今年も「本怖」が土曜にやるそうで、全く持っての風物詩となっている。
最近は年末年始もやっているし、まぁ報道が全くの「嘘」と分かり切っているので、誰も見ないから、どうにでもなる不思議話は今のテレビの存在意義からすれば「ゲテモノ」から「本道」になりつつある。
足を引っ張るのは当然「報道と称する詐欺・ヤクザ」である。
件の話では、自殺する女の子に地縛霊が見えて話をし続けて生き延びようとする話だが、通常、霊感が無い人間は、ほぼ霊が見えない。
見えるとすれば、その霊が作る結界に入っているからであり、その場合は往々にして取り憑かれるのである。
霊界ネタは色々あるが、今回は下衆ホモ:何とか明宏お化けと食べ過ぎ豚蔵とは違い、信憑性のある丹波哲郎氏の言う通りの話っぽくしています。
まぁ丹波哲郎氏は、何処までがマジで何処からギャグなのか?分からない典型的なスーダラ人生だったが、こと、大霊界や人の生き死にに関しては「妙に真面目」となる。
彼自身は、戦場に出て五体満足で帰ってきた。
それだけでも立派だが、彼が大物と言えるのは、その戦場を客観的に冷静に見ていた所だろう。
彼は何度も死ぬような戦いをするのだが、死ぬのが怖くて、体が萎縮したり、銃弾を受けて死ぬ間際の泣き叫ぶ姿は、それまでの頑健な戦友とは別人となっていた。
丹波哲郎氏自身は、これで死んでも、まぁ良いか…と言う感じで、死を恐れた事は無かったそうだ。
そして戦後「何故戦友はアレほど死を怖がるのか?」と言う疑問は平生の中で病で死ぬ人などの怖がり様に対して言を持たない自分を見返して「先ず死とは何であろう?」と素朴な基本的な点を解明する事に邁進した。
まぁ下衆ホモが「海外から文献を…」とホザイテイたが、実は、死後の世界について、砂漠のスッカスカ宗教には「お花畑」の屁みたいなガキの下手くそな絵みたいな天国と言う「言葉」があるだけで、それは何の参考にもならなかった。
これは立花隆の「臨死体験」にもあったのだが、日本の1500年を超える仏教文化には、死に臨んで、法師(坊主)が死のうとする人間に語りかけ、今の状態を確認していたのである。
その様子を描いた絵も多数存在する。
大霊界1には、その辺から真面目に書かれている。
人は通常死ぬ時「死の道」を通るらしい。
これにはバラエティーがあって「ケースバイケース」(全く、霊の話っぽくないなぁ〜)で、まぁスタンダードなのは、暗い所から賽の河原に出るパターンである。
これは死ぬと真っ暗な中に放り出されて、さっきまで死にそうだったのに右往左往しているのである。
すると天、まぁ頭のある方向に光が見え徐々に大きくなる。
そして、その光りに包まれると次の瞬間賽の河原に「御都合主義的」に出てくる。
そこで自分を呼ぶ声が聞こえる。
これで「戻れる」のは「然程の危機」ではないようで、もう確実に死ぬような場合、ささっと河は越えるそうである。(なぁ〜んか、霊や宗教の荘厳さやオドロオドロしさに欠ける文章だよな。)
そんで、まぁあの世って所に行けるらしい。
他方、他の方法っていうか道があって、それは「幽体離脱」で、まぁ幽☆遊☆白書でも使われたパターンだけど、立花隆の臨死体験のメインテーマそのもので、幽体離脱して、あの世に行くパターンである。
申し訳程度のこの世との繋がり=魂の臍の緒と天頂の緒の2本で繋がり自由自在に動けるが、この臍の緒が切れると、あの世行きという「スリリングなゲーム」を辿るのである。
まぁ幽体離脱は「体質的」に「月一回は抜けます」と人が聞けば「何のことだ?」と思われそうな微妙な表現だが「決して嘘ではない」
嘘ではないが「胡散臭い」のも事実だろう。
そこはそれ「ムスコが元気で」で済ませた方が「後で壺でも買わされそう」と噂が立つよりマシだろう。
さて「肝心の臍の緒が切れる」と「御都合主義発動!」で「賽の河原」に「転送される」のである。
これらは「大事故に遇う」や「大病の末期」や「大往生」の場合で「スタンダード:基本」の死に方の場合で、ほぼ間違いなく「大霊界」へ行けるのだそうだ。
つまり、恙無く「あの世」へ「旅立つ」には、相応の段取りが必要であるらしいのである。
まぁ恙虫がいようと、この際問題にもなりはしないが。
さて「例外項目」は、実はスタンダードより「多くなっている」のが「現実」である。
これは丁度、出産と似ている。
出産は産道を通る「通常分娩」の場合、生前の記憶が残っていないが「帝王切開」での出産の場合3歳から5歳ぐらいまで生前の記憶が残っているらしい。
同じように、交通事故で即死、クレーンの下を通っていて吊り物が落下して即死、銃で撃たれて即死、爆破テロで即死なんて場合は、気がつくと、現場にいて、目出度く「地縛霊」となるようである。
これは「成仏が難しい」のである。
つまり「大霊界」には縁の無い魂なのである。
ここが非常に面倒なのだが「死の支度」が間に合わないと、大体こんな「失敗の死に方」=「地縛霊」となるようである。
例えばスタンダードに上げている「大病で死ぬ」場合も痛さが半端無いと、これが魂は痛いと言うイメージと共に残り地縛霊となって恨み続けるらしい。
大体除霊ってのは、そうらしいが、霊に向かって「お前死んだんだろう?その自覚あるのか?」と聞いて「死んだのに何で痛いんだよ馬鹿かお前」と言うと「我に返って」『ああ、どうしてこんな馬鹿なことを…』と言って成仏するらしい。
だけど、まぁ詳しい事は専門家に任せるが、どうも「生前から生霊を出す程」の面倒な野村悪代やダワトンスルみたいなゴキブリは、威圧が凄くて「バカバカしい」から放って置かれるようである。
こんな事もあって、ナカナカ死ぬのも楽ではないようである。
ネタは沢山あるが、ブログとしては長いので、この辺で。
WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)などでも、所謂「静かなる侵略」でカリフォルニアが糞舐め虫獄の腐臭どころか「虫獄ゴキブリの性質:汚し散らす」で、都市の荒廃化が進んでいる。
他方でGoogleなどのITの企業は社会にプラスをもたらさず社会サービスを貪っているのである。
今日のPBSでは、Googleが軍事ビジネスとの「協力」を拒否して、何十匹か辞めたそうだ。
だが事実上、その辞めたGoogleゴキブリが何をやるのか?
やっぱり同じ事である事は間違いない。
ITやIoTとか言っても、やる事は大体似通っている。
ホームページ・CGI・通信・計測・データベース・分析(人工知能を含めて)こんなものだろう。
後はITではなくIoTの役割となる。
つまり実際の物を動かしたり作ったりチェックをするのである。
何か、人工知能をやっているのに、事の本質を分からん馬鹿の集まりだな。
真面目にやって、色々な処理を効率する事は、民間の平和であろうと軍事であろうと、その意図が違うだけだが、そこでは「人」に関わるものなので、同じ物にならざるを得ない。
だが、ソフトにしても機械にしても作っている限りに於いて「人に作用する」「物に作用する」と言うアルゴリズムは変わりはしない。
基本的には、モノは自分を含める誰かが作るので、その運用実態を見るべきなのである。
ここで重要なのは「マスゴミは一般的に信用できない」から「それこそITの出番」じゃなかろうか?
トランプ大統領は無茶苦茶で横暴である。
だが、それは「個人の性質である」とはツイッターがあるから、正面に出ている。
昔の大統領は「ゴミども」に歪曲されたり美化されたりしていた。
その点ではマスゴミとは「ポン引き」みたいなものであると思っている。
他方で「自分は勝者」とホザク一方で住んでいる虫獄ゴキブリ支配の街は「小汚く・臭く・醜い虫獄ゴキブリがいっぱい」でそれで「勝者」の実感はあるのか?
トランプ大統領は、アメリカやカナダに寄生したがる寄生獣を虫獄低酷に攻撃をして叩いている。
虫獄が経済崩壊したら次は、アメリカに寄生している寄生獣の捕獲と捨て場(虫獄低酷)に送り込むだけだろう。
有能な奴もいるかも知れないがGoogleから引き抜かれたゴキブリの例もある。
だが、幸いな事に虫獄のGPSでは「御自慢の自動運転」も日本とは100倍の誤差があって、ゴキブリの死骸の山が作られるだろう。
それはそれで楽しい楽しい事である。
まぁ虫獄や糞舐め汚い上に卑怯な嘲賤に「人間の理屈・倫理」は通用しない事を後何回ダマサれれば分かるのか?
まぁそう言う経団連のバカどもも相変わらずだが。
ただ、一向に改善の兆しがないと言うか、性能アップに邁進しているガラクターの爆破・着火機能には「マジで、そのポカを放置したまま、スマホ」として売るの?
またトルコのエルドアンさんが「iPhone」以外にも「ガラクター」がある!とホザイテイたが、それは「トルコ全域が歩く地雷原宣言」をしているのと同じだと分かる頃には、もう「ガラクター地雷」に囲まれて逃げられないだろう。
結局マスゴミは「政治問題を歪曲する」だけの存在であり、その無用さが分かって来ている。
もう今週の虎ノ門ニュースで辟易している。
追い詰められているのは小池が「本当にボロボロ」だろう。
だが、何時も都知事が殆ど馬鹿(石原氏は例外)なので、しょうがない。
亀井とかは、偉そうな無能だが、良く批判されるが森喜朗総理は「極めていい仕事をした」とは誰も認めていない。
実際今NICTやNTTの研究所の成果は、情報ハイウェー構想と言う下地があってのもので、その意味では、彼が首相にならなかったら、これ程のIT関連の進歩はなかったのである。
森首相までは日本ITインフラは「糞舐め汚い上に卑怯な嘲賤」に遥かに劣っていた。
だが森首相の官僚使いの上手さ・巧妙さで見る見るうちにIT先進国となった。
明らかにシンギュラリティーが存在しており、その中心には「一般的にダメな首相」だった筈の「森喜朗」が居たのである。
結局、金の流れは、政策や世間のニーズにあり、ITのインフラは「駆動する基礎力」としての「政府の政策」+「公共投資」と「政策的優遇」を与えると言うもので、恐らく森喜朗元総理にしては、ITなんてものの価値も、意味も分かっていないが、官僚などの手配や、その他の報告を受けて、政策の波及効果を知って、それに対して「配慮」を色々な点でやっていただけなのだ。
今も森元総理はスマホも満足に使えないだろう。
だが、それが動くにように動かした日本の立役者は、立派に森喜朗元総理であるのは「竹帛に垂名」されて日本の歴史に確かな足跡を残すであろう。
また、その政策の延長線上に自然に発生したATR研究所やNICTなどのIT系の財団は、この政策の後に、政策の流れとして出来上がるものなのである。
それからすると「馬鹿丸出しの馬鹿女」である「小汚い小池バカ女」は、全く馬鹿痴児列伝の最低となるだろう。
歴史上「これほど無能な奴はいない」と明記されるだろう。
何れにしても、さっさと死ね。
馬鹿女。