円安、株高に振れ、アメリカ経済回復の兆しということです。
ただ一辺倒の円安は輸主産業の日本の産業の原材料コストは圧迫することにもなりかねず、90円前後が妥当らしいです。ヨーロッパや南米の経済破綻の恐れのある国の動向もあり、まだまだ不安定な為替、株の値動きの状況のようです。
現在、この状況で投資で損をしている人はまずいないでしょうが、現在一番利幅が少ないのは定期預金でしょう。(普通預金は投資とは言いませんので・・)
つい最近まで一番利が良かったのが定期預金でしたが、経済の動きの速さを感じます。円高、株安の時にどれだけそこに投資できたかが勝負の分かれ目でした。チャンスは選挙前の一瞬でした。そう、もう「でした」のタイミングのようです。誰もがここまでとは予想しなかったは証券会社の担当の方の弁・・。
タイミングの良い投資は運が良かっただけ・・、今はただ、欲に目がくらまず、地道に地道に・・・・。
さて本日は鯉の図です。何度も本ブログで取り上げた題材です。また内海吉堂の作品も何度か投稿しており、すでに六作品目となりました。
鯉の図の骨董品はたくさんあるものです。登り龍になるというほかに子だくさんという意味がるらしいです。また、一対の鯉は「相思相愛」の象徴らしく新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したともされます。
鯉之図 内海吉堂筆
絹本水墨 軸先練 合箱
全体サイズ:縦1320*横353 画サイズ:縦524*横251
賛に「相思在江湖 吉堂 印」とあり、必ずや相思相愛となる相手がこの世界にはいると言う意味か?
独身の男性のために描いた作品か? 「吉堂」の朱文白方印、「□□□□」の白文朱方印が押印されている。
中国では一対の鯉は「相思相愛」の象徴であり、結婚式の贈り物などでも欠かせないアイテムです。
鯉はたくさん子供を産む、ということから、子孫繁栄や子宝に恵まれるように、との願いも込められています。『水を得た魚のよう』ということは新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したとされます。
内海 吉堂 :1849~1925。嘉永2年(1849)12月3日福井県敦賀生まれ。父は内海元紀。本名は復、字は休郷、通称は鹿六。滋賀県湖東の医師・小菅兎峰について漢学を、のち京都に出て四条派の塩川文麟に師事する。花鳥画、特に鯉画を得意とする。明治初年中国に遊学すること2回、各地の旧跡名画に接して研鑚、南画家の道に進む。明治21年京都府画学校に出仕。明治30年第1回全国絵画共進会に『武陵桃源』、明治32年第2回に『東坡遊石鐘山』で銅牌、明治40年『松巒瀑布』で三等銅牌となるなど日本美術協会展で受賞を重ね活躍する。大正元年第6回文展に『船過孟浪梯図』で、翌年第7回文展に『江南春靄』で入選する。大正14年(1925)10月9日京都市で歿、75歳。
ただ一辺倒の円安は輸主産業の日本の産業の原材料コストは圧迫することにもなりかねず、90円前後が妥当らしいです。ヨーロッパや南米の経済破綻の恐れのある国の動向もあり、まだまだ不安定な為替、株の値動きの状況のようです。
現在、この状況で投資で損をしている人はまずいないでしょうが、現在一番利幅が少ないのは定期預金でしょう。(普通預金は投資とは言いませんので・・)
つい最近まで一番利が良かったのが定期預金でしたが、経済の動きの速さを感じます。円高、株安の時にどれだけそこに投資できたかが勝負の分かれ目でした。チャンスは選挙前の一瞬でした。そう、もう「でした」のタイミングのようです。誰もがここまでとは予想しなかったは証券会社の担当の方の弁・・。
タイミングの良い投資は運が良かっただけ・・、今はただ、欲に目がくらまず、地道に地道に・・・・。
さて本日は鯉の図です。何度も本ブログで取り上げた題材です。また内海吉堂の作品も何度か投稿しており、すでに六作品目となりました。
鯉の図の骨董品はたくさんあるものです。登り龍になるというほかに子だくさんという意味がるらしいです。また、一対の鯉は「相思相愛」の象徴らしく新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したともされます。
鯉之図 内海吉堂筆
絹本水墨 軸先練 合箱
全体サイズ:縦1320*横353 画サイズ:縦524*横251
賛に「相思在江湖 吉堂 印」とあり、必ずや相思相愛となる相手がこの世界にはいると言う意味か?
独身の男性のために描いた作品か? 「吉堂」の朱文白方印、「□□□□」の白文朱方印が押印されている。
中国では一対の鯉は「相思相愛」の象徴であり、結婚式の贈り物などでも欠かせないアイテムです。
鯉はたくさん子供を産む、ということから、子孫繁栄や子宝に恵まれるように、との願いも込められています。『水を得た魚のよう』ということは新婚夫婦の幸せな生活の様子を表したとされます。
内海 吉堂 :1849~1925。嘉永2年(1849)12月3日福井県敦賀生まれ。父は内海元紀。本名は復、字は休郷、通称は鹿六。滋賀県湖東の医師・小菅兎峰について漢学を、のち京都に出て四条派の塩川文麟に師事する。花鳥画、特に鯉画を得意とする。明治初年中国に遊学すること2回、各地の旧跡名画に接して研鑚、南画家の道に進む。明治21年京都府画学校に出仕。明治30年第1回全国絵画共進会に『武陵桃源』、明治32年第2回に『東坡遊石鐘山』で銅牌、明治40年『松巒瀑布』で三等銅牌となるなど日本美術協会展で受賞を重ね活躍する。大正元年第6回文展に『船過孟浪梯図』で、翌年第7回文展に『江南春靄』で入選する。大正14年(1925)10月9日京都市で歿、75歳。