昨日の続き
父が亡くなり、母が一人暮らすようになったころ、幸いにも・・というのでしょうか夫が北九州小倉支店に転勤になりました。我が家では単身赴任はせず、家族で暮らすを第一に考えました。そのため、時々は母の手助けに帰ることもできました。そんな帰省をした時の話です。
母がタトウに包んだ着物を持ちだしました。
「これ、思い切って買ったんよ。一世一代の買い物だと気が引けたけれど、今まで買いたいものも買えない暮らしを我慢した私がこれと決めて買うんじゃから、いいと思ったんよ」
そこにあったのは、渋い緑と灰色のグラデーションに、蚊絣をとばした、いかにも上等品と思われる大島紬がありました。「しゃれ訪問着になるように上前に、ほら・・」と開いて見せたのは金色で描いた五重塔でした。
「来月、お父ちゃんの三回忌にみんなが集まるじゃろう。その後にみんなで天神様に参りたいんよ。その時の晴れ着にと買ったんよ」
「ふ~ん、ずいぶん弾んだね。でも今まで好きに買い物もできなかったんじゃからいい買い物じゃあない。すてきよね」
聞いても良く分かりませんでしたが、自分の生まれた年と、今年が暦の何とかが全く同じになるんよ、珍しい巡り合わせなんよ」とのことでした。
母は清水の舞台から飛び降りる思いで求めたのでしょうが、長年倹約倹約という夫に仕えていたトラウマで、後ろめたい思いも持っていたようですが、私に話してすっきりしたようでした。
天神様参りは勿論いたしました。
父が亡くなって、ひとまず落ち着いたころから母はこんな事を言っていました。
「私は今が一番自由で幸せかもしれん。なんたって、私が大将で暮らせるんじゃから」と。苦しい戦後を生き抜くこと、それは物質的にも苦しかったと思いますが、急にエリートの身分を追われた、そのプライドの傷つきに毅然と立ち向かったのは苦しかったことと思います。
そんな母がなくなって残したものを分け合いました。価値のあるものはこの大島くらいでした。女姉妹も、義理の姉妹も着物は着ないから、私はいらないという人ばかりでした。
「おせっちゃん、あんたが一番おかあちゃんの意思を聞いていたんじゃから、あんた管理しいさん」とのことで私がもらったのでした。
さて私は、結構和服は好きで何かの機会には着ました。この大島も、地味でしたが帯をとり合わせて着ると、着付けの先生から、「地味だけれど、今が着時ね。。若さで着こなされるわね」と言われ、何度か着ました。着ると身体に素直ににまとわりつくようでいい物だとわかりました。
さて、またまた年月は過ぎ去ります。おせっちゃんも歳を取りました。私は「断捨離」という言葉はあまり好きでなく使いたくないのですが、「死に支度」をしなければならない歳になってきました。洋服の古いものは、リサイクルに出すも、捨てるも割に気楽に始末できますが和服はなんとなく捨てがたいのです。娘Maは、話半分も聞かないうちに「私いらない。邪魔」と断られました。息子Kのお嫁さんはお茶のお稽古をしていて、合うのがあれば欲しいということで、寸法直しの費用こっち持ちでもらってもらいました。着付け教室で学んでいた時の若いお友だちが今は長野で和服を洋服や小物に仕立てることをやっています。相談したら、切ってよければ使わせてもらうということで、宅急便で送りつけました。
最後に残ったのが、母の大島訪問着と、私の訪問着と、付け下げでした。
先日、「外国暮らしのお客様」というブログで紹介しましたらい太の長男のお嫁さんがこの3点を引き取ってくれることになったのです。彼女は裏千家の熱心な社中で今アメリカの支部でも役員などして活躍しているのです。着物を着る機会が多く和服いただきますということで、先日3年ぶりに帰国した時取りに来てくれたのです。母も、身内のものが引き取ってくれて安心したと思います。私も大荷物を肩から外した思いです。
ところで昨日のらい太とのメールのやり取り
〇「先日の着物、おかあちゃんが何歳の頃買われたと言ったっけ?」
◉「よく覚えていませんが、70代の終わりかなあ。あなたは覚えていませんか。子供を引き連れて、天神様にお参りなさった時の着物です。聞いた時から良く分からなかったのですが、ご自分の誕生日の干支となんとかがちょうどおんなじにになる、珍しい日だと言っておられました」
〇「干支の話はしらないなあ。H子さんは、着物のリストを作っておくんだって」
「H子さんには81歳ころと言っておいたけれど」
二人とも記憶あやふや。こんな推理
〇◉ 「 男の子を・・・ということは、何か他の会合で集まった後でのことですよね。おと~ちゃんは89歳でなくなりましたね。ということはおかあちゃんは79で未亡人になられたこと。実家にみんなが集まった時となると、1周忌か3回忌か、おかあちゃんがが80歳か81歳。そんなところかな。まだ元気はあって、私が大将じゃけえ、と思って、一番自由を楽しまれた時だったのかもしれません。そんなときがあってよかった」