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【コロナが変える社会 その2】 『教育』 の意義と『学校』の意味

2020-05-04 08:56:00 | 日記


今、日本の就学児童・生徒そして学生は、教育場である『学校』に集う事が出来ない日々が長期化しています。

学習カリキュラムを「教え学ぶ課程」の遅れも気になるところですが、友達や先生と会えない、そして学友と直接話ができない「心のストレス」が溜まり始めている事が更なる問題となっています。

コロナ禍に直面している今、私は、あらためて『教育』の意味と価値、また、『学校』の在り方を「学校教育」の視点とともに、所謂、広義の『社会教育』、例えば「地域教育」「コミュニティ教育」「コミュニケーション教育」「学習塾教育」「自然教育」「情操教育」「遊び教育」、そして「家庭内教育」や「社会人教育」などの視点をも考慮して再考してゆくべきと思っています。
また、『教育』の「場」を、画一的なものではなく、より柔軟かつ機動的に社会実装してゆく考え方と、具体的な手段や手法について議論が必要だと思う次第。
私流ではFlexible Learning & Education System!と言ったイメージです。

先ず、あらためて親などの庇護の下で、就学中の広義のこどもたち(未成年・未社会就労者)への「教育の目的」とは何か!考えてみましょう。

常識的なところでは、

・人として、円滑に社会生活を送ってゆけるための最低限の基本的知識と術(識字などの知識と生活の知恵)

・人との交わり方と集団生活でのマナー(自己と他己意識や自我認識、会話術や自己表現の術)の習得と人格形成

・文科省の指導要領に規範された「知識」や「思考法」の習得と、習得確認が目的である「試験」を、学力差として格差判定をする所謂「勉強術」の習得

・試験で高得点を得る事が「優秀」とされ、統計的サイドインフォメーションである「偏差値」を上げることが「目的」とされている点取技術の習熟

などなど、日本の教育現場意識は(敢えて誇張した言い方をすると)、学力習得>人格や人間愛醸成!となっているように感じます。

その背景には、就学の最終学府である大学(院)で学んだ(在籍していた!)ブランド価値が、あたかも「人生幸福の権利証」の如くの社会常識が定着し、大企業や公務職といった「安心安定性」が期待できる組織への「就社」有利となるとなる事が「幸福人生」の『入場券』と思い込む、一部の日本人社会意識があります。

高度経済成長期を経験した日本社会の意識には、「教育」とは、良い社会生活(高い給料とステータスが保証された生活)を得る「目的」として位置付けられている面も。
今もさほど変わりはありませんが、コロナ禍は、大きな社会意識エポックメイキングとなれば良いと願っています。

今までは、高偏差値の大学を優秀な成績で卒業し、一流企業等組織に「就社」して、がむしゃらに、ひたすら仕事最優先の働き方が「美化」され、出世することが『幸福人生』!との歪んだ「信念」が「幻想」である事を組織人は学び始めています。 
これも「学習」ですが、「学校」での教育カリキュラムではなく、社会人教育の経験的学習です。

例えば、近年、組織社会では「働き方改革」「健康経営」そして『SDGs』などの社会意識の変革により、少しずつですが「生きる大切さ」や「仕事一辺倒からライフを楽しむ」時代に変貌しつつあります。 
でも、実態は、根性論を美化したがるジェネレーションX世代が、まだ組織の「岩盤」となり、総論同意(うわべでは、「働き方改革」推進を装いながら徹底したマイクロマネジメント型「監視職」に勤しむ輩たち)で各論で骨抜き、とする傾向はどの組織にもあります。
 
この課題が、なかなか「働き方改革」を促進する足枷になっていたことは否めない実態でした。「テレワークなんかしても効率的ではなく、部下の管理が十分できない!....?」と声高に持論を吹聴していた「意識が化石化」している管理職階層の人たちでさえ、コロナショックにより、否応なくテレワークが強制適用され、適応する事が求められています。
やってみるとわかる事もあります。
『結構いけるかも...!』との実感が湧いてくるものです。

「教育」とは気付きの機会創出です。
教え込むものではありません。
大人も子どもも同じです。
指導要領に基づき、粛々とティーチングしてゆく「日本社会での学校の先生」は尊敬されるべき方々です。
一方、ティーチング(講義)だけでは、人間の成長には限界があるもの。
生徒等に、考えさせ、感じさせ、自分の心との対話機会をつくりながら自律的な学習法をファシリテートするのも先生の役目です。
所謂、アクティブラーニングと呼ばれる教育手法は、昨年辺りから、話題となり始めていましたが、教育現場への浸透には至っていません。
こうした変革には時間がかかるもの!との常識にあぐらをかいてしまう現実に、コロナショックは大きな一撃を与えたのではないかと感じます。

「教育の意義」とは!「学校の本義」とは、そして『通学』制限が継続されている状況の中で、どのような手立てを打ってゆくべきなの!は、政府や文科省が指示するだけではなく、現場を知り抜いている教師一人ひとりが考えてゆくことも大切ではないでしょう。

教育現場は、未来の人財資本(子どもたち)の養成・育成場です。指導要領に基づき知識を増やすだけだはなく、子どもたちの個性や感性を誘発させてゆく「場」でもあります。 
「教室」で対面「授業」が出来ない今、「学校教育」において、どのようなイノベーションを沸き起こすのか、そして学校外の「社会教育」との連携や連動をいかに設計・デザインしてゆくのか!

コロナ災禍は、こうしたテーマを真剣に議論してゆくきっかけとなります。
教育とは?
学校教育とは?
教師の社会ミッションとは?
日本の教育制度はこのままでよいのか?
未来を託す次世代のジェネレーションに対し、「今の若者は!...」との意識を大人が持っている事への反省と自戒!

ポストコロナでは、日本社会の教育のあり方を真剣に見つめ直すよいきっかけとなればと思っています。

「偏差値」至上主義あるいはIQオリエンティッドの「教育」社会意識を、「人間」の持つ多様な能力や感性にスポットを当てたEQベースの「教育」の価値への意識変革、そして人と人との繋がりや、友達愛、家族愛、仲間愛、人間愛など『愛』の大切さを気付くことが「幸福社会」を創造してゆく!と私は思っています。

「コロナショック」は、あまりにも当たり前すぎる意識や、社会常識と思い込んでいる「価値観」や「社会観」を、より「人間の幸福」に繋がる『新社会価値観』醸成のきっかけになる事を期待しています。