お寺ふぁん

写真撮ってきたから見て~♪ 程度の記事書いてま~す!

お盆 暑熱 終戦の日

2011-08-16 | 日記

  昨日15日は、とても暑い日でした。

 きっと昭和20年の昨日も同じかそれ以上に暑い1日だったことでしょう。

 

 私の身内にも戦死軍人がいます。伯父です。硫黄島で亡くなったそうです。

 終戦から相当経ってから私は生を享けましたので見たこともないおじちゃんです。

 戦死日は、3月17日・・・これは硫黄島戦の終結日、要するにいつだったか分からんということですね。遺骨も収集団から送られたようですが、誰のものだかわからない一片の小さなお骨が入っていたそうです。

 伍長だということですから2階級特進ということを考えると上等兵だったということでしょう。仏壇に入営のときと思われる写真がありましたが、身の丈を超える重そうな小銃(これが38式でしょうね。)を携えていました。

 

 硫黄島が戦場になっているころ、不思議なことがあったそうです。

 母(私の祖母)が、尋常でない顔をしてさめざめと泣いていたそうです。

  ● どぎゃんした?

  母 息子が今ぼろぼろの爛れた格好で立っていた。家に入れと言ったが下向いてなんも言 

   わん。

   早よ入れと言うたけど、どこか行くと言う。

   ”どけ(どこへ)行くとか~?” “寺さん(寺に)”と言っていなくなった。

 それで泣いていたということでした。

 周りを見ても誰もいなかったそうですが、とても何事もなかったという感じではなかったそうです。

 科学的に言えば、息子に対する思慕が幻影を見せたということになるのかもしれませんが、本当に帰って来ていたのかもしれませんね。

 これは、“息子”の弟、つまり私の父から聞いた話ですが、「●」の人物が自分だったのか、自分も誰かに聞いたのかもう確認できなくなってしまいました。存命はしているのですが、認知症が進んでしまいました。

 太平洋戦争は、ついこの前に起きた戦争です。しかし、人の寿命からすると直接知り、確かな記憶を持つ人はもうぎりぎりのところでしょうね。

 当時の帝国軍人は死ぬことこそ本望であり、生きて帰ってきただけで後ろめたさがあって口が重いということを聞いたことがありますが、多くを語ってもらいたいものです。

 父も機銃掃射が恐ろしかったこと、鉄拳制裁がくやしくて恨みに思ったことなどをぼそっと話していましたが、特に戦争の話はしていませんでした。もっと聞いておくべきだったと思っています。

 もうひとつ書くと、米軍側の戦況フィルムが放送されるのを見たことがありますが、父は臓物をさらして斃れている兵、生きながらにして火炎放射器で焼かれ転げまわる兵などを見て、“兄貴もこんな風にして焼かれてしまったんだろうな、爛れて出てきたのがわかる。”などと言う一方、母(私の祖母)がもう目も見えない、耳も聞こえない状態になってからこんな映像が出てきて良かったと安堵していたのを憶えています。

 幸いにして日本は、太平洋戦争以降戦争を経験していません。

 昨今国としてあまりにも腰の引けた姿勢に憤懣やるかたなき人もいることでしょう。

 ひょっとすると社会が戦争志向となるかもしれません。

戦争映画も煽るかもしれません。「大和の特攻」だって、所詮まったく勝算なき出撃です。

 映画の意図がずれるでしょうが、犬死がもっと強調されるべきではないでしょうか。

 特攻専用機であるロケット機「桜花」の神雷部隊の指揮官は憮然として「湊川だよ、飛行長」と言って出撃したそうです。臆したのではなく、無策により100戦して100敗を免れない戦地に赴く境地です。戦争は決して美しいものではないし、若干形が違うということがあってもそんな事態は常に付いて回ることでしょう。

 

 戦争を回避するため、戦争も辞さずという毅然とした態度が必要なときもあるかもしれません。そうするとわずかなボタンの掛け違いで本当に戦争に突入してしまうかもしれません。時々に多数の難しい判断、覚悟が求められるんでしょうね。小市民にはどう対応していくべきか見当つきません。

 わかるのは、暑さは自然の成り行きですが、人の営みは内なるも外なるも泰平の世が過去のものとなってしまい、緊張の時代に入ってきたなということだけです。

 平々凡々と“この花はきれいだ”とか“これはうまい”などと言い続けていたいものです。

 

※ 湊川

  楠正成終焉の地。宮方(南朝)は、新政から離反した足利尊氏の追討を新田義貞に命じたが、義貞は敗れ足利軍が都に迫ることに。しかし、正成らの奮戦により足利軍の撃退に成功する。

  正成は、勝っているこの有利な時期にこそ義貞を捨て、足利との和睦をと提言したが容れられず逆に郷里にて謹慎となった。義貞が足利方との継戦に手間取っている間に勢力を盛り返した尊氏軍が九州から東上、正成は強大な足利軍への対抗策として帝に京を離れてもらい足利軍を京に引き入れた上での市街ゲリラ戦展開を提言したが、これも容れられず、義貞麾下として湊川への出撃を命じられる。

  多勢に無勢、策もなし、お上側近は無理無能。必敗を見越したうえでなおの出撃と云われている。結果的に義貞軍は退路を断たれる危惧から戦線離脱、正成の少数軍は孤立したものの勇戦、壮烈な最期を遂げている。