![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/bd/bd9bab90b9a790bc7810470e45c19277.jpg)
掛軸を改装するタイミングは本体が痛まない限り天地を交換することをお勧めします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/22/4798c9974b4eed458f6b8e29bf4ec606.jpg)
天地を交換するだけで巻きやすくなったり、作品の見栄えが良くなります。扱いやすくなることで、巻く際のしわや折れの防止にもなります。改装のお値段もだいぶ安くできます。
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本日紹介する作品はひさかたびりに池田輝方の作品の紹介です。
大正期の美人画を一時期蒐集していた際の作品には池田輝方の作品も幾つかありましたが、その経緯から本作品にも興味を持ち入手に至っています。本来は妻である池田焦園のほうに興味がより興味があるのですが・・。
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旅 池田輝方筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先塗 山平義正鑑定箱 塗二重箱
全体サイズ:横430*縦2060 画サイズ:横292*縦1250
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鑑定しているのは画家の山平義正です。
山平義正:昭和7年(1932)兵庫県生。寺島紫明に師事。神戸市文化功労賞、兵庫県知事賞等受賞。個展多数。寺島紫明の所定鑑定人でもある。
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池田輝方が略歴は下記のとおりです。
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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。
明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。
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明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。
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鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。
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本ブログに投稿されている作品には下記の作品があります。
美人図 池田輝方筆 その1
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:横600*縦2140 画サイズ:横400*縦1220
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/18/1470683c90227e0e52a198fa56907f25.jpg)
この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。
下記の写真は新婚間もない頃の池田輝方・蕉園 (中根岸の自宅にて)です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/a8/bf55216ed4c4a049f6df77b0e83bb484.jpg)
この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。
*軸先は梨地になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/69/6f/4e89e649a2b1675891e89a3833c12f6f.jpg)
大正元年(1912年)の第6回文部省美術展覧会(文展)では「都の人」が褒状、大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。翌大正6年(1917年)には徳田秋声の『誘惑』、小杉天外の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。
下記の作品も本ブログに投稿されています。
文読む女之図 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱
全体サイズ:横473*縦2033 画サイズ:横411*縦1114
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/80/958036e4f3a11970cc8d8e79cecb2dc5.jpg)
大正10年(1921年)5月6日没。墓所は台東区谷中の谷中霊園。没後の大正13年(1924年)、浮世絵と同じ技法による新版画「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ。人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。
下記の作品は池田輝方の代表作と言っていいでしょう。
参考作品:お七製作:1905年
サイズ:174.5×85.0cm 福富太郎コレクション資料室所蔵
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/9a/8e2b2677974ef03142ffa4d0356034ce.jpg)
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なお旅姿の美人画の作品は本ブログにて下記の作品が紹介されています。
旅路 伊藤小坡筆 その2
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2090*横541 画サイズ:縦1215*横410
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/bd/33d988845481360f857ef86afe7e684b.jpg)
蒐集した作品はきちんと調べて、さらに誂えもちゃんとしておきましょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/e5/1f34d6897585e750c52c3fdd6a7a3e4e.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d2/ad582bded397d8e2087802aad5add1a5.jpg)
蒐集しっぱなし、置きっぱなし、しまいっぱなしは「ぱなし」の蒐集と称して、蒐集する意味も資格もないものと心得ましょう。