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歪曲される情報を見る。

日本を馬鹿(馬鹿文系)が叩く、だが、それはどの程度正しいのか?非常に疑問である。

柄にもなく御礼をば

2012年07月05日 01時28分54秒 | 日記

長い間留守にしていた、このブログが、返ってアメーバよりPVが多くてビックリです。

私の文章は、長くて難解で、嫌味っぽくて、本当に読んでいて著者の存念の悪さが「パタリロ・ド・マリネール」に酷似していると思われる事でしょう。

決して否定しませんが反省は「若干」しています。

前は文系非難が酷かったりJavaを否定したら、時代遅れとコメントされちゃったりと、コメの無いのは良い便りと思っているのですが、PVが百を越えていると、ビックリです。

題材も簡単なものでもないし。まぁGooってやるのね?と思う次第です。

でも最近つくづく思うのはマスゴミはレベルが低過ぎであると言うことである。

またシンクタンクも情報をもっと多方面に見せてくれないかな?と思う所である。

私の一番の情報源は日本国政府の「世界の国勢」である。ただ表示されているデータをまともに見ると駄目だ。

データが提示されたら、それで自分でグラフをプロットすると、自分の視点で見る事が出来る。

何気なく一緒に表示されているグラフの項目は、意図して、その組み合わせにしている可能性があるのだ。

ニッセイ基礎研究所の土堤内 昭雄の「ヒマジン、イマジン、オリジン-ビジネスパーソンの「当たり前」」でも書かれている通り、データを鵜呑みするのも問題だし、その見せ方、文章の書き方も十分吟味する必要性がある。

長くなるんで、そろそろ止めるけど、三井物産戦略研究所の2010年5月に出した中国不動産価格についてのレポートは、実に「訳が分からなかった」。

って事で、何より私を疑いなさい。嘘は真実を言い続けている人間が1度だけ吐くものが一番騙せるのである。

つまり慶応って時点で、騙せないのです。

では…。


鬼平犯科帳と日本経済とマネー経済とギリシア危機

2012年07月05日 01時20分59秒 | 日記

 

ふとWikiで金本位制を調べていたら「元」は「デフレ」で崩壊したとの記述があった。
むべからざるかな?と思った。実は江戸時代も1630年ぐらいには通貨危機が発生し始めた。つまり通貨となるべき銅・銀・金の各通貨が足りなくなったのである。
よく「二束三文」とは「安物」と馬鹿は思い込むが、これは「デフレ」の産物である事も見ないと経済の事が分かるとは言えない。そう思うと通貨価値は往々にして補助通貨があるのが当然と言う事となる。だが日本の様に1つの通貨価値だけで示すほうがまともではないだろうか?
補助通貨の存在自身が通貨の価値表示能力を下げる事となっている。大体、通貨を決める際、基準となったのが金貨である。その為、通貨単位は往々にして高価になり、その結果補助通貨が必要となる。元々多くの物資を少ない量の貨幣で払おうと言うからこうなるのである。
そのように高く設定しても物品の種類も量も増えると、通貨が機能を果たす事は無理だった。よく金本位制を「利口なこと」と竹村健一や池上彰と嘘ばかりを吐く糞ドモがほざくが、金本位制は、通貨が金とリンクしているから紙じゃないよ信じ込ませる詐偽みたいなものだ。実際債券・証券の世界は嘘と詐偽に溢れている。
実際、江戸時代の商人も馬鹿臭いと思っていただろう。通貨は価値を表す、価値を計量する、価値を保存するの3つの機能があるが、その中で一番問題となるのは価値の保存機能が、通貨の大問題である。これが元で戦争が起きるようなものだ。
この価値の保存は、補償問題となっている。何か問題があったときに決済する必要性があるので、必ず運転資金は持っていないといけない。それを現金でやると市中流通の貨幣が無くなる。その為、富を持っていると書面で認める事、これを手形、証文と読んで、これに価値があると認める連合を作った。これが座である。
そして、この証文こそが今のマネー経済の手本と言われているものである。慶応は、この事を認めない。理由は「江戸時代=武士の時代」を「否定する」事が慶応なのである。つまりグローバル経済に一番アパシーを感じているのは慶応だろう。だから竹中平蔵は世界の経済の常識を無視した事を平気で並べるのである。
さて、この証文の発生により通貨が持ち金から開放され一般の流通に使われるようになった。だが実際は更に違う。よく「ツケ」にしてくれとあるが、この「信用」をベースにした「掛取り」の流通が一般的で、月末に集金に来るのである。その為必要通貨の量は更に減ったのである。
通貨の価値と言うと国が保障する前は「相場」が決めていた。池上彰は「両替商」を「銀行」の様に「嘘をつく」が正確には手形・為替或いは大判小判を小銭に替える仕事をしていた。この流通によっては例え小判1両も交換される小銭は異なるのである。これは年や季節、月などの影響もある。ここで重要な事は経済学の専門家とほざく嘘吐きは金の本質を決して伝えない。
「通貨」は「通貨という名の工芸品」であり、それ自身がモノとして価値を持っているものである。現代通貨では、その価値を国や国際取引が決めるが、その真贋が問われる。だが世界中の両替商は、その真贋を「アルキメデスの原理」でやる。だから両替商の不可欠なものは枡と天秤だった。この伝統は今の日本の質屋に残っている。池上彰は何かほざいただろうか?
さて、鬼平犯科帳を御覧になると、例の如く盗賊が盗みを働く。この盗む金と言うのが大体見ていると二千両ぐらいが関の山である。雲霧仁左衛門では一万両を溜めている馬鹿な名古屋の商人が居たが、商人は、往々にして金を持たないように心を配っていた。何故なら金を持っていると盗賊に狙われるからである。だが、もっと言うと金は持って行っても良いけど命だけは取らないでと「本気」で思っていたようだ。
何故か?今の会社を見れば分かるだろうが、小払い金を会社では経理を通して直接購入分を貰うが、この小払い金として持っている通貨は少なく全体の取引からすれば業種にもよるが3%から10%程度だろう。つまり江戸時代も同じようなものだった。つまり彼らが取られるのは全体の1/10から1/30程度の「ハシタ金」だった。だが、江戸時代は武家による厳罰主義が取られており十両を取ると獄門台に行きかねない。この懲罰は軽減化される方向に向かってはいたのだが、それでも千両盗めば確実に獄門台だ。
だから目撃者を殺しまくる「急ぎ働き」が増えたわけなのだ。鬼平犯科帳は「レゾンデトール」を否定するこの手の話はしないが、正直に話しているお話が合った。それが財津一郎がゲストで出ていた話で、彼が大工で盗みがし易いように細工しておくと言うものだった。だが息子が居り、その息子がお店の若旦那にいじめ殺された復習をするのだが、金を盗むでもなく、店に火をつけるでもなかった。証文を破り捨てたのだ。それにより一発で店は潰れた。
実際、年率20%の成長ぐらいは、ザラにあった江戸時代に、盗みをされるのはしょうがないと思っている商人は多かったのである。
実は鬼平は、その社会的矛盾を良く知っており、盗賊の再生の道を探るため職を退いた後に、人足寄せ場を作って仕事の道を作ったと言う。この為、商人に出資を依頼する為身を粉にして働いたと言う。
さて通貨の話としては、藩札の問題がある。
藩札とは藩が印刷する債券であり、地方では、これが通貨として使われる傾向があった。確か「清左衛門残日録」で藩札が出ていたような気がする。藩札がしっかり出てくる時代劇は、驚く無かれ「ビートたけしの忠臣蔵」である。この「ビートたけしの忠臣蔵」でしか紹介されなかった藩札のシーンは、その後の幕府の布令に関わる大問題が提起されていたのを経済音痴の竹中平蔵や池上彰は知らないだろう。
藩札は、大体マネー経済の基本でグリンスパンの激動の時代(だったっけ?)で「不換紙幣はインフレする傾向がある」とある。つまり通貨価値が下がるのである。この藩札、いや藩と言う言葉自身が明治維新で初めて出てきた言葉である。藩札と学校が調教するものの当事の名前は米券、金券と呼ばれていた。この券と言う言葉は札(フダ)・切手などとも言われていた。
この藩札は米又は金との兌換性を訴えていたが、それは事実上有名無実だった。その為、藩政改革と称して商人を騙して金を毟り取る悪質な藩が続出した。徳政令が出たのは、この藩札を無効にすると言う物も含まれていた。つまりデフォルトである。このような危険性がある事は分かっているため、江戸幕府は1680年頃に藩札禁止令が出された。この時期に発生した事件こそ松の廊下事件後に起きた赤穂藩の御取り潰しである。
この時藩札の回収は完璧に出来た為、幕府は簡単に出来るものと曲解したようだった。だが、この布令は1790年頃の旅日記でも日本漫遊をしている坊主に受け取りを強制するシーンがある。この藩札は、幕府が滅亡するまで続いたのだ。
しかし、この藩札の価値は一貫して下がり、嫌がる庶民や商人に取引を強制していた。
これはギリシア危機を初めとした債券のヘアカットと重ならないだろうか?
実は日銀研究所は様々な江戸時代の経済の研究を行い発表している。慶応以外のグローバル経済の研究者は「グローバルマネーの知恵は江戸時代の上方商人の知恵を真似している」と高言している。そうなると、今のグローバルマネーの停滞を何とかするのは、江戸時代の知恵であると皆が認めている。慶応以外は。いずれにしても200年の間続いたマネー経済。これは実に興味を惹かれるだろう。あくまで慶応以外ででの話である。
さて、マネーの事を吹聴するならこの程度の話をするものだ。と言う事で、日銀研究所の書いた論文を読む事は慶応の耳障りな寝言よりよっぽど未来を語っている。