄祐成が仁田忠常に討たれた。弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した小舎人の五郎丸によって取り押さえられた。翌5月29日、時致は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児犬房丸に請われて斬首を申し渡す。時致は従容と斬られた。 この事件の直後、しばらくの間鎌倉では頼朝の消息を確認することができなかった。頼朝の安否を心配する妻政子に対して巻狩に参加せず鎌倉に残っていた弟源範頼が「範頼が控えておりますので(ご安心ください)」と見舞いの言葉を送った。この言質が謀反の疑いと取られ範頼は伊豆修禅寺に幽閉され、のちに暗殺されたとも自害したとも伝えられている。 また、この事件の際に常陸国の御家人が頼朝を守らずに逃げ出した問題や事件から程なく常陸国の多気義幹が叛旗を翻したことなどが同国の武士とつながりが深かった範頼に対する頼朝の疑心を深めたとする説もある。 工藤祐経を討った後で、曾我兄弟は頼朝の宿所を襲おうとしており、謎であるとされてきた。北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした暗殺未遂事件でもあったという説がある。また、伊東祐親は工藤祐経に襲撃される直前に自分の外孫にあたる頼朝の長男・千鶴丸(千鶴御前)を殺害しており、工藤祐経による伊東祐親襲撃自体に頼朝による報復の要素があり、曾我兄弟も工藤祐経の後援者が頼朝であったことを知っていたとする説もある。 ********************************** 歴史画の大家にも劣らぬ見事な描写力です。展示室に飾っても見ごたえがあります。 敵討ちを控えて馬の表情も厳しい。 このようなあまり知れてない画家の出来のよい作品は入手が簡単なようで、実は意外に難しいものです。 なぜか? いい出来の作品はそれなりにもはや所蔵されていて市場に出たこないし、出てきても目の肥えた蒐集家がまだいるということでしょう。結婚式の引き出物とはいかないようです
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コレクション
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