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夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の解らぬ作品 紅安南?花草文大皿

2020-02-01 00:01:00 | 陶磁器
安南焼の呉須の染付の作品が多い中で色絵のいわゆる「紅安南」の作品は数が少なく、とても高価で、蒐集する者からは垂涎の作品と聞いています。本日の作品は近代の模倣品?の確率が高い思われますが、考察するには「いい教材」かと思い投稿しました。



氏素性の解らぬ作品 伝紅安南?花草文大皿
合箱 
口径337~340*高台径156*高さ68~72



安南焼、紅安南のついても何度か本ブログに投稿していますが、あらためて本ブログに掲載されている記事を整理してみました。

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安南焼とは、現在のベトナムで作られた焼物の総称である。その名は679年に中国の唐王朝がベトナム統治の為に、現在のハノイに置いた軍事期間・安南都御符に由来する。その為常に中国の影響を受けてきたが、大きな発展を遂げたのは12世紀頃のベトナム李王朝の時代であった。

その形は唐や宋の陶磁器を模しており、白磁と青磁を中心に褐釉、鉄絵、緑釉などが幅広く作られ、東南アジアでは圧倒的な規模を誇った。その後14世紀後半になると、中国の景徳鎮に倣い青花磁器が作られるようになった。しかしその色は景徳鎮に比べるとやや暗くくすんでいる。これは中国がイスラム圏から輸入した質の高い呉須を使っていたのに対し、安南は国産の質の低い呉須を使っていたからである。

また絵付けの線は土と釉薬のせいでそのほとんどが滲んでいる。ベトナムでは良質のカオリンが取れず、これでは青花の色が映えないために、生地に白土を化粧がけしていたのである。しかしその白土は粒子が粗く、いくら繊細な絵付けを施しても呉須がすぐに白土に吸収されてしまう。また釉薬は不純物を多く含んでいるため、透明度が低く結果的に絵付けがぼやけてしまう。

絵柄は蓮の花びらを簡略化したものがほとんどで、これが安南焼の青花かどうかを見極める決め手のひとつとなっている。15世紀になると、赤や緑や黄色の顔料を用いた赤絵が作られるようになったが、中国に比べ低い温度で焼き付けるために釉薬が剥がれやすく、すぐに色が褪せてしまう。しかし室町時代の茶人たちは、その素朴さの中に詫び茶に通じる簡素な美を見出した。なかでも呉須が滲んで流れるような景色になった青花は、藍染の絞りに似ていることから絞手と呼ばれ珍重されている。

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総論は上記のようになりますが、詳細の来歴は下記のようになります。



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第一期:初期安南焼

元の時代に中東あたりから優質呉須が輸入され、初めて景徳鎮で染付け器の製作が始まりました。呉須の輸入は2つルートがあります。海上ルートは南シナ海経由、陸上ルートの雲南省経由でした。いずれも安南に近い。元軍の侵入の繰り返しおよび、明初期の占領により、景徳鎮の染付器が安南人に認識され、かつ呉須が入手しやすいため、安南焼の始まりである。
初期の安南焼は主に元青花、明早期青花の様式と模様を安南風にアレンジしたもので、自備自用なので、生産量はそれほど多くはありません。民用品は安南特色の絵付けが多いですが、現地王府用に仕上げの良い、中国明宮廷風のものも作られています。この時期のものは輸出がないため、あまり認識が薄いので、現在日本で言う”安南焼”は基本的に第二期のものです。

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第二期:貿易期安南焼

明軍が安南を撤退した大きな理由は東海上の不穏です。明初めから中国福建沿岸を晒す倭賊がありまして、時々”海禁令”が発された(出海及び入港禁止)。永楽年に鄭和が大艦隊を連れて南洋を巡歴したから、一時海が穏やかになり、明軍が安南侵攻が出来た理由でもあった。しかし、永楽以降および倭賊が倡厥したため、再度海禁令が発され、厳しい時期では、沿岸住民が内陸へ遷移され、海上貿易も禁止された。こんな状態が明の後期の始まりの隆慶年まで続いた。

明中期の厳しい海禁令が安南焼に貿易のチャンスを与えた。中国陶磁貿易の代わりとして、安南焼が発展した。現在日本、琉球群島、台湾、東南アジアなどで発見された安南焼と呼ばれるものはこの貿易期の物です。特徴として、明の民窯物や、福建、雲南あたりの様式を基本にした安南風アレンジ絵付けです。呉須は雲南省から持ち込んだやつで、第一期より明快な色をしています。

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安南焼の終結

明隆慶年に海禁解消した。広東にて貿易司を開設し、海上貿易を再開した。明正徳年雲南から優良呉須が入手した景徳鎮が祥瑞焼を生み出した。日本へ少量に輸出されたが、南方へはほとんど輸出されていません。隆慶年は4年間だけで短いが、時代が萬暦、天啓など明末へ移行しています。

明末期、輸出量を答えるため、景徳鎮が染付大量製造しています。古染付と呼ばれるものはほとんど海外貿易用です。東インド会社からの注文された欧羅巴への輸出品は、日本では”芙蓉手”と呼ばれます。品質のよい景徳鎮ものが解禁されたため、安南焼きが瞬く市場が失われ、その歴史の幕が下ろした。

ちなみに、中国広東、福建沿岸は明末の海上貿易期の刺激で、多くの窯を開いた、徳化窯白磁、彰州窯呉須手などが生まれました。安南地方は明末~清初に及び台湾福建あたりの色絵器(交趾焼)を目に付け、安南色絵(交趾焼に含まれる)が始まった。

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ベトナムには中国の安南都護府が置かれていたことがあり、かくてベトナム古陶器を「安南」(英語でアンナミーズ)と呼び慣わしている。その歴史からみても中国の直接的な影響下にあり、15,6世紀の染付けなど中国の元末から明朝へかけての器形・文様を直模している。磁器土としてはやや軟質な灰白色を帯びた胎土と、そこから必然的に出る微細な貫入がなければ(すなわち遠目には)中国の景徳鎮磁器そのものと言ってよいものである。

17世紀以降になると作風は崩れ、染付けも黒っぽく、しかも文様が流れたものが増えたが、日本ではかえってこれが「安南絞り手」と称して茶人が珍重した。中国のものと比して総じて土が軟質なためか、きびしさがなく、ややくだけていて親しみやすい。発掘品の多い真作は使用され続けたために入る貫入の汚れがほとんどない。

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贋作もあり、贋作のほとんどが染付で茶碗・合子(香合)・花入・水指・酒盃などの日本向けのものが多い。

贋作は黒っぽい呉州の色・文様の描き方・灰青色を帯びた冴えない磁肌・粗い貫入にしみ込んだ汚れ、贋作には古色蒼然とした趣のある作品もあるが、文様は15世紀、釉色・呉州の色・にじみ方が17世紀ものに近いなどの矛盾がみつかる。

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安南の色絵は明末~清初に及び、当時の台湾福建あたりの色絵器(交趾焼)を目に付け、安南色絵(交趾焼に含まれる)が始まっており、意外に時代は下がった時期のようです。



ただ本作品は高台周りからさらに時代が下がったもののように感じられますが、確証はありません。



参考作品
安南赤絵大皿
なんでも鑑定団出品作 評価金額:250万



説明文より:16世紀室町時代頃にベトナム北部で焼かれた安南赤絵の皿。 現存する安南赤絵で、色が残っているものは極めて珍しい。数も少なく同時に焼かれた安南染付が100枚あると、赤絵はその内の1枚ぐらいという。

当方で紹介した安南焼と思わる作品の代表的な作品に下記の2作品があります。

安南染付鳥草花文様茶碗
合箱杉製
口径110*高さ78*高台径60


古呉須安南染付 青花蓮花文八寸皿
合箱入 
口径240*高台径150*高さ57


はてもさても陶磁器は魑魅魍魎たる世界、ちょっとやそっとでは解り切れるものではないようです。



とりあえず後学の作品としておきましょう。



暫く見ていると時代が解ってくるようです。


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