おせっちゃんの今日2

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母の残した着物 2

2022-07-30 13:22:32 | わが家の話

昨日の続き

父が亡くなり、母が一人暮らすようになったころ、幸いにも・・というのでしょうか夫が北九州小倉支店に転勤になりました。我が家では単身赴任はせず、家族で暮らすを第一に考えました。そのため、時々は母の手助けに帰ることもできました。そんな帰省をした時の話です。
母がタトウに包んだ着物を持ちだしました。
「これ、思い切って買ったんよ。一世一代の買い物だと気が引けたけれど、今まで買いたいものも買えない暮らしを我慢した私がこれと決めて買うんじゃから、いいと思ったんよ」
そこにあったのは、渋い緑と灰色のグラデーションに、蚊絣をとばした、いかにも上等品と思われる大島紬がありました。「しゃれ訪問着になるように上前に、ほら・・」と開いて見せたのは金色で描いた五重塔でした。
「来月、お父ちゃんの三回忌にみんなが集まるじゃろう。その後にみんなで天神様に参りたいんよ。その時の晴れ着にと買ったんよ」
「ふ~ん、ずいぶん弾んだね。でも今まで好きに買い物もできなかったんじゃからいい買い物じゃあない。すてきよね」
聞いても良く分かりませんでしたが、自分の生まれた年と、今年が暦の何とかが全く同じになるんよ、珍しい巡り合わせなんよ」とのことでした。

母は清水の舞台から飛び降りる思いで求めたのでしょうが、長年倹約倹約という夫に仕えていたトラウマで、後ろめたい思いも持っていたようですが、私に話してすっきりしたようでした。

天神様参りは勿論いたしました。

父が亡くなって、ひとまず落ち着いたころから母はこんな事を言っていました。
「私は今が一番自由で幸せかもしれん。なんたって、私が大将で暮らせるんじゃから」と。苦しい戦後を生き抜くこと、それは物質的にも苦しかったと思いますが、急にエリートの身分を追われた、そのプライドの傷つきに毅然と立ち向かったのは苦しかったことと思います。

そんな母がなくなって残したものを分け合いました。価値のあるものはこの大島くらいでした。女姉妹も、義理の姉妹も着物は着ないから、私はいらないという人ばかりでした。
「おせっちゃん、あんたが一番おかあちゃんの意思を聞いていたんじゃから、あんた管理しいさん」とのことで私がもらったのでした。

さて私は、結構和服は好きで何かの機会には着ました。この大島も、地味でしたが帯をとり合わせて着ると、着付けの先生から、「地味だけれど、今が着時ね。。若さで着こなされるわね」と言われ、何度か着ました。着ると身体に素直ににまとわりつくようでいい物だとわかりました。

さて、またまた年月は過ぎ去ります。おせっちゃんも歳を取りました。私は「断捨離」という言葉はあまり好きでなく使いたくないのですが、「死に支度」をしなければならない歳になってきました。洋服の古いものは、リサイクルに出すも、捨てるも割に気楽に始末できますが和服はなんとなく捨てがたいのです。娘Maは、話半分も聞かないうちに「私いらない。邪魔」と断られました。息子Kのお嫁さんはお茶のお稽古をしていて、合うのがあれば欲しいということで、寸法直しの費用こっち持ちでもらってもらいました。着付け教室で学んでいた時の若いお友だちが今は長野で和服を洋服や小物に仕立てることをやっています。相談したら、切ってよければ使わせてもらうということで、宅急便で送りつけました。
最後に残ったのが、母の大島訪問着と、私の訪問着と、付け下げでした。

先日、「外国暮らしのお客様」というブログで紹介しましたらい太の長男のお嫁さんがこの3点を引き取ってくれることになったのです。彼女は裏千家の熱心な社中で今アメリカの支部でも役員などして活躍しているのです。着物を着る機会が多く和服いただきますということで、先日3年ぶりに帰国した時取りに来てくれたのです。母も、身内のものが引き取ってくれて安心したと思います。私も大荷物を肩から外した思いです。

ところで昨日のらい太とのメールのやり取り

〇「先日の着物、おかあちゃんが何歳の頃買われたと言ったっけ?」
◉「よく覚えていませんが、70代の終わりかなあ。あなたは覚えていませんか。子供を引き連れて、天神様にお参りなさった時の着物です。聞いた時から良く分からなかったのですが、ご自分の誕生日の干支となんとかがちょうどおんなじにになる、珍しい日だと言っておられました」
〇「干支の話はしらないなあ。H子さんは、着物のリストを作っておくんだって」
 「H子さんには81歳ころと言っておいたけれど」
二人とも記憶あやふや。こんな推理
〇◉ 「 男の子を・・・ということは、何か他の会合で集まった後でのことですよね。おと~ちゃんは89歳でなくなりましたね。ということはおかあちゃんは79で未亡人になられたこと。実家にみんなが集まった時となると、1周忌か3回忌か、おかあちゃんがが80歳か81歳。そんなところかな。まだ元気はあって、私が大将じゃけえ、と思って、一番自由を楽しまれた時だったのかもしれません。そんなときがあってよかった」

 

 


母の残した着物

2022-07-29 13:58:19 | わが家の話

昨日から、妹らい太と「あの着物」という件名でメールをやり取りしました。
「あの着物」というのは実家の母が残して、私が管理していた大島の訪問着のことです。母を思い出しながら今日はこの着物と母のことをアップします。

母は生きていれば今年で122歳になっているはずです。生前「私の年は西暦の下2桁よ」と言っていました。
当時は1900年代でしたからこの言い方のとおりでよかったのですが、2000年代になってからだと、今年2022年は122歳になるのです。

母は山口市のはずれの村の地主の一人娘として生を受けました。子どもの頃の話などあまりしない人でしたが、きっと、大事に愛情深く、大切に育てられたのだと思っています。10歳年上の父と本人には一度も会わず周囲の勧めるままに結婚したようです。まあ、当時はそんな結婚も珍しくはなかったのだと思います。

父も地主の息子で、軍人でした。これもその頃では珍しくなかったのでしょうが、男尊女卑そのままの考え方で、加えるに我儘な、気に入らないことがあると怒り、くどくど繰り返し愚痴るような人でした。
時は社会がひくりかえった敗戦の時代になりました。8人の子供と両親と10人が食べて行かなくてはなりません。不在地主に残されたのは自力で耕さなければならない田圃少々と、小さな家とミカンの植わった山の斜面の段々畑でした。詳しく書いても、現在の方には想像もできない、おしんの世界に近い暮らしでした。

多分嫁ぐまで、嫁いでからも敗戦までは、エリートだったのでしょうが、一転生活はひっくり返ったものと思います。力仕事などしたこともない母が、小さな体でただただ働いておりました。父も、追放され、職はなく、一転した生活に鬱々としていたのか、機嫌の悪い時が多かった覚えがあります。

そんな生活が続きましたが、家族10人、誰一人戦死することもなく、戦後の暮らしで患うものもなく、子供もそれなりに成長しました。その間の思い出は折々のブログですでにいくらか思いつく真に書いておりますから省略します。

成長した子供たちはみんな家を出て行きました。両親は晩年二人で暮らしました。そして父はもうすぐ、6月には90歳になるという3月、89歳で突然、生死の境目をただの一歩で跨ぎ超えるように、一瞬で旅立ちました。母は79歳で未亡人になったのでした。

母はその後、一人暮らしをして、外に出た兄たちのうち、だれかが帰郷してくれるのを待つようでしたが、都会で務めを始めた人は、その家族の生活もあるし、なかなか難しかったのです。最後の何年間は、近所の主婦の方に家政婦として来ていただいておりましたし、具合が不安な時は泊ってももらうように頼んでいました。でも、「今日は調子がいいから、おばさん帰っていいよ」と断った夜、一人で旅立ったのです。

思い出話をしていたら、本題にたどり着くまでに時間切れになりました。

そんな母が一枚の着物を残していました。大島紬の訪問着でした。
その話はまたの機会に。


呼びかけの言葉

2022-07-28 16:14:24 | 言葉

7月21日の朝日新聞・「ひととき」に載った投書です。こんな呼びかけされたこと、あるある。なんだかおかしく、なんだか馬鹿にされたような、腹が立つような呼びかけです。そしてこの主婦氏のように「では何と呼べば・・・」と問われるとハタと詰まる言葉です。

英語だったら「ハロー・ハロー」だろうか。日本語では?
おせっちゃん、考えました。
「もしもし」。英語に訳すなら「イフイフ」だろう」という笑い話もありますね。何も英訳することはないでしょう。「もしもし」で立派なものだ。お母さんより、お姉さんよりいいと思います。

 

午後パソコン教室に出かける一寸の空き時間、ネットをのぞいてみました。いろいろ読み比べたわけではありませんから、他の説もあるかもしれませんが。これも雑学と書き留めておきます。

「もしもしは呼びかけの言葉。特に電話でよく使う」。これが一番の説明。その後にこんな説明が。

★電話の初期には、自分で相手につなぐわけではなかった。交換手に言って繋いでもらってそれで目的の人と話せるようになるのだった。
株取引の人たちだった。一刻も早くするために、決まりの言葉を決めようといい、最初は「おい・おい」だった。「おいおいは高圧的で、ブキラボウ過ぎるのでは」とあまり広まらなかった。
電話は広まって、、やはり呼びかけの言葉が欲しいということに。「申す・申す」を語源として「もしもし」が使われだした。尾崎紅葉が自分の小説の中で、「もしもし」がいいだろう、と書いてもいる。「申す・申す」なら古くからの正しい日本語だ、ということで広まった。

他の説をご存じの方、教えてください。


身の引き方・・・落語家の例

2022-07-26 13:35:13 | 読書・映画

山藤章二氏のエッセイ、続きが読みたいという御希望が2・3寄せられましたので、今日はそれをアップいたします。

私(おせっちゃん)は専業主婦ですから、仕事はおさんどん・飯炊きババアです。それほど感謝されることもなく、尊敬されることもなく、いわば、家事をやってくれる人がいないと不便だというその気持ちだけで追使われているようなものです。定年などという身の引き方は思いもよらず、死ぬ日まで仕事場から離れられないと思います。(少々愚痴っぽいですね、お許しください)

山藤氏も、自由業と言っていい仕事、だから、歳をとったからと言って、身を引く時期を厳しく考えなくてもいい身分だと自分のことを考えていらっしゃるようです。勿論こうした身分の人も多いのだけれど、歳を重ねると、自分の身の引き方を考えるようになるものらしい。
いろんな業界で、長老のように、ご老体で頑張っておられる方がいらっしゃる。敬遠と、尊敬の目で見られる。そして「誰が猫の首に鈴を付けに行くか」と囁かれるようになることもあるそうな。

山藤氏のシェルターの落語界も。

★ 桂 文楽師匠・・・作中人物の名前を失念なさった。静かに居ずまいを正し、「勉強してまいります」と言って講座を降りられた。そして2度と高座に上がられることはなかった。

★ 古今亭 志ん生師匠・・・同じような場面でも、あわてず騒がず。もともとあ~う~あ~、なにを言っているのか分かりにくい口跡の人でそれが売りでもあった。
「ほれ、なんだ?・・・その男が・・・」などとうまくごまかして続けた
お迎えが来る直前まで、高座に上がり続けた。

どちらが正しい身の処し方とは言えまい。持っている芸の型から、生きてきた人柄から、許されて最期まで語り続けて名を成す人、律義に身を処す方、いずれもすばらしい。


老いては自分に従え・・・山藤章二

2022-07-25 13:30:51 | 読書・映画

先にお話したと思いますが、先日からタイトルの本を読みました。
今まで特にご活躍を知らず、エッセイなども読んだことがありませんでした。この度もご縁で、図書館の棚で、偶然目にとまったエッセイをやっと読み上げたところなのです。

それだけの知識で書きます。年齢は私よりはお若いと思いますが、既に老境にはいっていらっしゃるか。ご自分が歳をとっていろいろ社会とずれが生じている、その初めて出会う老いの事実をふっと浮かんだらそこから浮かんでくることを書こうと思うと言っていらっしゃいます。

パソコン、スマホ、などは一切触れない。とも言っていらっしゃいます。自分のシェルターは落語だと。たしかに「老いては・・・」には落語、落語家がかなり登場しています。
そんな話の中から。私が面白いと感じ、今まだの人生の途中で似たようなことがあったな、と思う話をご紹介します。山藤さん、勝手に使わせていただきます。お許しください。

飯沢 匡先生・・・親しくお付き合いしていただいた時期があった。その時の先生の話。(おせっちゃんが記憶で勝手に書いた文です)

こうして親しく話していると、山藤さんは率直な、ウソは言わない、お世辞も言わない人と思いました。
だからお願いするのですが、私が話すことで、「ああ、その話はもう聞いたヨ」とおもったら、「その話は前に効きました」と言ってくださいね。きっとですよ。とおっしゃる。

実は4回目だった。ご本人が目の前で話していらっしゃるのだ、どんな顔でどういえばいいか悩んだ。結局「へ~え、そうですか」的などっちにでも取れる顔をしてごまかした。

目の前の若い奴が「今の話、前に聞きました」と言って去った。

 

クラス会で友人が言いました。「このごろ子どもたちや若い人に話す時、私枕を付けるの。これ前に言ったことあるかもしれないけどさ、とね。また同じ話~と言われる前の魔除け言葉よ」

私の場合、被害を被っていらっしゃるのはブログの読者の方でしょう。もし重なって言っていたら・・・ごめんなさい。狭い世間だけで生きてきた婆さんですから、ネタに困るんですよ。これは以前読み飛ばした方の目にも止まって欲しいなと思うこともたまにはありますが・・・

え、6回目かな・・・だって! ああ~あ。