goo blog サービス終了のお知らせ 

縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

インドの鬼とジョウバ(除魔)

2016年01月31日 09時21分30秒 | 民俗学ごっこ

節分が近くなると俄かに脚光を浴びるのが鬼。

以前のブログでインドの鬼について書いた事があるが、今回はその続き。

オートリクシャーに飾られた鬼

チャンナイの商店に飾られた鬼

 

鬼の姿は牛の角を生やして虎皮のパンツを纏い、金棒を手にするのが一般的で、これは平安時代に道教の影響によって生まれたものであるらしい。

当初のオニは目に見えないモノノケ(モノの気配)という意味で隠(オヌ)と呼ばれ、その後に中国語の鬼(キ)が当て字されたという。

モノノケのモノとは、魑魅魍魎や後年の怨霊などの人に禍する実体無き気配のことだろう。

牛の角と虎皮は、鬼門である丑寅の方角を象徴しているとの事だが、日本人に馴染みのある鬼の姿そっくりの魔除けキャラクターがインドにもいるのだ。

主に南インドのチェンナイ(旧マドラス)からケラーラ州にかけての商店の軒先や、三輪タクシーのオートリクシャーのテールに飾られており、地元の人に名前を聞いても「デビル」と英語名しか答えてくれないので、古い魔除けではないのかも知れない。

もしかしたら日本の鬼が輸入された?

インド人の誰に聞いても詳しい事が分からないが、インドでテレビを観ていたら新型テレビノコマーシャルに鬼のCGが出てきた事があり、最後に「ONIX」とメーカー名が出てきたのだ。

チェンナイの自動車修理工場に飾られた鬼の横に、椰子の実製のオニモドキが(笑)椰子の実は硬く、内部には滋養が蓄えられているという特質が強さを象徴しているのだろう・・・強いモノには魔が取り付けないのだ。

 

想像を逞しくすると、海外輸出向けの日本の家電メーカーONIXのマスコットキャラクターが鬼で、インド進出を機会に鬼の本場の一つである南インドに広まった?(笑)

モノの語源は、南インドの言語であるタミル語であるという説もあるのだ。

いずれにしても鬼は赤い口を大きくあけて、目を見開く顔付きをしている。本来はバイオカラーを象徴する赤鬼が基本だろうと思う。

日常は隠されている赤い身体内部を曝け出すような異様な面相は、怒りの表情であると共に生物にとって最も無防備な姿と言える。

内なるチカラの誇示・・・弱点を曝け出す事ができるのは強さの証拠で、顔付きだけで魔除けにはなるだろう。

鬼の面相は、糸魚川市の春の風物詩「けんか祭り」の魔除けであるジョウバの赤い顔、大きく見開いたギョロ目と口に良く似ている。

ジョウバは除魔と漢字表記するのである。

鬼もジョウバであり、魔除けなのだ。

 

 

 


糸魚川の正月飾り・・・繭玉

2016年01月11日 22時06分25秒 | 民俗学ごっこ

糸魚川市本町通りの「糸魚川の町屋文化を守りつたえる会」主催のカルタ取り大会の設営準備にボランティア参加して、懐かしいものに再会した。

 

久し振りに雪が降って冬景色になった。本町通りに並ぶ雁木通りは上越市が発祥とされる江戸時代からある木製のアーケード。雪が似合う。

糸魚川の正月飾りの「繭玉」を作ったのだが、懐かしいものとは繭に模したカラフルなモナカである。

 

因みに我が家の繭玉は昔ながらに枝の先端に搗きたてのモチをくっつける。

繭玉は恐らく養蚕をしていた時代に生まれた予祝の縁起物・・・めでたい出来事を予め祝って既成事実とする事で現実化させる呪術・・・なのかとも思う。

話を元に戻すと、モナカの繭玉は私の子供時代に飾った記憶がある・・・まだ売ってるんだあ・・・懐かしい。

中空になった半球状のモナカ同士の小口を水に浸し、枝の先に挟んでくっ付けるのだ。

主役は繭玉を模したモナカだが、紙製の恵比寿様・大黒様・宝船・打出の小槌・千両箱といった縁起物をニギニギしく飾りたてる。

 

充分に水に濡らした上で、モナカを潰さないように接着しないとモナカが乾いて落ちてしまうので、この作業をする時は誰でも神妙な顔になる。

モチの繭玉も古風でいいが、色とりどりの繭玉も景気がよくていいもんですな。


アメ横グラフティ・・・江戸っ子体験ならここ!

2015年08月27日 19時24分41秒 | 民俗学ごっこ

学生時代、色んなアルバイトを経験して社会勉強しようと思ったが、最初のバイト先のアメ横に嵌ってしまって、卒業まで同じ店で働いていた。

子供の頃から落語好きなので、江戸っ子らしくっていいや、てなもんだ。

JR御徒町駅からアメ横に入った最初の魚屋「浜屋食料品店」がそれで、角地という立地条件と、魚の鮮度が保ちにくい夏は野菜や果物を主体、冬は魚を主体に売るという経営方針が当たって、当時はアメ横一の売り上げを誇っていた。

現在の浜屋。当時より社員は半分だし、撮影時の夕方なら人混みで写真を撮る事が出来なかったくらい。あの威勢が良くて、「飲む打つ買う」が大好きな人間臭い男達は何所に行ったのだろう???三十代までなら照れ臭くて近寄る事もできなかったが、もう私の事を知っている社員もいない。

 

浜屋は、生鮮食品の単位売場面積売上が世界一として、ギネスブックにも載った事もあるらしい。

アメ横で働いている人は下町出身者が多く、気が荒くて喧嘩っ早いのだけど、威勢と気風が良い人が多くて、毎日が祭りみたいで楽しかった。

暮れの繁忙期になるとケンカ沙汰も多く、詳細は内緒だけど警察騒ぎもあった。

私も若い頃は喧嘩っ早くて、バイト連中に横柄な態度を取る社員と殴り合いの喧嘩をして、バイト仲間には喝采を浴びた。

そして、他の店の人からも「あの野郎と喧嘩したんだってえ?嫌な野郎なんだよう。殺しちゃえば良かったのに!」と褒められた(笑)

 

買い物客の数は往時に及ぶべくもないが、外国人観光客が増えたので、スタバのトイレにはこんな表示(笑)

下町の住宅街には連れ込み宿が多いのだけど、最近は外国人専門の旅館に商売替えする所が多いのだそう。因みにKOASANとは、バンコクの有名な安宿街の事。

 

浜屋には、一部上場の有名企業を辞めて社員になった人が多かった。

学生時代にアメ横でバイトした人が大企業に就職すると、年功序列の組織に息苦しさを感じて、アメ横に戻ってくるのだという。

バイトと言えども、仕事を覚えると即戦力として仕事を任されるのがアメ横流で、私も仕入値が幾らだから、幾ら利益がでればいいので、売値はお前が決めろ、と言われたので意気に応えた。

暮れは近所のビジネスホテルに泊まり込んで、早朝の仕入れと開店準備をする選抜メンバーにもなった。

だから就職が決まった時には、店長から飲み屋に連れていかれて社員になれと口説かれたもんだ。

誘いを断ると、就職しても他の連中みたいに何年かしたら、アメ横に戻ってくるぜ、と言われた。

あれから三十年・・・未だアメ横には戻っていない。

 


吉井本家の火打ち金は、こんな所で作っている

2015年08月25日 19時47分47秒 | 民俗学ごっこ

整体協会本部での夏季特別稽古会で上京がてら、火打ち金を作る「吉井本家」にお邪魔した。

浅草の観音さまの東に掛かる「吾妻橋」を渡ると墨田区だ。江戸の昔なら、この橋から下流の隅田川を「大川」と呼ぶ。江戸時代は身投げの名所だったそうで、落語に出てくる身投げは大抵は吾妻橋。「文七元結」の文七が死に損ねたのもこの橋ですな。

 

火打ち金とは火打石に打ち付けて火花を出す発火具で、本来は東日本では火打ち鎌、西日本では火打ち金と呼ばれていたそうだ。

吉井本家は江戸時代から続く火打ち金の老舗ブランドで、当初は上州吉井宿の名産品であったものの、明治以降は墨田区向島の「伊勢公一商店」にその技術とブランドが継承されて現在に至っている。

当代は四代目である牧内社長で、後継者はいないそう。

素晴らしく発火性能の良い火打ち金はどうなってしまうのだろう?・・・ちょっと心配。

これまで様々な火打ち金を試したなかで、最も発火性能が良かったのが、「吉井本家」の火打ち金なのだ。

 スカイツリーからほんの2キロ位しか離れていない住宅街に「吉井本家」の工場(コウジョウではなくコウバね)がある。左が焼き入れをする焼成炉。作っているのが火打ち金限定なので、鍛冶屋の火床(ほど)とは趣が大分違う。

かっては観音様の縁日などでも火打ち金を売っていた時代があるとかで、その時の看板。下町には銭形平次のお上さんのように、仕事に出かける亭主に切り火をして送り出したり、祭礼で使ったりする人もいるので、昭和になってからも縁日で売れていたらしい。「おまいさん、気を付けていっといで!カチカチ」という風景は時代劇でも見なくなりましたなあ。

 

 墨田区は小さな町工場が軒を並べる「モノ作り」の街・・・近年はスカイツリーで名を馳せてはいるが、スカイツリーから1キロも離れれば昔ながらの下町の風景が広がり、そして町工場が今でも健在だ。

特に吉井本家の工場のある東向島は、明治の頃は文人墨客が多く住んでいたエリアであり、永井荷風の「墨東奇譚」の舞台でもあるので、何時かは訪れてみたかった街。

戦災で焼け野原となり区画整理がされたはずの現在も、迷宮のように細い路地が入り組んでいる。

遊興の街であった往時を偲ばる「しもた屋」風の小粋な家が残っていたり、路地を曲がれば「カタカタカタ」「トントントン」という家内制手工業のモノ作りの音が聞こえてくる。

手作業の音は心地よいが、かっては路地を歩けば三味線の音(ね)や長唄なんかも聴こえたんですよ、と牧内社長。

粋な街なのだ。

「火打ち石の使い方はね、こう!」牧内社長の滑舌は軽妙で歯切れが良くって、いかにも下町の町工場の親方という感じ。ザックバランと人情味が下町らしさで、貴重な話を沢山聞けた上にお土産まで頂いた。

 

南に下がって吾妻橋の方に戻れば、落語や時代劇に良く出てくる本所だ。

本所は鬼平犯科帳でお馴染みですな・・・「本所のテツ」というのが、鬼平こと長谷川平蔵の若い頃の綽名だった。

ブラブラ歩くだけで愉しい街が墨田区。

スカイツリーばかりが墨田区の魅力じゃないぜ!

 

 


夏休み自由研究の課題のご提案!・・・海の漂流物

2015年08月12日 07時38分37秒 | 民俗学ごっこ

石器作りや火打石作りなど、今年の夏は知人の子供達の自由研究課題の相談に乗っている。

糸魚川市は石材が豊富なので、石にスポットを当てると色んな遊びや研究課題ができるのだが、忘れて貰っちゃ困るのが海の存在!

海は泳いだり魚を釣ったりするだけが遊びじゃないぜ。

そこで海岸の漂着物の研究は如何?

「海のヒスイ・ロード」検証実験航海で訪れた男鹿半島には、ウクライナ、韓国、ベトナム、天津、台湾、福建省と、産地がバラバラなペットボトルが散乱!もちろん日本製が一番多かった。

 

去年の夏は「海のヒスイ・ロード」検証実験航海で、新潟から青森までのシーカヤック航海をしたが、休憩やテント泊などで上陸した際に、漂着物を観て歩くのも愉しみの一つだった。

今回の写真は、全てその時のもの。

新潟県寺泊で見つけた椰子の実。なんと新潟でも椰子の実が漂着する事があるのだ。何処からやって来たのだろう?何海里を旅してきたのだろう?貝殻や海藻が付着していないので比較的新しい??漂着物との対話が面白い。以下の写真は全て寺泊漁港のもの。

 

子供の頃から、そして今でも海岸に漂着した漂流物は私にとってお宝で、保育園の頃はオモチャ箱が拾ってきた戦利品で一杯になっていた事があった。

ピストルの形の流木、プラスチックのオモチャ、鳥や魚の骨、漁網の切れ端、浮き・・・大人にとってゴミでも、好奇心旺盛な子供にはお宝になる。

ある時、母から「茶の間に磯の匂いが漂ってきたので捨ててきなさいね。」と諭されて捨てることになるのだが・・・(笑)

新潟から青森の海岸まで分布していた「ダケカンバ」の樹皮。油を含んでおり、濡れていてもジュクジュクと黒い煙を出しながらよく燃えるので、山間地では樹皮を四角く切り採って筒状に巻いた物を「ガンビ」と呼び、、必要な分だけ切って薪ストーブ等の焚付けに使用する。山奥で作られて天日干ししてあったガンビが、大雨で海まで流されてきたものか、富山湾から東の日本海の海岸ではよく目にする。海に漂着したガンビでも油が抜けていないものもあり、海旅の焚火で活躍した。信州ではお盆の迎え火に使用されるので、8月になるとコンビニでも売っている。因みに結婚式の事を「華燭の典」と表現するが、華とは樺の事であり、樺の火は途中で消えず景気よく燃えるので縁起が良いという中国の故事に由来するという説もある。

コカコーラの1リットルガラス瓶。年代不詳ながら、ネットオークションで取引される昭和レトロ商品。幼馴染のKは、中学生の頃、毎日こいつを1リットル飲み干す事を日課にしていたっけ。

 

漂着物は無言のうちに物語りする。

何処から?何時の頃から?どんなモノ?・・・耳を澄ませば漂着物は実に多弁。

高校生の時には、糸魚川の海岸で17世紀頃の清朝の古銭「康熙通宝」を拾った事もある。

想像力と好奇心がなければただのゴミだが、私にとっては宝の山だ。


宮本常一の海は寂しい色ぢゃった・・・周防大島

2015年08月04日 20時48分28秒 | 民俗学ごっこ

広島に体験会講師として招かれる事になった時から、是非とも訪れたかったのが、お隣山口県にある周防大島である。

敬愛する民俗学者、宮本常一の出身地の島なのだ。

周防大島の漁港にへんな漁船発見・・・船首と船尾に取って付けたようなでっぱりがあり、インドネシアの丸木舟のような船型。一見して水の抵抗を減らすバルバスバウのようだが、喫水線より高い位置が出っ張っておる。波が静かでも潮の流れが激しい瀬戸内の海ぢゃけん、きっと網漁の時にきつい潮に船首を立てる意味があるのぢゃろう・・・宮本常一ゴッコ開始ぢゃ。

 

時間を作って訪問・・・緑多い島ぢゃった。(ぢゃった、というのは瀬戸内の方言ぢゃ)

この緑の深さは、宮本先生が子供の頃はどうであったのか?

島の老人の話だと、かっては段々畑や田んぼであったそうだが、戦後は蜜柑栽培が奨励されて島中で蜜柑を作っていたのだそう。

ところが過剰供給と作り手の高齢化もあって、現在では耕作放棄地となり、雑草が蜜柑畑を覆い尽くしているのだとか。

宮本先生生家前の島。島の島ぢゃからシマシマというのぢゃ・・・ウソぢゃ。瀬戸内は岩も石も砂もみんな花崗岩由来らしく明るいベージュに彩られ、緑と澄んだ海水のコントラストが絵に描いたように美しい・・・が、しかし!

 

資料館で宮本先生の愛用品を観た・・・感慨無量ぢゃ。

先生の生家付近の海に潜った・・・きっと宮本少年もこの海に潜ったのぢゃろう・・・わしらは浜っこ同志ぢゃから海に潜るのは礼儀ぢゃ。

潜ったら牡蠣ばかりでびっくらこいた。魚はフグとシマアジくらいで、牡蠣の海ぢゃった。沖には養殖牡蠣の筏が浮かんでおるが、稚貝が流れて自生したもんぢゃろうか??

 

澄んだ海水・・・しかしながら魚も海藻もイソギンチャクやウニもいない牡蠣だけの海・・・宮本先生の子供時代には絶対無かった海中風景ぢゃろうて。

恐らくは狭い瀬戸内で大規模に牡蠣養殖なんかしたもんだから、生態系が牡蠣ばかりの単一になっちまったんぢゃろう・・・哀しい風景ぢゃ。

山も荒れて、海も荒れた・・・これからどうなるんぢゃ?

 

おっと、感傷的になっとらんと、周防大島では忘れてはならん出来事があった!

漁協の売店を覗いたら(意外に面白いモノが売っているのぢゃ)、事務の女性のお嬢さんが糸魚川市に嫁いでいるとの事・・・聞くとワシの住む寺町にある田原塗料店!

けんか祭りも観に来た事があるそうぢゃ。手に持っているのは漁師さん御用達のサロペットタイプのカッパズボン。広島から案内してくれた武村さんをそそのかして買わせたのぢゃ。丈夫なので山仕事や草刈り機を使用する時に重宝するのぢゃ。

お土産に漁協のタオル貰ったケン。

ごっちゃんです!

 

 

 

 


神明造の源流はラオス?長者ケ原遺跡に最古の棟持ち柱?

2015年05月21日 21時20分33秒 | 民俗学ごっこ

糸魚川市には二つも国指定の縄文遺跡がある。

長者ケ原遺跡と寺地遺跡であり、どちらもヒスイ加工遺構を持つ遺跡で、これは国内唯一の宝石質ヒスイを産出する糸魚川ならではのお国自慢。

毎月のように何人ものお客さんを遺跡に案内するが、長者ケ原遺跡は世界最古のヒスイ加工遺構を持つ遺跡(厳密には違うのだが)というばかりでなく、非常に特異な遺跡でもあるので今回はそのご案内。

例えば棟持ち柱を持つ掘立て柱建物の存在である。

長者ケ原遺跡の掘立柱建物。地面が掘り下げられた円形の竪穴住居と違い、地面は平らで四角い建物。中央の柱が棟持ち柱。豪雪地帯特有の建物遺構なので、冬期間の共同作業場や集会所とも考えられているが、周囲に林立する細長い石は土壙墓なのでマツリに関係した建物とも推測されている。

 

棟持ち柱とは、伊勢神宮に代表される神明造(しんめいつくり)の神社に代表される、建物の妻側中央部で屋根の棟を支える柱の事である。

神明造の神社の特徴は、「棟持ち柱を持つ・掘立て柱・切妻屋根・屋根の上に千木(ちぎ)と鰹木を持つ・屋根材が板葺・平入り・直線的な構造」などで、長者ケ原遺跡の掘立柱建物は、棟持ち柱と掘立て柱、平入りである三点が共通項なのだが、問題なのは棟持ち柱の存在。

私が知る限り、国内では長者ケ原遺跡が最古級の棟持ち柱ではないだろうか?

もっとも棟持ち柱を持つ四角い建物とされる根拠は発掘した時の柱痕の孔だけなので、縄文時代当時の姿は単に六角形の建物だったりして(笑)

 

この柱は力学的にも建物を建てる作業上も無くても良い柱で、象徴的な柱だと考えられているのだ。

上棟式に観られるように、日本では建物に命が吹き込まれるのは屋根の基礎である棟木が据えられた時。

その棟木を支える柱が棟持ち柱・・・柱とは諏訪の御柱に代表されるように神の憑代だ。

そしてハシとは、端と端を繋ぐモノ・・・橋は陸地を繋ぎ、箸は食べ物と人を繋ぎ、柱はカミが降りてくるモノ、という事らしいぞ・・・。

ラオスの山岳地帯の村では、穀物蔵が申し訳程度の棟持ち柱を持つ掘立柱の高床式が多く、破風(はふ・屋根の妻側の端っこにある風に対する補強材)の所で交差する千木まであった。神明造が穀物蔵をルーツに持つとされる由縁。

 

六年前のUターン帰郷の前に、東南アジアを三ケ月間旅をしたら、北部ラオスの山岳地帯の村で驚きの光景を沢山見た。

鳥居はあるわ、棟持ち柱があるわ、日本独特の文化と思い込んでいたものがあったのだ。

村の境や家の前には祠があったが、棟持ち柱モドキが!この構造上不必要で、取って付けたような棟持ち柱という所が象徴という意味を際立たせているのではないだろうか?

破風が千木で止まるのは、神明造の特徴!注目して欲しいのは、千木の端が垂直と水平の二種類で切り揃えられている事で、神明造の神社では垂直が男神、水平が女神を祀られているのだ。ラオスでもそうなのか?聞きたくてもド田舎なので英語が通じません!

これでもか!という位に申し訳程度の棟持ち柱(笑)

 

カンボジアには、沢庵も納豆もあった。

日本文化の源流の一つが「照葉樹林帯」とされるネパールから東南アジアにある事は確かだが、五千年も前の長者ケ原遺跡の棟持ち柱との関係を知りたいもんである。

どっちが古いのだ?!


図解「熱気球大解剖」・・・タイのコムローイ

2015年03月03日 09時24分51秒 | 民俗学ごっこ

柏崎市高柳町は、「かどえで和紙」の産地。

旧正月のイベントで、地域特産品の「かどえで和紙」で熱気球を作ったら、半分くらいしか飛んでくれなかったと現地の友人から聞いた。

実物を観たことのない人が試行錯誤で作ったそうだから、今回はタイではコムローイと呼ばれる熱気球を大解剖!

俺はガイドブック無しで旅をするので、予備知識もなく夜空に1個だけコムローイが飛んでいるのを観た時はUFOかと思った。

現地の人に聞いたら、タイではローイクラトーンという春節の祭りで飛ばす習俗があるのだけど、時期になると雑貨屋さんでコムローイが売られるので、祭りとは無関係に遊びで飛ばす事もあるそうだ。

1個だけ飛んでいるとUFOですな。

 

実際のロイクラトーンでは何千個も同時に飛ばすので非常に幻想的なのだけど、時期が合わなくて撮影できなかった。

調べたら、同様な熱気球は諸葛孔明が司馬仲達の軍勢に包囲された時に、助勢を求める合図に使った故事から、中国では「孔明灯」「天灯」と呼ばれ、英語では「チャイニーズ・ランタン」と呼ばれているのだそう。

本来は精霊流しのような意味合いがあったようだ。

折よくチェンマイで、ラーマ9世国王の誕生日祝祭イベントで、お寺でコムローイを飛ばしている場面に遭遇した。

 

コムローイは、下端を針金で輪っかになった袋状の和紙で袋状になっており、熱源は針金で吊るしたドーナツ状の固形燃料だった。

最初にコムローイを広げて、空気を入れて形を整える。それから着火。

その気になりさえすれば、百均で全部道具が揃う簡単な構造。

着火すると、ものの数秒でコムローイが自立して浮いてくる。

燃料の燃焼時間は10分くらいなので、燃え尽きると自然落下するが、稀に和紙に火が移って落下した熱気球で火事が起こることもあるそうだ。

最初はお坊さんが飛ばしていたが、最後のほうになると見物客にも着火させてくれたので、俺も飛ばさせて貰った。

着火した後の浮力は相当に強よく、しっかり持っていないとすぐに浮き上がるので、注意が必要。

 

高柳町は、糸魚川市から車で2時間以上もかかる中越地方だけども、糸魚川と同様に黒姫山が鎮座する地区。

奴奈川姫の信仰もあるから、彼らも奴奈川族の末裔に違いない。

つまり俺とは先祖が同じだから他人事には思えないし、「海のヒスイ・ロード」航海を機会に縁も出来た。

来年こそは夜空一面に熱気球の華を咲かせて欲しいもんだ。

ガンバレ~、高柳!

 

 

 

 


水戸黄門の真実!・・・本当は越後の縮問屋?

2014年12月25日 23時02分56秒 | 民俗学ごっこ

 

「雪に糸となし、雪中に織り、雪中に洒ぎ、雪上に曝す、

雪ありて縮あり、雪と人と気力相半して名産の名あり、

魚沼郡の雪は縮の親といふべし」

 

何度読んでも名文だと感心するのは、江戸時代中期のベストセラー「北越雪譜」(ホクエツセップ)である。

著者は現在の新潟県南魚沼市塩沢の縮問屋の隠居だった鈴木牧之(スズキボクシ)。

「鈴木牧之記念館」の牧之坐像。

 

当時の商人の旦那衆といえば算盤勘定だけではなく、花鳥風月に通じる風流人であり、書画や詩歌に長けた文化人が多かった。

芭蕉や一茶などの俳人が、旅に出られたのも彼らを庇護した牧之のような旦那衆が各地にいたればこそ。

そんな旦那衆の中でも牧之は画才と文才が跳びぬけた上に好奇心旺盛だったようで、主に中越地方の雪国の暮らしや伝聞を書き残して出版されたのが北越雪譜である。

牧之が北越雪譜に描き残した雪の結晶。虫眼鏡で観察したらしいが、知的好奇心が旺盛で幾何学にも通じて抜群に絵が上手かった事が解る。

鈴木牧之記念館を訪れた十二月の南魚沼は、一晩で70㎝の雪が降った。

 

北越雪譜は現在人が読んでも面白い・・・まるでお伽話のようだ。

例えば得体の知れない雪男?に焼き飯をあげたお礼に荷物を運んで貰った話や、雪山で沢に落ちた男が冬眠中の熊に助けられた話等々。

 

今時のテレビ番組ならお笑いタレントに茶化されて終わってしまうような内容でも、著者の牧之や当時の読者達は、そんな馬鹿な話があるもんか!と一笑しないどころか、それら伝聞や逸話を「世の中には不思議な事もあるもんだ」と素直に受け入れている態度が素晴らしい。

こういった態度こそ文化的だろう。

ましてや牧之の温かい眼差しに加えて、踊るような名文であるから何度読んでも面白い。

 

さて、水戸黄門問題である。

諸国漫遊する「越後の縮緬問屋の隠居」は水戸黄門の世を忍ぶ仮の姿で、本当は先の副将軍、水戸光圀公であらされる。

しかし、果たして越後のどこに縮緬問屋があるのだ?と子供の頃から疑問に思っていたのだ。

縮緬といえば京都の丹後縮緬が有名なんだが・・・。

調べてみたら、現在は上越市となった越後高田は江戸時代の縮緬産地だったようなので、水戸黄門の身分詐称(笑)はあながち間違いではないようだ。

 

しかしわざわざ「越後の・・・」と偽っているのだから、高田縮緬よりもっとメジャーな越後上布と小千谷縮のほうが通りはいいように思うのである。

越後上布は上杉謙信の重要な貿易品で、佐渡の金山と並ぶ軍資金の財源だったくらいだから、室町時代からの高級ブランド品。

老婆心ながら、縮緬問屋より縮問屋か上布問屋のほうがリアリティがあるのではないだろうか????

 

高田と言えば初代藩主は、徳川家康の六男にして伊達正宗の娘婿の松平忠輝だ。

松平忠輝は家康から冷遇されて、若くして改易されて幽閉の身となった不遇の大名。

忠輝と水戸光圀は同時代に生きていたので、「越後の縮緬問屋」というのは忠輝関連の深い意味が隠されているのだろうか?

 

牧之は縮問屋の旦那だから、商いで江戸に出向く度に江戸の文化人たちと交流を深めていったようだが、隠居した後には商売抜きで長野県と新潟県の境にある秋山郷を探訪しており、後に「秋山紀行」を書き残している。

諸国漫遊の縮問屋の隠居が実在しているので、こっちのほうがリアリティーがあるのでは?というのが俺の水戸黄門問題である。

鈴木牧之記念館の近くに「塩沢つむぎ記念館」に寄った時に、長年の胸の閊えに溜飲が降りた・・・大袈裟な(笑)

塩沢つむぎ記念館の二階では、イザり機の実演もしている。越後上布は国指定民俗無形文化財なので、昔ながらのイザリ機で織る事の他に芋麻(チョマ・イラクサ科の麻の一種・ラミー)を手うみした糸を使用するなど様々な決め事を守らなければならないのである。ただし、実演用はデリケートで高価な国産手うみの芋麻ではなく、工業製品の輸入ラミーを使用しているとの事。

 

塩沢つむぎ記念館の館長に水戸黄門問題を尋ねたら、「水戸黄門は、脚本家が縮問屋を間違えて縮緬問屋っていってるんですよう!」と笑っていた。

ただ本当に脚本家が間違えたのか?

それともチヂミよりチリメンのほうがゴロがいいので間違いを承知で縮緬問屋としたのか?

もしくは訳ありの高田縮緬の問屋という設定であったのか?

以上三つの内のどれが真実なのかは不明なままだ。

ネット検索したら、江戸市中には「越後屋」・・・三越の前身ですな・・・という屋号が多く、耳馴染が良い事や、実際に水戸光圀は越後縮緬を愛用していたからという説もあった。

どうする水戸黄門問題・・・誰か教えて!

 

 

 

 

 

 

 

 

 


真脇遺跡探訪記・・・「海のヒスイ・ロード」西周り航路

2014年11月12日 08時03分19秒 | 民俗学ごっこ

晩秋の能登を訪れた。

Pb071111

山の紅葉ではなく、海辺の納屋に絡み付いた紅葉写真を撮るのが俺流(笑)


能登には真脇遺跡というヒスイ出土地があるのだ。
個人的には「海のヒスイ・ロード」西周り航路の前線基地的な遺跡ではないかと考えている。
Dsc_1506
真脇の出土品。人形ペンダントは糸魚川産の蛇紋岩かネフライト、それとも透閃石?・・・暗い室内のガラス越しでは何とも言えないけど、角閃石類に見える。

Dsc_1508
この石棒も、長者ケ原遺跡出土品に似ている。男鹿半島の大畑台遺跡からも、そっくりな石棒が出土している。


真脇遺跡は低湿地のために木製品の保存状態が良く、金沢のチカモリ遺跡と並んでウッドサークルも出土している。

Dsc_1514
ウッドサークルには玄関のように開いた場所があって、コンパスで確認したら南に開いていた。
Dsc_1516
金沢市のチカモリ遺跡でウッドサークルの玄関?を確認した時には、霊峰白山の方向に開いていたようだが、真脇の場合は海に開かれているようだ。

海からのマレビトか、祖霊を迎え入れる為の玄関なのだろうか?
それともアイヌの熊送りの儀礼のような意味があるのか?

真脇遺跡からはイルカの骨が大量に出土しており、頭骨や石槍が突き刺さったものもあるので、どうやらイルカを喰っていたらしい。
してみるとイルカ送りの遺構なのかもしれない。


能登には大小の入り江や島が点在しており、富山湾側は波もなくとても静か。
静かな入り江と沢山の島、なだらかな山容を持つ能登半島は、どこか女性的な優しさがあるし、海の幸山の幸に恵まれた見るからに縄文人が住んでいそうな土地だ。

同じ日本海側の半島でも、外海のような波が押し寄せて険しい断崖が続く男性的な男鹿半島とは対照的な風景である。

Pb071104
ある入り江では、季節外れのイルカの群れが飛び跳ねていた。
静かな入り江と大小の島・・・縄文人居住地に最適な土地は、アウトドア遊びに最適なフィールドでもある。


Dsc_1517
能登の海岸には、能登瓦の欠片が落ちている。
北陸地方の瓦と言えば、珠洲地方で作っていた艶光する黒い能登瓦だ。
残念ながら最近になって廃業してしまったらしい。

Dsc_1531

能登名物の見附島の別名は軍艦島。
綺麗な黄色い岩肌の正体は珪藻土で、能登半島には珪藻土が露頭した綺麗な島が沢山ある。
能登の地場産業のひとつ、七輪コンロも珪藻土が原料だ。

Dsc_1573
能登の鎮守は気多大社の
拝殿裏の「入らずの森」の結界には、珍しい黒木鳥居があった。

樹皮が付いたままの丸太が黒木、樹皮を?いた丸太は白木ですな。


出雲族の北陸前線基地だったのでは?と考えております。
もしや出雲に拉致された奴奈川姫様がお住まいになっていたのでは???
根拠はないけど、そう思うのだ・・・。

Dsc_1575
千里浜海岸は、観光バスも走れる砂浜。真冬は有名なサーフポイント。
糸魚川から日帰りできる有名なデートスポットでもある・・・懐かしい(笑)


能登を周っていたら、「海のヒスイ・ロード」西周り実験航海がしたくなってきた。
能登までなら糸魚川から近いので、友達と遊びながら・・・。