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おせっちゃんの今日2

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子育ての思い出 1

2024-05-27 13:42:51 | 思い出

先日、夕食を済ませて片付け物をしようと立ち上がった時でした。テレビで、昭和を思い出すいろいろなこと(題名は不確かです)を思い出としてたどる番組が始まりました。ちょうどわが子の時代と重なる時も入っており、懐かしさにそのままテレビの前に座り込んでしまいました。

頭が弱ってきている夫も、その当時のことは思い出すようで、珍しく話に乗ってきました。
私たちが子どものころは、漫画は品が悪くて、勉強にもならない、漫画を見るくらいなら勉強しなさい、が大方の親の考えだったように覚えています。が時代が進み、わが子の子供時代は漫画ではなく、アニメに移り変わっていたのでしょうか。時代の歌と言えば、その主題歌、ねだって買ってもらった玩具は、アニメのフィギアや、グロテスクな怪獣オンパレードのようでした。

夫と私の会話

「うちの子は、こうした玩具は欲しがらなかったね。ねだられた覚えがないよ」
「ふ~ん、仕事が忙しくて、子育てはほとんど任せっきりだったけれど」
「フィギアを並べ立てるなど一度もなかったような気がする。うん、そうか、私が怖かったんだろうね。
きっと、欲しいと思ったこともあったのかもしれないけれど、ねだっても買ってもらえないと端からあきらめて言わなかったのかもしれない。うん、それが理由だね」
「怖~いかあちゃんだったからね」

息子Kが2年生の時だったかしら。北海道の方で起こった悲しい子供の自殺。スキーの板が古くなったから買い替えて欲しいと親に頼んだけれど、買ってもらえなかったからと、自殺したという悲しい事故が起こりました。担任のO先生は、HRでこのことを話題に話し合いの時間を持たれました。

その後まもなく、父母会がありました。会が終わって教室から出ようとした私に先生がおっしゃいました。
「K君はこう答えましたよ。こんなことで死ななくっちゃいけないのなら、ぼくは毎日死ぬことになると言っていましたよ」
肯定のお言葉か、困った親だと非難のお言葉か? 私は不謹慎にも、声をたてて笑ってしまいました。

家で。「K君、そう答えたんだって?」
「うん、そうだよ。本当のことだろう!怖~いかあちゃんだからね。いらない争いはしたくないよ」
「親戚のおばちゃんが、お誕生日祝いと、ガンダムかな?組み立てる奴をプレゼントしてくださった、しばらく遊んだけれど、すぐ飽きて、置き場に困ったようだった、年下の甥っ子に上げたよね」


ドラえもん

2024-02-29 13:30:38 | 思い出

ブログを休んでいる時のある日、「今日はやけにドラえもん関係の記事が多いなと感じた日がありました。
我が夫婦が漫画に興味を持つ頃は子どもの親にとっては漫画は本の中で一段劣ったもので、子どもには与えるべきではないという意識があったような気がします。経済的にも余裕のないわが家でしたから、漫画を買うということはなく、従って私より年上の兄たちが残していった漫画というものもありませんでした。だから、子供を通じてドラえもんが我が家を訪問してくれたのが、我が家の漫画事始めだったかもしれません。

わが家で漫画が話題に上る時、決まって登場する一つ話がありました。母の実家の従兄たち、その母親の会話です。漫画に夢中の従兄たちを叱って伯母が注意していた時のことです。やめさせようと説教をしていた伯母が、教育のためにもと少し読んでみたのだそうです。その時図らずも言葉が漏れました。
「マンガはくだらない、詰まらんものと思うちょったけれど、まあ、面白いねえ」だったというのです。

テレビ番組でも、ドラえもんは大人気者になりました。そして今に続いているのですね。

朝日新聞朝刊一面「しつもん!トラえもん」、という小さなコーナーがあります。ほんの2・3行の短文で、毎日いろいろな質問が発せられるのです。答えは朝刊のどこかに書かれているのです。一面で受け取った質問を意識して、答えを探しながら、親子で話ができる妙があります。
それが5000回を迎えたというので、ドラえもんがスター扱いの日だったのです。子供にもわかる、子供が興味を持つような質問ですが、時には大人にも難しい質問もあります。勉強させてもらっています。

私が大学生生活を送った山口市、まだ日本の貧しい時代でした。甘いもの・菓子などは無かったような気がします。ずっと後に同じ研究室の友人にちょっとしたお礼を送りたいと思ったことがありました。さて、彼は何が好きだっただろうか、チョコレート?嫌そんなものはなかったしな。考えてみたら、当時の学生のお喋りには、茶菓子などは無かったのです。親しく付き合った彼でしたが、、菓子の好みは分かりませんでした。

そんな時代でしたが、小さな町のささやかな商店街に、どら焼きを焼いて、温かいうちに売る店があったのです。甘いものに飢えている学生には、高根の花ではありましたが、印象に残っているものでした。山口ではどら焼きのことを「回転焼き」と言っていました。

時代は過ぎて、娘がふるさと山口の方と結婚して暮らし始めました。何かの時、「ああ、米屋町、あそこの、お土産屋さんの店頭で回転焼きやってたのよね」と不意に記憶に浮かんだことを大声で言ったのです。
「ああ、ありますよ~今でもちゃんとありますよ」婿殿の打てば響くの答え。「あら、懐かしい。青春の思い出だわ」「買ってきましょう」。若者は行動が早い。あっという間に求めてきてくれたのでした。

便利ポケットのない人間は、動かなくっちゃ。


空気が変わる

2023-12-05 13:37:03 | 思い出

土曜日、おせっちゃんの「折々のことば」として、物事を極めた人の美しさを書きました。
生きてきた長い道のりですが、その折々に感動を覚えたこと、数々ありました。
今日はそこから連想的に思い出した一瞬のことを書いておきます。

ブログにろくでもない、拙い文ですが、思い出をつづっています。書いてみるとそれは戦後の貧しい、そして、片田舎の生活が多いのに気がつきます。私の人格の大本はここにあるからでしょう。

駅弁大学と揶揄される田舎の大学ですが卒業して、3年間、教職につきました。教えるという立場より、学生の続きをやっているような、プロ意識の全くない3年間でした。結婚しました。夫が勤務している福島まで、山口から移動するのが、新婚旅行でした。

主婦らしく振舞うこともぎこちない田舎娘でした。様子を見に、舅が訪ねてきました。東京に連れていかれました。
「おせっちゃん、お芝居を奢るよ」新橋演舞場でしたか、連れていかれました。初めての経験でした。たしか水谷八重子の「女の一生」だったような。
慣れない場所で慣れない行動、田舎娘は落ち付かなかったのではないでしょうか。

幕が上がる。ちょっとの時間は導入部か、男女二人の何気ない会話の場面。そこへあとで気付いたのですが、水谷八重子の登場。
瞬間、劇場全体の空気が一変したように感じました。少しざわついた感のあった空気が、シ~ンと圧を増したような、冴えわたったような、不思議な静かさになったのでした。

何も知らない田舎娘が、この感動を感じ得たのは、ただひたすらに、八重子の芸の力だったのでしょう。

今でもその瞬間の感動を思い出すのです。

 


お茶事の後で

2023-11-24 14:11:41 | 思い出

子供二人が同じ年に結婚して、独立して家から出て行きました。自分では空の巣症候群などにはなっていないと思ていましたが、やはり気が抜けたようになっていたのでしょう。なんだかぼんやり暮らす自分に嫌気がさし、お茶のお稽古に通い始めました。
ご指導は、母・娘2代で教えていらっしゃる、いわゆる玄人の方でした。

その先生が、怒りを押し隠し、悲しそうに弟子たちに苦言を呈されたことがありました。
ご自宅を開放して、お茶事に招いてくださったのでした。塗りの器に簡単な食事つきのお茶会でした。

「びっくりしてしまいました!」

若い方々に手伝わせて、塗りの器を片付けました。弁当箱状態の器の蓋を取って、思わず声をあげてしまいましたよ。器の底に、魚の骨が、乱暴に散らかされていたのです。常識と思って指導しなかった、私たちも悪いのですが、こんな無作法許せませんよ。厳しく言いますから、ちゃんと礼儀をわきまえてください、とのお言葉でした。

★ 箸を上手に使って、なるべく骨は崩さないように召し上がること
★ 全部食べ終わったら、せめて、懐紙を畳んで覆いをしましょう
★ 出来たら、あらかじめ懐紙を用意しておいて、骨など残ったものは包んで持ち帰るほうがより礼儀にかないます。
★ 器が汚れていたら、器が汚れていたら、濡れた茶巾でさっとふき取って、先ほどの骨の包みとともに、用意したビニール袋に収めて持ち帰りましょう。

お茶に懐紙は当然の持ち物ですよね。その他は、心がけとして、用意しておくのが心得ですね

ということでした。

大仰に、見せつけるようなことなく、手早く、美しく始末すること、日ごろの鍛錬が必要のようでした。

日本には、こんな奥ゆかしい後始末の心得が伝えられていたのですね。いつのころからか、廃れてきていたのですね。私も食い散らしたままということはしませんでしたが、それ以下のことは心得ておりませんでした。戦後の食べるだけで精一杯の時代に、母も躾が行き届けなかったのでしょう。それとももっと前、母の母(祖母)の時代から廃れてきつつあったのでしょうか。茶道の席で、辛うじて伝わっていたのでした。


夏休み・宿題の思い出

2023-09-04 13:56:37 | 思い出

言わずもがなのことだけれども、今年の夏は記録的猛暑であった。でも季節は巡る、今日は少し秋めいた。エアコンではなく自然の風が入っている。あまりの暑さに、蝉も耐えられないのか法師ゼミの声が少ないような気がする。さあ、本格的な爽やかな秋は何時訪れるだろう。
はやくこいこい!!。

近くの公園も、朝早くラジオ体操は行われているようだが、私が主婦仕事を終えてウオーキングに出かける頃には、ワンちゃんも夏時間に切り替えて、もう帰った後。ほとんど無人の公園だ。
そんな寂しい公園を、帽子をかぶり、日傘をさしてぐるぐる2周、快適季節より短めで切り上げて帰宅する日々でした。

学校では新学期が始まった。地域の小学校では、学期初めは「挨拶週間」が行われる。町会にも声がかかり、登校してくる、くろんぼさんたちに大きな声で挨拶の手本を掛け合う。昔に比べれば、くろんぼさんの黒が薄いようだけれど。

夏休みの宿題と言えばこんなことが思い浮かぶ。5年生だったかな、「運針」が課せられた。手ぬぐい(タオルではなく平織りの晒のような布を2枚重ねて、50センチばかりの幅いっぱいに、一日一本縫っていくのである。休みの終わりには42本(かな?)の糸の線が並ぶはず。

休み始めに、うかうかと縫うことをしなかった。何々、3本できなかっただけだから、次三日間2本ずつやれば直ぐ追い付くさ。それが3本から5本、5本から10本、一寸サボっただけというのに、みるみる到底遅れを小学生が取り戻せる数ではなくなった。一日1本が、出来ない子に、3本5本は無理というもの。とうとう明日は新学期になった。

さて針は進まず、時間ばかりが過ぎる。夕ご飯後もかかりっきり。半分もできないところで、いつもなら子どもは寝る時間である。

母はお針はできる人だった。自分の着物、父の浴衣など洗い張りをしては縫い直してしゃきっとしたものを着せていた。
きっと母が助けてくれるだろう。といつ言ってくれるかと期待しても期待しても母は自分の仕事をしているだけ。目線を見合わせることもなく、見事な動きで塗っている。

さあ、翌日宿題提出はどう切り抜けたかまったく覚えがない。想像するに、大半のものができていなくて、結局先生から叱られなかったのかもしれない。

でもこの時の母の態度、姿勢、特に叱りもしないけれど、決して助け舟は出さない親としての見識、見事だったと、自分が子育てをする時に幾度も思い出したことではあった。

ず~とず~っと時がたって、このことを二人で話したことがあった。
「あんたは、良く熱を出す弱い子で、病気になると、病気をこの上なく嫌うおと~ちゃんが、機嫌がわるくなるんよ。そしてお前が気を付けんからいけん。と私が叱られるんよ。寝不足は大敵、でも途中でやめさせるのもと、私も苦しんでいたんよ」とのことであった。