沖音協の 泰さんが、『標的の村』の上映を、2月に宜野湾市で行おうと、準備を進めています。 日音協の機関紙『音楽運動』1月号にて、『標的の村』に関する(琉球朝日放送 三上智恵)さんが「女のしんぶん」1月号に発表したものが、転載されていました。ブログにて再度転載します。
琉球朝日放送が開局した1995年は、3人の米兵が幼い少女を暴行し、県民が怒りを持って立ち上がった年だ。あの時、沖縄の大人たちは今度こそ本気で基地負担を無くし、これ以上の犠牲者を出さないと胸に刻んだはずだった。
放送局として走り始めた私たちも、歴史的な局面に向き合い人数は少なくても基地問題だけは落とせない、と踏ん張ってきた。
そして翌年、橋本総理とモンデール駐日大使(当時)が「普天間基地を返還します」と発表した日、朗報として伝えるという間違いを犯した。「県内移設ののちに…」という条件が、その後どう重く沖縄にのしかかってくるか十分読み込めないないまま、沖縄の積年の思いが何かを動かしたかのように受け止め、報道してしまった。それが茶番劇にすぎなかったことは、のちに一つひとつ明らかになる。
ベトナム戦争中の1966年にまさに同じ場所、同じ形の辺野古基地計画があったこと。そこにオスプレイを配備し、訓練先として、高江という集落のまわりの北部訓練場にヘリパッドを造ること。オスプレイの沖縄配備は92年には決まっていたこと。すべてオスプレイありきのシナリオだと暴いて報道を重ねるが、全国ネットには載らない。必死の報道も空しく、世の認識を変えることができないまま、恐れていたとおり、今オスプレイは高江を標的にするように頻繁に旋回し、辺野古の沿岸に広い基地ができるのを催促するように東海岸を往来している。
私たちの報道が偏向しているという意見がある。しかし沖縄に住んでいる以上、私たち報道部員は、誰もがオスプレイの下で暮している当事者である。もしこの空がさらにオスプレイだらけになったら、子どもを抱え、安全を求めて右往左往するのも私たちだ。国の利益と沖縄の安全が対立するときに、中立でいられるわけがない。
報道の本分は権力の監視である以上、国策として国家が押しつけてくるものが常に一定の人々の人権を奪うのであれば、弱者の側に立って報道するのは当然である。私たちローカル放送局は、沖縄の歴史と価値観に根ざした、沖縄の人間による沖縄で生きる人々のための報道機関なのだ。
そんな怒りを持ち、何としてでも、基地やヘリパッドの建設を中止させようという報道は全国には歓迎されないはずだった。
ところが状況に変化が起き始めている。2012年の年末にヘリパッド工事に反対する高江の住民が主人公のドキュメンタリー『標的の村』を沖縄ローカルで放送したところ、動画がインターネット上に投稿され、またたくまに3万回以上のアクセス数になった。
そして私たちのもとに「国がこんなにひどいことをしているなんて知らなかった」「全国にも放送してほしい」という電話やメールがたくさん届くようになった。
その声に押され、テレビで流せないのなら『標的の村』のDVDを持って全国を回れないか。映画にしてはどうかと考えた。思い立ったら即実行。すでにテレビドキュメンタリーの映画化に成功している他局の先輩らの助言を仰ぎながら、昨年8月に東京で公開に踏み切った。すると、4カ月に及ぶロングランになり、2013年末現在、約1万8000人が足を運ぶ大ヒットになったのだ。
現在も東北ほかで上映中だが、上映がなかった地域で自主上映活動も活発になっている。
「これ以上、知らないことで国策の加害者になりたくない」「この国の劣化がここまできていることを坐視できない」。自分を当事者だと位置づける人たちの声が続々と届いている。
映画の観客は、上映の機会を探し、半日つぶして電車に乗って来場し、入場料を払って何かを吸収しようと前のめりで見てくださる。私は個人視聴のテレビとは根本的に違う「映画が作り出す場」に、実は大いに期待しているのだ。会場で共に目撃者となって怒りを共有し、「このままで終わりたくない。来月高江に行ってみない?」という話に発展するのも、そういう自主上映の場なのではないかと思っている。
辺野古の埋め立てに向けて、沖縄県内の状況も切り崩しが進んでいる。20年近くに及ぶ抵抗が疲弊しているのも事実だ。
しかし、まだ見ぬ沖縄の救世主が、この映画を見た人の中から次々に立ち上がり、沖縄に駆けつけてくれる日が来るのではないか。
私たちの映像がそんな流れを変えるきっかけになれば、こんなに嬉しいことはない。
(琉球朝日放送 三上智恵)
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