夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

偶成より 三行書 西郷南洲筆 明治7年頃

2021-12-18 00:01:00 | 掛け軸
西郷隆盛の書で有名なのは、西郷隆盛が大久保利通に寄せた詩『偶成』の一節、「一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず」でしょう。本日はその書の紹介です。真贋の云々よりその書の意図するところに感じるものがある作品です。西郷隆盛が大久保利通に寄せた詩『偶成』の一節であり、明治4年1月20日に揮毫(きごう)された書が、現在も残っています。



*征韓論にひっかけて手前には李朝の作品を飾っています。

ちなみに展示室には同時期に書かれた「残菊」も展示しています。

三行書「残菊」 西郷南洲筆 明治7年頃
巻止:吉岡班嶺鑑定有 紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1960*横708 画サイズ:縦1310*横593



基本的に作品は印刷ではなく、紙質は楮紙に書かれています。真作は基本的に楮紙に書かれています。印刷や模倣品はパルプ紙などの紙質が多いようですが、パルプ紙でも100年以上前からあるので要注意ですね。

楮紙:こうぞがみ・穀紙(こくし/かじかみ))とは、楮の樹皮繊維を原料として漉いた紙のこと。 麻紙や斐紙に比べて美しさには劣るとされているが、丈夫であったために重要な公文書や経典・書籍など長期間の保存を要する文書の用紙として用いられて、長く和紙の代表的な存在とされてきた。明治以後には三椏紙とともに日本の和紙の生産の主力となったが、第二次世界大戦後の和紙の衰退とともに生産量は減産しています。

偶成より 三行書 西郷南洲筆 明治7年頃
紙本水墨軸装 軸先木製塗 誂箱
全体サイズ:縦1983*横676 作品サイズ:縦1252*横529



幾たびか辛酸を歴て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全を愧ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず



意味は下記のとおりのようです。

「人間は、辛(つら)く苦しいことを何度も経験して初めて志が堅固になるものである。
立派な男というものは、たとえ玉となって砕け散るようなことになっても、瓦となって生きながらえるのを恥とするものである。
我が家には先祖から伝わった子孫の守るべき家訓があるが、世間の人は知っているであろうか。それは、子孫のために田地など財産を買い残すことはしないということである。」

意図するところには下記の説明があります。

明治2年、正三位を下賜されるが、それを「未だ維新は完成しておらず、禄を私物化すべきではない」と西郷は固辞し、自己の思想信条を述べて、今後の心の緩みを戒めて作られたようです。西郷の目から見れば、維新の功労者は高報酬を得、急に豪奢な生活をし、政治に手抜きをし始め、また朝廷の高官も安逸をむさぼり遊蕩にふけり、事を誤るものが多くなっている。今こそ命を賭して国の行く末を案じ続けなければならない時に、ぬるま湯に浸ることを決め込んでいる政府高官の精神にカツを入れようとしたのでしょう。そのためには後に続くものに財産を与えては、汗水流して働かなくなると嘆いている意図がうかがえます。

裏を返せば西郷の、これからも国のために挺身するという決意の披瀝であろう。独立自営千辛万苦に耐えさせるというのが、西郷家に残し継がれてきた家訓であろうが、決してこれを、一西郷家の教訓だけだと心得てはならないという意味です。



「子孫のために美田を買わず」という趣旨のことはもともと「老子」からきているとされています。

「知足不辱、知止不殆」という言葉が『老子』にあります。これは、「足るを知れば辱(はずかし)められず、止(とどま)るを知れば殆(あや)うからず」と読みます。「控えめにしていれば辱めを受けない、止まることを心得ていれば危険はない」という意味で「止足の戒め」といわれます。仏教にも「小欲知足」という言葉がありますが、相通じるものが感じられます。

この「止足の戒め」について、次のような逸話があります。前漢の宣帝の時代に疎広(そこう)という人物がいた。優秀な人であったことから朝廷に招かれ、皇太子の教育係を務めたが、やがて皇太子の学問が進んだことを見届けると「足るを知れば辱められず 功とげ身を引くは天の道なり」と述べて辞任を願い出た。

その後、郷里に帰ってからは、朝廷から賜った金品を惜しげもなく散じ、親戚、友人たちを酒席に招いて共に楽しんだ。すると、そのような生活を心配した友人が「子孫のために、少しは田地でも買ってはどうか」と勧めたところ、疎広は「子孫に余分な財産など残してやるのは、怠惰を教えるようなものです。賢者で財産の多い者はその志を傷つける結果となり、愚者で財産が多ければ過ちを増すのみです。しかも富はとかく民の恨みを買うものです。私は過ちを増し、人の恨みを増すようなことはしたくありません。」と言って、余分な財産を子孫にいっさい残そうとはしなかった。このような疎広の生き方を、世間の人びとは「止足の計を行い、辱殆(じょくたい)の累(わざわい)を免る」と評価したと言われます。

 

いっぽう日本には西郷隆盛の詩に「児孫のために美田を買わず」という言葉があります。意味は、「子孫に財産を残すと、それに依存して安逸な生き方をするので、財産を残さない」ということのようですが、前述の『老子』の「止足の戒め」を踏まえてのものだったかもしれません。西郷隆盛が大久保利通に寄せた詩『偶成』の一節であり、明治4年1月20日に揮毫(きごう)された書が、現在も残っています。

よく知られている「児孫の為に美田を買わず」という言葉は、一見すると疎広の話と相通じるものがあるように思われますが、詩全体の意味からすると「子孫のためにならないから美田を買わない」というよりも、むしろ「志を果たすためには、全てのものを犠牲にする覚悟ができている」ということを意図するようにも思われます。

西南戦争は征韓論に破れたことが一因ともされていますが、実は明治新政府の官僚たちが、幕末の頃に抱いていた新国家建設の志を見失い、自らの利権のために奔走していたことを正そうとするためであったとも言われています。したがってこの言葉は、政府の高官であった時も贅沢とは無縁の生活を押し通した西盛らしい痛烈な批判を吐露したものとも言えます。

 

時代を遡った1600年、天下分け目の関ヶ原合戦の折り、東軍方が石田三成の居城であった佐和山城を落とした際、豊臣政権下の五奉行の一人として権勢を奮った三成の城ということで、さぞや多くの金銀財宝が蓄えられているものと意気込んで乗り込んだところ、城は質素な作りで期待した蓄財の類はなかったと伝えられています。

西郷隆盛の詩の一節「丈夫玉砕すとも甎全を恥ず」を想起させるもので、関ヶ原合戦にすべてをつぎ込んで臨んだ三成の心意気が窺い知られる逸話です。疎広は、功成り名遂げた後は保身のために官を辞して郷里で散財しました。三成も、主君であった秀吉の死後、一時は五奉行の職を辞して佐和山に退隠していたのですが、やがて蓄財を注ぎ込んで天下分け目の決戦に臨みました。共に「子孫に財産を残さなかった」という点では同じですが、国や時代、立場も異なるとはいえ、処世の仕方の違いが興味深い故事です。



この作品に押印されている印章の組み合わせは明治7年以降のもので、真筆なら西郷隆盛が下野した後のことになります。真贋はよく解りませんが、これほど有名な漢詩はよく模倣されたでしょう。多くの模倣は贋作を作ろうとする意図より学ぼうとする意図が多かったのかもしれません。いずれにしてもわが身に、そして現在の政治などの公に関わる方々にこの西郷隆盛の教えが生きていることを願いたいものです。

いずれにしても西郷隆盛の漢詩の中でもかなり有名なもので、数多く印刷、模倣作品が出回っています。なんでも鑑定団にも2作品ほど同じ漢詩の作品が出品されていましたが、どちらも印刷した作品した。



本作品は一行の最終文字が「丈」になっていますが、通常は一行目の漢字は「夫」ですね。「残菊」も一文字抜けいますが、西郷南洲は記憶に従って書きますので、かえって真作の可能性が高くなります。

ま~、なにはともあれ、西郷南洲の書もむずかしいのさ・・。保存箱もなく1万円ほどで購入した作品で、ここまで学習できれば元は持ったようなもの

小生の骨董蒐集も「児孫の為に美田を買わず」といったところでしょうか? 遺すのはメダカくらい・・。


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