硝子戸の中でのひとりごと

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タイトルは漱石より拝借☆

京都を歩くカルチャー講座へ。その1

2018-09-02 10:38:21 | 京都
以前、松菊祭へ行った際に霊山博物館で見つけたチラシから勢いで申し込んだ、
「桂小五郎と幾松が駆け抜けた幕末京都」という町歩きのカルチャー講座に
参加してきました。

こういうの、しばりょ信者の年配の方が参加するイメージ(笑。大きな偏見)だったけど、
自分ではなかなか行けないところが混じってたから行きたくなったんですね。

ま、参加者は確かに見事に年配者ばかりで、中年世代すら私一人という
That's予想通りな感じでしたが(笑)
うーん、一人くらい同世代が混ざってるかと思ったんだけど。

ま、それはさておき。

コースの最初は、「梁川星巌寓居跡碑」。
詩人で尊王攘夷論者の梁川星巌が、安政の大獄で捕縛される直前に亡くなり、
「死に(詩に)上手」と言われた話などを講師の先生が披露されていました。


続いて、鴨川を挟んだ向こう側にある「頼山陽寓居跡 山紫水明処」。
説明を聞いて外から見るのみですが。
子供の頼三樹三郎もここで誕生しているとか。
このあたり、学生時代も社会人になってからもわりと来てません。
ビッグネームでも、<そこをめがけて>は行かないんだよなあ。
 

そのまま三本木の花街を進むと、「吉田屋跡碑」「京都法制学校設立碑」が。
吉田屋は、桂小五郎と幾松の逸話があったり、薩土盟約の舞台だったりとネタは満載。
そして京都法制学校……ああ、立命館の元、覚えたなあ、日本史で!とか思いつつ。
西園寺公望周辺も、また詳しく知りたいなあ。


その後、花街の解説があり、そこから「女紅場跡碑」へ。
新英学校及女紅場。この説明が参加者みんなにわかるってのは、『八重の桜』の功績だろうなあ。
後半耐えられずドロップアウトした私も、あの前後で知ったこと、けっこう多いし。


そしていよいよ、今回の目的その一、木戸孝允旧邸・達磨堂へ向かいます。

まずは「木戸孝允別邸跡碑」。
もとは近衛家の下屋敷「河原町御殿」だったのを木戸さんが譲り受けたという場所。
碑が3つもあるのがおもしろいとこですよね。
  

そして、「木戸孝允 臨終の家」です。
もとは茶室だったらしい建物で、ここで療養している木戸さんの所へ、
明治天皇がお見舞いに来られたのだそう。
……奈良・今井町へ来ていたその後の話ですな。
普段は閉まっている雨戸を開けて中を見せていただけるのが、こういうツアーならでは。
 

そして、木戸忠太郎のだるまコレクションがひしめく「達磨堂」。
いやもう、おもしろくて異様ですよ。いわゆるオタクさんだよね(笑) 好きです。
 

そして、雨宿りしつつ(笑。しかし心配した雨もこの程度でよかった!)、
「舎密局」と「明石博髙(ひろあきら)」の説明を聞き、「久坂玄瑞が謹慎した法雲院」へ。
説明が大河ドラマベースなのは仕方ないかあ、と思いつつも
(数年前のいろいろ燃えたアレは早々にドロップアウトしたから、ちょっとモヤッと)、
法雲院の境内へは初めて入った私です。ここはどんどん焼けでも焼けてないのね、なるほど。
 

で、「京都での天誅事件第一号・島田左近遭難の地(善道寺)」の前へ。
こーゆーとこ、わりと行ってないのよねえ。ノーチェックでした。
島田左近が殺されたという竜宮門の前までしか行かなかったので、中は次の機会に見よう。
 

そして島津製作所の資料館の前にある“がんこ高瀬川二条苑”の説明。
「山県有朋 第二無鄰菴」です。東山のほうは知っていますが、ここは入る機会がないからなあ。
さらに遡ると角倉了以の別邸跡なんですね。その碑は高瀬川のところにもあります。



そしていよいよ、目的その2ですが、それは次の投稿で。








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