若生のり子=誰でもポエットでアーティスト

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「富士」とは何か

2007-12-17 | PhotosーNoriko Wako
ある方からワコウの富士山感は、どのようなものかとの問い合わせがありました。

前述しましたように過っては、あまりに通俗的な富士山が巷に溢れていますのに辟易していましたが、、、。
富士山の見える家に住んで30年以上
富士山の間近に山小屋を持って15年以上
気がつくといつの間にか心の奥に“fuji”が住んでいました。
晴れた日は、朝起きて雨戸を開けるのが楽しみなのです。
なにかの期待をしているのです。
そしてそこに“fuji”の存在を認めますと単純なもので
なんとなく安堵して今日は何か良い事がありそうなという気持ちになります。
まさに見守ってくれているように感じるのです。
一種の自然崇拝、ア二ミズムだと思います。

如何にこの世が変わっても、人が死んでも生まれても、下界の人の世のはかなさや魑魅魍魎を超絶した永遠不滅の、“とこしえの富士”に崇高さを感じるからでしょうか。
昔の人々もそれと同じように感じ「霊峰」としたのだと推察します。

人類の及ばぬ力すなわち宇宙の力の存在です。

ある時、宇宙のさるトコロで、なにかの変異で、この惑星が生まれ、
冷却していく中で、“fuji”の源存在が出現したのですから。
雨空で見えなくとも、雲にかき消されても、必ずそこに在るという存在、
それ故への絶対の信頼感と安心感。
畏れ多くも人類の及ばぬ美しく気高い偉容

故 北斎の描く富士はアッケラカンとして、下界で起こる人間模様からは隔絶して
(人間的な感覚の湿っぽさの微塵もない、人間的な思いを被せようもない)
“ただ其処に在るだけ”
だけれども
“その在るだけなのに人間世界を包み込んでいる”
のがスゴイというのがワコウの北斎感であり“fuji”感です。



写真は山中湖から撮ったものです。

湖面のさざなみが逆さ富士を揺らしました。