大多喜町観光協会 サポーター

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たけのころっけ! 大多喜「葵の会」

2011年02月26日 | 葵の会 

2月27日は、たけのころっけ!

本日の千葉日報に掲載されました 葵の会さんの「たけのころっけ」です。

大多喜産のたけのこがゴロゴロ入って、さっくり感がたまりません。

一度食べたら、もう一個と、いつもすぐ完売してしまう「たけのころっけ」

 

27日(日)は大多喜城下「二十八市」(にっぱちいち)開催です。10時から15時。

葵の会さん「二十八寄席は、老川小学生が一生懸命に練習に励んでくれているとのこと、とてもうれしいことです。
そしてなんと、タレント渡辺正行さんの紹介で、マジシャンのモッチさんが参加してくださいます。
小学生あり、大学生あり、プロありの面白そうな芝居小屋ができそうです。
もちろん運の良い人は「おまけ」もつきます。

もってけ泥棒てきおもてなしです

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1 コメント

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正岡子規と大多喜 (おおたきまちこ)
2011-02-26 14:38:10
今日の毎日新聞に掲載されています。
記事の中の「大多喜」は、二十八市開催地周辺でしょう。
http://mainichi.jp/area/chiba/news/20110226ddlk12040142000c.html


また房総文学散歩:描かれた作品と風土/5 半島縦断と子規 /千葉
 ◇古い蓑、病床から見上げ


 長南町役場の前の三差路に、古い石の道標が立っている。「右 大田喜(大多喜) 左 いちのミや(一宮)」。江戸時代に建てられたものらしい。

 ちょうど120年前の1891(明治24)年春に、一人の若者がこの道標を見て大多喜へ向かった。肩から荷物を下げ、脚半(きゃはん)に杖(つえ)、菅笠(すげがさ)の旅姿。房総周遊に出た俳人・正岡子規(1867~1902年)だ。この時24歳。途中、記念写真を撮った。ポーズが決まっている。3月25日~4月2日の8泊9日の旅だった。

 役場のそばに、地元の俳句愛好者らが建てた句碑がある。<春雨の われ蓑(みの)着たり 笠着たり>

 28日朝に長柄町を出る。長南町のあたりで土砂降りとなり、蓑を買い求めた。後にこう回想する。<千葉より小湊に出でんと多喜(大多喜)のほとりに春雨に逢(あ)ひて宿とらんも面白からずさりとて菅笠一蓋(いっかい)には凌(しの)ぎかねて路の邊(辺)の小店にて求めたる此(この)蓑、肩にうちかけたる時始めて行脚のたましひを入れて…>(随筆「松蘿玉液(しょうらぎょくえき)」)

 蓑を肩にかけ、初めて旅の覚悟ができたという。随筆の題名は、彼が愛した中国産の墨の名である。

    ◇  ◇

 子規は松山市出身。日露戦争を指揮した同郷の軍人秋山好古・真之兄弟らとの交わりを司馬遼太郎が小説「坂の上の雲」で描いた。最近NHKがドラマ化し、注目を集めている。

 20代で結核を患い、病床で雑誌「ホトトギス」を主宰。物事をありのままに詠む「写生」「写実」を唱え、俳句や短歌を革新した。病に苦しみ抜き、34歳で凄絶(せいぜつ)な最期を遂げる。

 が、司馬によれば功績は文芸にとどまらない。

 <私どもが夏目漱石と正岡子規を、もしくは森鴎外を所有していることの大きさは…かれらが明治三十年代に…すでにたれもが参加できる文章日本語を創造したことである>(「文章日本語の成立と子規」)

 今の文章語は江戸時代とは異なり、誰もが身につけられ、どんな物事も簡単に言い表せる。その基礎を漱石や鴎外らと共に築いた、という。しかも、<文章が物事の本質、形状、状態を…認識するための道具であるということに気づいた明治人が幾人かいるとすれば、正岡子規が…筆頭に位置する>(同)

    ◇  ◇

 子規の房総旅行を徹底的に調べた人がいる。いすみ市在住の関宏夫さん(70)だ。大多喜高校教諭時代に3年がかりで足取りを追い、労作「かくれみの街道をゆく」(崙(ろん)書房出版)をまとめた。

 「青春の旅でした」と関さんは言う。自然豊かな春の房総を1日平均30キロ歩いた。子規はこの旅で、紀行文「隠蓑日記」と、俳句92句を収めた「かくれみの句集」をつづった。

 <わらじの緒 結ぶや笠に とぶ胡蝶>

 句集をこう結ぶ。<山はいがいが海はどんどん。菜の花は黄に、麦青し>。山はギザギザでいかつく、海には荒々しく波が打ち寄せている……。子規の目に映った房総の姿である。

 関さんは「親友で文学上のライバルだった漱石を意識していた」と推測する。漱石は子規より2年前に友人らと房総を旅し、全編が漢文漢詩の紀行文「木屑録(ぼくせつろく)」を記した。子規を意識した表現があり、彼に批評を求めている。

    ◇  ◇

 終(つい)のすみかとなった東京・根岸の自宅に、房総の旅で買った蓑を大切に飾っていた。病床から見上げ、何を思っていたのか。

 <ともし火は壁上の詩歌を照して雨戸くる音も絶えたるころ家居まばらなる隣近所は静まりかへりて時々打ち笑ふ声かすかに聞(きこ)ゆ。何とは無く思ひに沈みたる眼を開けば柱に懸(か)けし古蓑に思はず六年の昔ぞ忍ばれける>(「松蘿玉液」)

 司馬は書く。<子規はこういうもちものを、まるで自分の分身のように愛惜しているのは、やはりいのちがみじかいことを自覚しているところから出た心情らしい>(「坂の上の雲」)

 その蓑は、故郷・松山市の子規記念博物館に所蔵されている。【吉村建二】=つづく

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