夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

天啓古染付 山水図半開扇向付十客揃 明末

2021-10-08 00:01:00 | 陶磁器
近所から再び分けていただいたメダカの稚魚。前回は2年半飼育していましたが、今回はどれくらい生きてくれるか心配です。2匹ほど亡くなっているようですが、数多く元気に育っています。一匹ずつ育てたほうがいいとかいろいろ飼育のコツがあるようですが、当方はなすがまま義母と面倒をみています。



さて本ブログでは天啓赤絵、南京赤絵らの明末赤絵を幾点か紹介し、その流れで古染付についても幾点か紹介しています。先日もNHKの番組で「美の壺」の再放送「青と白の粋 染付(そめつけ)の器」の番組でも紹介されていた古染付の作品群です。

最初は中国の明窯で普段作られている丸い皿などが日本に輸入されていたのでしょうが、徐々に日本の茶人が中心となって日本からの注文作品が多くなったと推測されています。むろんそのような注文品ですから揃いの器がメインだったのでしょうが、近年の人気とともに対や単品として売られることから揃いでの作品は少なくなったようです。本日の作品は古染付の扇面型の10客揃いの作品で今となっては珍しい作品となります。もともとはもっと揃いの数が多く30人揃いほどあったのではないかと思われます。



天啓古染付 山水図半開扇向付十客揃 明末
誂箱
幅200*最大奥行130*高さ40



天啓の染付を、我国では俗に「古染付」と呼んでいますが、それは何時頃、誰によって名付けられたものかは解っていません。茶会記や陶書関係のどこを見ても、不思議なことにその名は見当らないそうです。「古染付」という三文字からは古い染付という意味にとれ、これは新渡りの染付に対し、古渡りの染付の意として用いられたのではないかと思われます。



「元」に始まったといわれる染付が、「明」に入って宣徳、成化、嘉靖、万暦、天啓、崇禎と続き、どうして天啓の染付だけが「古染付」と呼ばれたものでしょうか? それはやはり茶人による日本向特注品ということが関係しているようです。特に天啓染付だけを別に呼称したのは、その風雅な作風を重んじ、他の時代の染付と敢えて区別した数寄者の粋な心根にあると思われます。天啓染付に「古染付」とは正に言い得て妙です。染付へのほのかな郷愁を微妙に匂わした呼び名はまさに「古染付」の他にないでしょう。



古染付の生まれた天啓年間(1621ー1627)は、万暦につづく7年間で、約300年の明朝の歴史の中で、国力の最も衰微した末期です。景徳鎮窯業史からみれば、乱世という社会情勢の中で、これまで主役を演じて来た官窯が廃止され、それに代って民窯の活動が一段と盛んになった時期です。天啓染付と称する一種独特のやきものが生まれて来たのは、この様な時代背景があってのことで、天啓年代に至って突如として出現したものではなく、万暦に既にその萠芽は見られるものです。官窯が消退したために、勢い民窯の風味が表に出て来、それが古染付の母体となったと推察できます。従って年代的には、どこからどこ が古染付の出現した時代かは判断とせず、万暦に、崇禎に降っても古染付らしい染付は存在するので、莫然とした言いまわしながら、天啓を中心とした明未清初の端境期のやきものと考えるのが妥当でしょう。

*官窯の時代は掘削のコスト、リスクを負っても深く掘ってよい陶質の陶土を得ていたようですが、民窯になると低コスト、低リスクの浅い部分にある質の悪い陶土にて作品を大量生産しました。その結果、陶土と釉薬の収縮率に差が生まれ、虫喰や釉薬の剥がれのある厚めの作品が生まれたようです。これは明末呉須赤絵も同じ原因ですね。(下記にも記述)



古染付は中国陶磁の官窯を笑うかの如く、対照的に自由奔放でさり気ない作品です。均等に余白を唐草模様や雲竜文で埋め尽すような明代の染付に較べ、古染付の絵付はいかにもおおらかで、屈託がありません。こうしなければならないといった制約もなければ、そうなるのが当然といった習慣めいた決まりもありません その文様の描線が曲っていようと、いまいと、一本余っても足りなくても、また太くても細くても、一向にお構いなしといった鷹揚さが古染付の古拙ぶりを助長し、存在感を高めています。描線が自由にのびのびとしながらも、決してバランスを崩さず、現代陶芸が真似の出来ない風雅を醸し出しています。 描かれるものは、山水を始めとして、花鳥、人物、動物、故事、物語など多種多様で、あらかじめ意図された意匠がないかの如く即興的です。 たとえば「搭持羅漢図皿」の如きは、中皿という白い空間を辺縁を描線でひきしめて、古今を通じてこの様な卓抜したデザインは、初期伊万里染付のごく一部を除いては例をみないものです。羅漢の表情は一見、漫画的であり、それは圧制から解き放たれた天啓画人の喜びの声ともとれ、また、惰落した現代陶芸への揶揄とも思えるものです。



現代では古いやきものを愛する人は多いですが、それを使う人は少ないようです。むろん使いこなす人はもっと少ないと思われます。由緒ある名だたる料理店でも感動する器にお目にかかったことは稀ですね。毀れることに気遺って箱に仕舞い込んだり、日の当らぬ所に安置されっ放しでは、やきものとしての生命はないように思います。

扱いに慎重を要しますが、それを用いることが、やきものを甦えらせることになります。 美しきものが日常的傍にあって用いられていると、ハッと身のひきしまる程驚くことがあります。美濃や、唐津や、伊万里の残欠であっても、さり気なく用いられることがやきものへの思いが感じられて嬉しいものです。もとより古染付も用に応じて造られた雑器に過ぎない作品ですから、時に応じてそれぞれ使う選択と手だてを考え、季感、色感を他の器とのとり合わせに思いをめぐらせてみると、なかなかに楽しいものです。古染付ばかりでなく、伊万里、源内焼、瀬戸、織部、漆器などといったいろんな取り合わせを愉しむことが大切です。



*「一色杏花手 八十□ □元 図玄馬如飛ト」と漢詩が添えられていますが意味は残念ながら不明です。

古染付は虫喰い、砂付高台、高台内の鉋跡など決まり事はありますが、もはやそのような基本論は本ブログでは卒業し、今少し突っ込んだ話をしましょう。

本作品のような型に嵌め込まれて作られた作品は古来からの志野や織部に倣って作られたと推測されます。裏面に付けられた足の形などに類似性がみられることから、日本の数寄者、茶人からの強い要望による注文によって作られた作品でしょう。このような作品は型に嵌めて数多く作ることから胎土が厚く作られるため、大きな虫喰が発生するのも特徴です。

このようなことは実際に作ったことのある人だとよくわかります。他の古染付にある丸い皿類(日本からの注文品以外)が薄手なのに対して、このおうな型から作った作品は非常に胎土が厚く作れられています。

この虫喰はさらに陶土の質と関連しているのでしょう。官窯の頃には良質な陶土が産出されていましたが、徐々に良質な陶土は生産量が減り、採掘の労働者は献上品用の陶土を得るために地中深く掘って危険な作業となっていました。明末の民窯の時代には良質な陶土が枯渇し始めており、さらに危険な作業をするより質の悪い陶土を混入することとなったようです。これによって虫喰が発生した作品が明末には景徳鎮のみならず呉須赤絵などにもみられるように多くの作品の共通となっています。この雑さが逆にこの頃の作品には面白みとなっています。



*ところで「半開扇向付十客揃」の楽しみは上記の写真のように並べると円形を成すということです。

 さらに古染付の特徴は砂付高台と高台内の鉋跡ですが、さらには白の釉薬が青みのあるものの透明感があるという点です。もっと肝心な点は素焼きをしない生掛けでの絵付けのために筆の運びが非常に速いという点です。素焼きしていないので、胎土の水の吸い込みが非常に早く、呉須の筆の運びが早くしないと絵付けできないのです。これが結果としてスピード感のある絵付けとなって魅力のある作品を生み出しています。

このような知識は古染付には常識ですが、とはいえ古染付にこだわって染付ばかり集めるのも愚の骨頂ですし、例でいうと洋食によくある白磁ばかりでもむろん興ざめですね。普段使いの雑器は取り合わせというか使い方によってその器を使い分けるのが美の達人なのでしょう。そのためにもこのように揃いの器は貴重です。

メダカも古染付も生きているものは使わないと楽しみがない。亡くすことを恐れていては、この世の原理原則を体験する機会を失っていることとなりますね。





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