縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

答えはあなたのなかにある!・・・石皿と竪穴住居の屋根の謎

2023年08月31日 08時11分39秒 | 縄文
長者ヶ原遺跡で石皿でコーヒー豆を擂り潰してもらう「縄文コーヒー」は、木の実をコーヒー豆に置き換えた縄文体験。
出土品の石皿は縦長の溝状にすり減らしてあるので手の運動方向は縦方向と思われ、わたしは摺り石を前後動に転がしてコーヒー豆粗く潰してから、前後方向に動かして粉砕している。
ところが体験者の多くは石皿の溝の方向とは無関係に、手にもった摺り石をこねくりまわす回転運動で粉砕するではないか・・・ムムム。
 
正解は縄文人しか知らないので好きにさせているが、個人的に回転方向は作業効率は悪いとは思うけどw。
2年ほど前に体験学習棟と向い合せの木陰に高床式のテラスができて以来、みなさんここで寛ぎたがるようになった。
本当は近代建築の黄色い体験学習棟のほうが風通しがよくて涼しいのだが、木陰と高床のテラスの方が魅力的なようだ。
 
確かにここで車座になって食事したりコーヒーを飲んだりすると、東南アジアの民家に招かれた時の感覚が蘇る。
 
最近は竪穴住居の屋根は茅葺ではなく、壁と屋根は土で覆っていたとする説が有力になってきた。しかしそれでは風通しが悪すぎるから、夏はツリーハウスに住んでいたのでは?という説も昔からあった。もちろん地域性や時代によっても多様性はあったと思う。
 
ちなみに戦前の樺太アイヌには、冬は土で覆われたトイチセ(土の家)で過ごし、夏は樹皮で壁と屋根を葺いたサㇵチセ(夏の家)で過ごす民俗例はある。
 
これも正解は縄文人しか知らない。だから高床式のテラスで過ごしてもらって、各自が感じてもらう。
 
わたしは何か質問されても「です・ます」と断言することに慎重ないのはこのためで、考古学の知見と民俗例、それに自分の体験談を紹介して、「であるからして、わたしはこう思う」と答えるにとどめている。
 
あなたはどう感じますか?そうです、答えはあなたの中にあるのです!これはブルース・リー先生から学んだわたしの流儀w
 
 
 
 

 


超簡単な縄文土器料理の作り方・・・長者ヶ原遺跡で縄文体験会

2023年08月29日 07時32分11秒 | 縄文
縄文鍋は調味料なしで、素材のうまみを引き出す!
なにより最初に土器に水を満たしておくのが私流。使用時は20年ほど前につくった5,000年前の多摩丘陵の遺跡から出土した勝坂式土器の複製。
 
①コーヒーのペーパードリップと同じ理由で、土器に水を満たして10分ほど吸水させておく。
②その間に焚火をおこし、吸水した土器の三分目くらいまで水をいれて干しシイタケとジャコで出汁をとっておく
土器を熾火で囲こむ前の状態。炭上になった薪を土器に寄せていく。
 
③土器に水と具材をいて、周りを熾火で囲んで20分もすれば沸騰するので弱火に
④10分ほどコトコト煮込んで完成!不安定な土器なので100均で買った植木鉢スタンドで転倒防止。次回は耐火煉瓦の上に乗せようとおもう。
わたしは民俗例から具材は保存の意味から乾物も多用していたと考えているが、乾物はいい出汁がでるメリットがあり、薄味なのに濃厚な味わいとお代わりする人もいて、これは縄文土器料理歴20年の研究成果w
今回は箸休めに干物のホタルイカ・エビ・アンコウの肝を軽く炙ったら、こちらも好評。購入先は伝兵衛水産!
 
ちなみに10人前の縄文料理で総額5,000円ほどの経費。使用燃料は用意した野菜コンテナ一杯分の薪が半分ちかく余った。製作時間は焚火開始から1時間弱。
 
ある縄文イベントでコーディネーターを頼まれて、本物志向でなくても、子供に貫頭衣を着せて豚汁を食わせ、誰でもできるマイキリ式発火法をさせれば充分では?と言われたことがある。なんどでも書くが、原始技術研究家の関根秀樹先生の研究によるとマイキリ式発火法は200年ほど前に発明されたらしいので、縄文遺跡の体験会には相応しくない。
 
わたしは内実のないことはしたくないので、子供だましの縄文イベントなら出る幕はないので降りますと言ったら慰留されてコトなきを得たが、子供相手だからと疑似体験でお茶を濁しては学びにならないと思う。
 
子供だからこそ誠実に本物を体験させたいのですわ。たとえ不評だったり失敗しても成果として評価して次に繋げればいい。
 
それにしても縄文とは名ばかりの縄文イベントに呼ばれると居場所がなくて困る。孤独だw
 
 
 

糸魚川イチオシの夕焼けポイント・・・親不知観光ホテル裏の展望台

2023年08月26日 08時25分54秒 | 糸魚川自慢

ガイドする時は日没に合わせ、時々刻々とうつりゆく天体ショーを堪能してもらっている。

ガイドのルートによって夕焼け鑑賞のポイントは様々だが、標高90mの断崖にある親不知観光ホテル裏の展望台は絶景ポイントで、案内すると誰もが「うわぁ~!」と声をあげる。

この展望台は真夏でも涼しく、春には断崖に咲いた山桜が彩を添える。
もちろん都落ちしたやんごとなき人々や、「承久の乱」の戦場であったこと、参勤交代のルートであったことなどの「ヒトと風景の物語り」も大事な要素。
運がよければイルカやUFOも目撃できるかもw
理想的には夕方5時くらいの明るい海から、日没後の残照まで二時間を見せたいのだが、親不知観光ホテルのチェックインのタイムリミットが6時半なので、空と海が真っ赤に染まる残照まで見せることができないのがちょっ残念。
 
親不知観光ホテルは昭和の匂いのする古いホテルだけど、そのぶんは宿泊料金の割に食事が豪華で、地元の海産物がわんさと出て来る。
 
 
 

縄文人はなにを食ってた?・・・長者ヶ原遺跡で縄文鍋

2023年08月24日 07時02分54秒 | 縄文
縄文ツアーのガイドをするので、ギャラリーに土器コーナーと石器コーナーをつくった。
今回の縄文鍋の食材は、暑さ対策もあって乾物と缶詰めが中心で、生ものはナメコだけ。
タケノコ類は根曲がり竹のような細いタイプなら縄文時代にあったらしい。ちなみに真竹は奈良時代、孟宗竹は江戸時代などが本州に入ってきた。魚貝類や動物の肉は新鮮な時には焼いたり煮たりしてくっただろうが、大部分は燻製や干物にして食っていたと思う。戦後に南方のジャングルに潜んでいた日本兵の手記には、そんな苦労が書かれている。
 
縄文時代の製塩は晩期からだし貴重品であったと思われ、長者ヶ原遺跡の最盛期の前期~中期の塩分は食材由来の薄味ではなかっただろうか。
 
干し椎茸とナメコ、イリコと貝柱などをうまみ成分にして、味わってもらった後に各自が塩や醤油で好みの味にしてもらうのが私流の縄文鍋。
手のひらサイズの完形土器は、亡くなった好事家のコレクションが捨てられそうになっていた現場に居合わせて救出した本物で、専門家に観てもらったら青森の十腰内式ではなかろうか?とのこと。もったいないねぇ。
実用品にしては小さすぎるので、祭壇用の土器ではないかな?
 
 
 

 


「お国のため」に始めた戦争の最後の作戦が「在留邦人をまもるため」・・・4万人の邦人を救った根本博中将

2023年08月20日 06時24分29秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
ソ連軍から4万人の居留民をすくった根本博中将をいまいちど紹介したい。
昭和史の本は子供のころから読みつづけていたのに、古本屋でこの本を見つけるまで根本中将のことは知らなかったのデス。
 
おそらく日本軍はじまって以来の出来事がおこった。
 
将兵は「お国のため」ではなく「同朋を守るため」に戦ったのである。
 
むろん特攻隊員のように個人的には「家族や故郷を守るため」と心の支えにした将兵もいたのだが、全軍が「無辜の同朋を守るため」と一致団結した作戦は空前絶後ではないか?
 
ひとえに根本が「ソ連軍から居留民を逃がすため」と作戦目的を明確・簡潔にしたことが、この奇跡の起爆剤となったのだと思う。目的も終りもみえない戦いでは士気は揚がらない。
 
根本が身命をかえりみず武装放棄を拒否した話しは、瞬く間に全将兵に伝わり士気はおおいにあがった。死地にある時、リーダーの覚悟や人となりは重要で、まさに「勇将の下に弱卒なし」の見本といえる。
 
張家口の市街地の外に構築した通称「日の丸陣地」を守備する召集兵が、「家族を逃がすために」と奮戦したと以前に書いたが、今回は最前線でソ連軍機甲師団を迎撃し、殿軍となって居留民に見落としがないかの確認までした戦車中隊を紹介したい。
日本軍の「九七式中戦車チハ」では装甲が薄く大砲は小口径だから、まともな戦車戦ではソ連軍に対抗できない。しかも日本軍25両ほどの戦車に対して、ソ連軍戦車は湧いて出てくるように陸続と集結してくる。
 
起山戦車隊長はどう戦ったのか?狭隘な山間地で待ち伏せして、至近距離から攻撃したのだ。
 
ソ連軍の足止めに成功した戦車隊は、居留民が避難した後の張家口の市街地を「日本人は残ってないか!」と叫びながら走り回ったそうだが、この部分を読むたびに涙があふれてくる。
 
沖縄戦でガマ(鍾乳洞)に避難していた民間人を追い出したり、自決を強要した部隊もあったなか、根本指揮下の職業軍人たちは民間人を守ることに徹していた。
 
この違いは作戦立案者の見識の違いだと思う。沖縄戦では「国体護持」、つまりは天皇制維持のために米軍に痛撃を与えて、和平交渉を有利にする狙いがあり、作戦立案者は戦地の実情を知らず、机上で作戦を練っていた大本営参謀本部。
 
対して根本中将はソ連軍の矢面にたつ前線の司令官だし、「軍人たるものは陛下の臣民を守るのが忠義」という考えであったのだろう。
根本在任中の司令官公邸は誰にでも門戸を開いていたから、現地人も遊びに来て酒を酌み交わした。占領下の中国人だからと見下す人物ではなく、公平で人間愛に溢れるスケールのおおきい人物であった。
 
だからこそかっての敵軍であっても、蔣介石は根本の要求を受け入れて在留邦人の帰国を助けもしたし、中華人民共和国との戦いで根本を参謀として招聘した。
蔣介石は独裁者と批判もあるが、日中戦争時の蔣介石は武力に勝る日本軍を広大な中国奥地に引き込み伸びた補給線を攻撃する戦法に出て、持久戦に持ち込んだ。日本軍を疲弊させると同時に、モンロー主義をとり第二次世界大戦参戦を渋るアメリカからの支援と参戦を促す目的もあり、世界に向けたプロパガンダも巧かった。
 
 
「お国のため」にはじめた15年戦争(満州事変から太平洋戦争まで)の最後の作戦が、軍功とは無縁な「同朋を守るため」であったこと、敵将から助けられたこと、これは救いではないだろうか。
 
 
 

 


8月15日は終戦にあらず・・・40万人の邦人を守るために武装解除しなかった根本博中将の見識と功績

2023年08月16日 07時50分21秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
8月15日は「終戦記念の日」とされているが、1945年時点で日本の政治家や高級軍人も戦争は終わったと「誤認」していた。
 
しかし15日は玉音放送ポツダム宣言受諾を表明した日に過ぎず、国際法上の終戦は9月2日の調印式からだから、8月15日以降の外地では戦闘が続いており、8月15日は終戦に非ず、無条件降伏を表明した日なのである。
 
8月16日に武装解除の大命が下り、満州の関東軍は素直に従ったことから、ソ連軍による居留民への強姦略奪やシベリア抑留、残留孤児の悲劇が生まれた。
いまいちど内蒙古方面軍司令官の根本中将の功績に触れてみたい。
 
根本中将が武装解除の大命に従わなかったのは、法的に終戦となっていない段階で丸腰になると、ソ連軍から無辜の居留民と将兵を守れず、たとえ法的に終戦であってもソ連軍相手にに国際法や人道主義は通用しないと認識していたからで、この点の理解は日本の政治家以上であった。
 
その立場を肚を割って国民党軍の蒋介石と交渉し、帰国船が出航までは武装解除しないこと、その後に武器弾薬・食料を国民党軍に引き渡す約束を取りまとめた。
 
だから北京から列車にのり、大連から帰国船に乗った在留邦人たちは、三度の食事が与えられた「大名旅行」だったと証言しているので、対外交渉を見事にこなし、列車や食事の手配も行き届いた優れた軍政家だったことがわかる。
 
根本中将の独断専行は、抗命罪に問われる極刑の対象になる。
 
しかしその理由が「たとえわが身は刑場の露となろうが、陛下の臣民を無事に帰国させるため」となれば、誰もが拍手喝采するだろう。
 
将兵を含めたら40万人を早期帰国させた功績はもっと評価されるべきだ。
 
民間人を戦争に巻き込んだサイパンや沖縄戦の軍司令官が根本中将であったなら、どうだったのだろう?現在の日本の防衛問題につき、所見を聞いてみたいものだ。
 
 
 
 

海岸に漂着している筒状の物体の正体は?!・・・お盆の迎え火・送り火のダケカンバの樹皮

2023年08月15日 06時54分10秒 | 民俗学ごっこ
日本海に漂着している筒状の物体の正体は、長野県白馬村あたりで、お盆の迎え火・送り火の時に燃やすダケカンバ(岳樺)の樹皮。
左端が購入品で他は漂着品。
お盆時期に白馬村のコンビニで売られて正体がわかったのが20年ほど前だが、ある漂着物図鑑には漁具の浮木であり、シラカバの樹皮であるとデタラメが書いてあったぞw。
柏崎市立博物館発行の「渚モノがたり」より。考古学もそうだが、意外に専門家はいい加減なので鵜呑みにしてはいけないw
 
 
色が抜けて白くなった漂着ダケカンバでも、黒い煙を出しながらよく燃えるから、シーカヤック旅の時に焚き付けにしていた。乳香を燃やした時のような香りがする。
購入品と漂着品の燃焼比較をしたらほとんど差はなく、小指ほどにカットした樹皮でも3分程度は燃え続けた。
 
「海のヒスイロード検証実験航海」で青森市までシーカヤック航海をした時は、糸魚川~青森の十三湖くらいまで確認できたのだが、白馬村だけの盆行事にしては量が多すぎるのではないか?
 
日本海に流れてくる理由は、お盆のあとの北信濃では、あまったダケカンバを穢れとして川に流しているのではないか?と推測しているが、富山湾内の対馬海流は時計回りの支流があるので、ひょっとしたら能登あたりまで漂着しているかも?
 
バリ島では椰子の実の外皮を燃やして迎え火・送り火をしていたので、ことによると仏教伝来以前からある環太平洋地域の祖霊崇拝の儀式ではなかろうか?
 
それならアイヌや沖縄はどうなのだ??と友人に聞いてまわっている。
 
これまでの聞き取り調査の結果は、浄土真宗は迎え火・送り火の風習はなく、地域や宗派によって藁や苧殻(麻の茎)を燃やしているようだ。
情報を求む!なんでも教えてちょうだい!
 
 
 
 
 

ソ連軍から居留民を守り抜いた将軍・・・「四万人の邦人を救った将軍」群司令官根本博の深謀

2023年08月13日 13時58分03秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画

卓越した戦略と戦術で、終戦の混乱のなか、負け戦に「勝った」稀有な軍人がいた。

寡黙なことから昼行燈とあだ名をつけられた、内モンゴル駐留部隊司令官の根本博中将である。
 
①早い段階でソ連侵攻を予測し、国境付近の居留民を安全圏に避難させた
②2,000名規模の守備隊で10倍以上のソ連軍を足止め
③その間に4万人の居留民を汽車で逃がして早期帰国を実現
④以上を実現するために蔣介石の国民党軍と交渉した
 
根元は「居留民を逃がすまで戦う」という明快な作戦指導をしたため、現地召集の老兵ばかりの守備隊は「お国のため」ではなく「家族を逃がすため」に奮戦した。
 
またポツダム宣言受諾後の武装解除命に従わず、一切の責任は自分が負うと明言し、居留民と将兵の帰国まで防備を固め続けたので、この方面ではソ連軍の乱暴狼藉とシベリア抑留はなく、将兵を含めた40万人の邦人が帰国できたのだが、まるで映画「独立愚連隊」を地で行くような活躍だ。
 
根本の活躍は戦後も続く。
 
蒋介石の信認が篤かった根本は、中華人民共和国の侵攻から台湾を守るための作戦指導を要請され、邦人40万人の帰国を助けてくれた蒋介石への恩義から、違法を承知で台湾に密航する。
 
世にいう「金門島の決戦」で寡兵で大軍を撃破し、中華人民共和国の台湾進攻は頓挫した。これは根元の作戦指導の賜物。
 
ただし根本は非公式の立場なので、台湾人でもその存在を知る人は少ないらしい。
 
勲章が欲しいために「悠久の大義のためなら命は鴻毛のごとく軽し」と将兵を死に追いやった高級軍人が多かったなか、根元は際立って人道主義的だし、戦上手なうえに軍政家としても立派だった。
 
歴史に埋もれさせるには惜しい偉い人。
 
 
 

政治団体の圧力に屈した広島市教育委員会・・・「はだしのゲン」の削除問題

2023年08月12日 07時03分29秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
広島市が平和教育の教材につかっていた「はだしのゲン」が、現場教師の検討会議では現状維持であったのに、教育委員会の段階で日本会議からの「天皇を批判する場面が不適切」とする意見を忖度して削除されたのが真相!とNHKクローズアップ現代で報道していた。
行政が政治団体の圧力に屈するのは、戦前の翼賛政治の再来ではないか。言論統制はあらたな戦前の入口。
 
日露戦争以降に本格化する皇国史観や民族優位思想のプロパガンダは、大正時代までは一部の人の言説で、多くの日本人はノンポリだった。
 
それが昭和6年に「八紘一宇」を実現するために起こした満州事変から、世論が戦争に傾いて言論統制も本格化したが、「日本スゲェー!」「正義は我にあり」といった類いのSNS投稿を目にするにつけ、戦前へのきな臭さを感じる。
 
正義感に燃えるマジメな人々が、関東大震災で根拠もない「朝鮮人が井戸に毒をいれた!」とデマを信じて朝鮮人狩りをやったのだが、排他的な民族主義者が一致団結した時こそ危ない。マジメすぎると流言飛語を簡単に信じるのネ。
 
最近、やたらと「八紘一宇はすばらしい日本の文化」と戦前の皇国史観を持ち出して「統合」という言葉を使う人がいるが、「八紘一宇」は世界は家族という意味と誤解しているようで、本来は天皇を中心とした世界秩序という意味があることを知らないのだ。
 
アイヌも沖縄も在日朝鮮人も国籍は日本でも、文化はバラバラでいいの!「統合」しようとしないでちょうだい。
 
 
 

 


ヒスイだけが糸魚川の石じゃないぜ、されども・・・緑色岩

2023年08月09日 07時08分18秒 | ぬなかわヒスイ工房
勾玉探偵の夏の研究成果は、緑色岩が青碧玉の代替品になり得るという気付き。
緑色岩で管玉をつくったので、試みに赤メノウと組合せたら「緑と赤のエクスタシー」という言葉を思いついて、バラスのはもったいないので当面はギャラリーに飾っておくことにした。
ヒスイじゃなくても魅力的な勾玉つくりの研究は、ヒスイならではの魅力の再認識となったのであったが、やはり人々がヒスイに託した想い、すなわち「ヒトとヒスイの物語」は文化というものであって、希少鉱物の価値とは次元が違う。やっぱりネ。
ヒスイだけが糸魚川の石ぢゃないぜ!ヒスイこそ縄文以来の日本を代表する石だぜ!
 
数あるなかからヒスイを尊しと選んだ縄文人ってエライなぁと思う。その縄文人がオラたちの俺たちの先祖というのは誇りだぜ!