お寺ふぁん

写真撮ってきたから見て~♪ 程度の記事書いてま~す!

夏 涼 原発

2011-08-03 | 日記

今年の夏は現在進行中ですが、去年に比べればとても過ごしやすいと思います。

ここ数日も助かりましたが、今日は“つけ”を払うような暑さでした。

 

私は寺回りをしていますが、特段札所、霊場といったところを巡っているとかの宗教的動機は無いつもりでいます。

 古刹と呼ばれるような寺ともなると、国家鎮護を目的とした官営ないしそれに近いものであり、その当時の最高の技術を惜しみなく詰め込んだ玉手箱のようなものと思っています。

 それに加えて季節の花などがあったりするとあっちもこっちもと見たくなるわけですね。

 

 そして、暑い日がくると涼やかな場所が恋しくなります。

 冷たい清水の流れる小浜天徳寺やこの前行ったばかりの高見山近辺の泰運寺など何度も行ってみたいところです。

 そういうお寺の場所となると「風光明媚」「山紫水明」といった言葉があたると思います。

 

 さわやかさを感じながらも、ふと湧く思いがあります。

 “このまさに聖地といった場所もあの魔の物質が降り積もれば、見た目全く変わらないのに遺棄地となってしまうのだろうな・・・”

 

 旧日本軍には、作戦立案において解決しなければどうしても決行に踏み切れない重要な想定が見つかった場合、これを解決する根本的、絶対的に極めて効果的な方法を持っていたということを聞いたことがあります。

 そしてその方法とは、“そういう想定は起こりえない”と結論付けてしまうことです。

 

 原発というのもこの延長上のような考え方で洗脳、自己暗示的に進められてきたような気がします。

 日本の隣国には、列車が事故すると壊して埋めてしまうようなところもあり、こういうところに原発があると、仮に日本国内に原発が無くなったとしても決して安全ということはないと思います。黄砂でもわかるように風下となる日本は汚染を免れ得ないでしょうが、それでも国内には無いようにしたいものです。

 

 暑いのでガンガンクーラーを効かせたい、そんな個人の事情に止まらず産業の基盤である電気をどうするんだということは当然あります。しかし、そういう人質を取られたとしてもブレーキの利かない、あるいはかけ方のわからない列車は走らせてはならないと思うところです。

 

 なお、仮に原発を全廃したとして、それで平和利用核の危険がすべて解決ということもないようです。一旦稼動させた原発は、その施設自体が核物質化してしまいます。まして使用済み燃料の問題があります。もはや一切電力を生むことがないのに、気の遠くなるほどの将来まで冷却していかなければならないようです。

 原発の稼動だけが前面に出て過小に見られていた問題でしょう。

 

 今後どうしていったらいいんでしょうか?

 暑い、暑いといいながらも国民の一人として考えなければならない課題ですね。