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おせっちゃんの今日2

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拍手…右手と左手

2021-03-18 15:53:55 | 日記

先日、さだまさしの生ダラを記事にしましたが、生放送を4時間寝ないで見ることはできず、ビデオに撮ったのでしたが、尻尾の方がまだ残っていました。そこを見ている時、こんな場面がありました。
今、こんな時世で中止せざるを得ないコンサートもあるし、実施しても、お客様も言ってみれば命がけで来て下さるわけです。声を出して盛り上がることもできないし。

握手もできないんですよね。人が近づくことが感染を拡大することにつながるという難しい状況。人は孤独にならざるを得ません。でもひとりぼっちではないと思いましょう。手も片手を振っていても音は出ないのですが、両手を合わせれば応援の音は出るのです。陽の昇らない朝はないのです。もう少し我慢しましょう。
両手で、音を出して孤独に耐えましょう!! 陽が昇ってきたらみんなで手を打ち合わせあって、応援の音を出しましょう!!その日までがんばろう!!

こんな、ハガキの文章とさだの言葉を聞いていて、私は禅問答の話を思い浮かべました。
僧侶の修行に禅問答(公案)を考え抜くという修業があるようです。ひたすら考えて答えを見つけるとのことらしいです。こんな公案があるのだそうです。「右手と左手を打ち合わす。音が生まれる。さあ、この音は右手が出したか、左手が出したか」。

公案を与えられた僧はひたすら考えるのだそうです。勿論、そんなの分かるはずがない、両手で音は出るのだ。そうした安易な答えでは合格にはならないのだろう。どう答えるのだろう。

もともと答えのない、問題ではないのか。そこをひたすら考える。考えても考えても答えはない。でもまだ考える。
もし私がこの状態になったとしたら、何日も、何か月も考え考え辿り着くのは、弱ってきた体力と、疲れ切った頭脳とで、一瞬気が遠くなるのではあるまいか。その一瞬に、これは右手か左手かの問題ではなく、考え抜いたあげくにたどり着く一瞬の透明な世界こそが答えなのではあるまいか。

ただひたすらに自己に向き合って考え抜くことこそが答えなのではあるまいか。

せわしない、毎日の生活で、私達は結果を簡単に、スピードこそが大事と、薄っぺらに生きてはいないか。
生活の中で、考え抜いて、自分の結論を得るということも大事ではないか。そしてそうして得た自分の主張なら、「私的には」などと責任を避けるような表現をぜずに、はっきり「私はこう思う」と主張すればいいと思うのです。

何だかエラそうな文になってしまいました。お許しを。