今日は長崎に原爆が投下された日です。私にとっては原爆投下といえばどうしても広島が身近な存在であり、広島については毎年ブログでも取り上げていますが、今年は長崎についても触れてみたいと思います。
今年の長崎の平和宣言は冒頭「人間はいったい何をしているのか」という呼びかけから始まります。そして「被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。」と核軍縮が進まず、逆に核拡散が進む現代の情勢に対する長崎の怒りのメッセージが発せられています。
(今年の長崎の平和宣言はこちらです。)
こういった長崎の怒りは、国際情勢だけでなく歴史が風化しつつある日本にも向けられていると思います。「被爆国の政府として、再び悲惨な戦争が起こることのないよう、歴史の反省のうえにたって、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。」、「61年もの間、被爆者は自らの悲惨な体験を語り伝えてきました。ケロイドが残る皮膚をあえて隠すことなく、思い出したくない悲惨な体験を語り続ける被爆者の姿は、平和を求める取り組みの原点です。その声は世界に広がり、長崎を最後の被爆地にしようとする活動は、人々の深い共感を呼んでいます。」
しかし現実は、被爆体験者がその体験談を話すときその内容が「政治的」にならないよう注文を付けられる例が相次いでおり、長崎平和推進協会がでも、被爆者に対して「政治的発言」の自粛を要請し、方針を後で撤回する事態が発生しました。
被爆者代表による「平和への誓い」でも「戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が戦争前の様子に重なり、居ても立ってもいられない」と歴史の風化に警鐘を鳴らしています。
ヒロシマでは希望を感じた一方でナガサキでは歴史が風化の危機感が感じられました。我々はナガサキの声に対して真摯に耳を傾けなければならない、そう思います。
長崎原爆の日 死没者14万人余の冥福祈る (朝日新聞) - goo ニュース
今年の長崎の平和宣言は冒頭「人間はいったい何をしているのか」という呼びかけから始まります。そして「被爆から61年目を迎えた今、ここ長崎では怒りといらだちの声が渦巻いています。」と核軍縮が進まず、逆に核拡散が進む現代の情勢に対する長崎の怒りのメッセージが発せられています。
(今年の長崎の平和宣言はこちらです。)
こういった長崎の怒りは、国際情勢だけでなく歴史が風化しつつある日本にも向けられていると思います。「被爆国の政府として、再び悲惨な戦争が起こることのないよう、歴史の反省のうえにたって、憲法の平和理念を守り、非核三原則の法制化と北東アジアの非核兵器地帯化に取り組んでください。」、「61年もの間、被爆者は自らの悲惨な体験を語り伝えてきました。ケロイドが残る皮膚をあえて隠すことなく、思い出したくない悲惨な体験を語り続ける被爆者の姿は、平和を求める取り組みの原点です。その声は世界に広がり、長崎を最後の被爆地にしようとする活動は、人々の深い共感を呼んでいます。」
しかし現実は、被爆体験者がその体験談を話すときその内容が「政治的」にならないよう注文を付けられる例が相次いでおり、長崎平和推進協会がでも、被爆者に対して「政治的発言」の自粛を要請し、方針を後で撤回する事態が発生しました。
被爆者代表による「平和への誓い」でも「戦争を知らない世代の人々が求める強い日本の姿が戦争前の様子に重なり、居ても立ってもいられない」と歴史の風化に警鐘を鳴らしています。
ヒロシマでは希望を感じた一方でナガサキでは歴史が風化の危機感が感じられました。我々はナガサキの声に対して真摯に耳を傾けなければならない、そう思います。
長崎原爆の日 死没者14万人余の冥福祈る (朝日新聞) - goo ニュース
10年程前に訪れた長崎の町の印象は今でも鮮明に覚えています。
キリスト教徒弾圧の不幸な歴史の痕跡を残している長崎市の北側の古い町並みと、原爆によって破壊された後に復興した市の南側の整然とした町並みが強いコントラストを為していて、非常に印象的でした。
町の中にひっそりと建っている如己堂(「長崎の鐘」で有名な永井隆博士が亡くなるまで住んでいた小さな家です)を発見したときには、(詳しく書きませんが)様々な感情が去来して、しばし呆然となった憶えがあります。
あの日以来、長崎には特別な感情を持っています。世界中の多くの人々に長崎を訪れて欲しいと思います。
私が長崎に行ったのは中学校の修学旅行です。そのときに長崎の原爆祈念館に行き、原爆の被害の深刻さが子どもながらよく理解できました。丁度その前後少年ジャンプに「はだしのゲン」が連載されたことから、原爆や戦争の悲惨さが心に刻みこまれたのだと思います。
それから何十年?か立ち、最近の若い世代の言動を見ると歴史が風化したということを実感します。