縄文人(見習い)の糸魚川発!

ヒスイの故郷、糸魚川のヒスイ職人が、縄文・整体・自然農法をライフワークに情報発信!

仏壇の救出作戦・・・能登半島地震被災地ボランティア・能登島編(その2)

2024年02月29日 08時07分25秒 | 災害サバイバル(地震・津波・水害)
漆器を掘りだしたKさんのいちばんの悩みは、いつ倒壊してもおかしくないほど傾いた自宅から仏壇を搬出し、新居が完成するまで車庫に保管することだった。NPO法人のボランティア団体に頼んだら、一目みて危険すぎるから屋内にはいることはできないと断られたらしい。
 
公的ボランティアが逃げる難問に挑むのが、私が属しているボランティアネットワーク「お手伝いJAPAN」の真骨頂だ。
 
仏壇の推定重量は200キロ内外だから、男手は最低4人必要だ。しかし檀家寺のご住職に聞いたら、仏壇は横にしても斜めにしても壊れるので水平移動しなさいとのこと。
 
となると仏壇と畳まで高さ5寸(15センチ)の段差があり、ここが一番の難所だ。
瓦礫の中から4寸角を探しだしてレールを設置し、毛布の上の仏壇を畳を滑らせる水平移動を計画して、瓦礫を撤去して車庫までのルートつくりと搬出のイメージトレーニングをする。
日曜日に遠隔地に住むご長男に来てもらい、ご住職のお参りの後に作戦決行。
 
玄関までは順調だったが、外に出てからがコンクリートなので滑らせることができず、持ち上げようとすると毛布が破れて水平移動が難しくなった。なんかアイデアはないかと周囲を見渡したら、瓦礫の中に田植えの時に苗や刈り取った稲を運ぶ「田舟」を発見して、即座に使えると判断。
慎重に「田舟」に乗せて引っ張ってみたら、簡単に動くではないか。
広いところまで「田舟」で引っ張り、最後は軽トラに乗せて車庫まで運びミッション成功。
Kさんの家は離農したから、「田舟」の最後の仕事だろう。
 
能登半島地震で多くの民具や文化財が、ゴミ扱いされて失われていくのは惜しいことだ。
仏壇を搬出した後の座敷はガランとして、家の傾きがいっそう目立った。まだ屋内から運びだしたい家財道具はあるのだが、危険だからもう入らないでくださいとお願い。
 
われわれボランティアの報酬は依頼者の笑顔。いちどやったらやめられない。
 
 
 

まだ生きてるぞ!と訴える柱時計・・・能登半島地震被災地ボランティア・能登島編(その1)

2024年02月28日 08時44分05秒 | 災害サバイバル(地震・津波・水害)
8年前の糸魚川大火ボランティアで知り合った南魚沼出身の友人の山崎一がSNSで、断水がつづいている能登島の給水ボランティア募集と投稿していたので手伝ってきた。
 
山崎の通称はいっつあんで、思うところがあって災害ボランティアに専念しているが、NPOにせずに個人ボランティアを必要に応じて募集する「お手伝いJAPAN」を運営している。NPOにすると義援金や助成金が人件費や事務経費に使われたりするし、規則が厳格になるので自由に動けなくなるから、あえて任意団体にしているのだ。
 
2月後半時点の現地入りはなんの規制もないが、ボランティアたるもの衣食住は自前の自己完結でなければならず、車中泊と自炊か、コンビニ弁当の食生活が原則になる。
 
富山から石川県にはいると損壊家屋が見えだし、能登島にはいった途端に道路が悪くなり、凸凹や片側通行止めも多くなった。
山道の県道をぬけて集落にはいると倒壊家屋が多くなる。悲惨な倒壊家屋の写真はインスタ映えするのだが、わたしは無闇に公開することは控えている。被災者の心情をおもんばかれば、見世物のように人前に晒すことはできなくなるからだ。
今回は能登島東部の鰀目(エノメ)で、いっつあんが自前で持ち込んだ給水タンクを積んだハイエースの給水と、車がなくてその恩恵を受けられない老人世帯への個々の配水が中心で、その活動のなかで被災者のニーズを掘り起こして対応するというもの。エノメ区長の許可をとって集会場の駐車場にハイエースの常駐と車中泊のベース基地にしてもらった。
 
定置網にブリが満杯になっても引き揚げる手段なくブリが腐っていくエノメ漁港に、正月の松飾がついたままの漁船が舫ってあった。ハングル文字が書かれたオレンジの浮きは糸魚川市にも漂着している。
 
給水ボランティアで拾い上げたニーズのひとつが、全壊したKさんのお手伝い。
奥の母屋や瓦礫の中から必要な生活物資や家財道具を搬出のお手伝い。
全壊認定をうけた母屋は傾いていて、ボランティアセンタ-から派遣されたNPO法人各のボランティアは一目で危険すぎると断った案件。全壊家屋であっても公費解体は7月以降に着工なので、当面の生活物資を出さないことには被災者は困るのだ。
Kさんの一番の悩みの種は、ご先祖が誂えた仏壇の搬出・・・推定重量200キロ!
K家の初代は明治期の村相撲の横綱。この方が仏壇や漆器などの家財を残したものであるらしい。
長押と仏壇のクリアランスは2センチほど。お寺さんに聞いたら横にしても斜めにしてもダメとのこと。最低は男が4人必要と算段する。
敷居は外れ柱は傾いているので公的ボランティアは逃げるわな。もっとも家の中まで入らずに外観だけで断られたそうだ。
 
壊れていると思った柱時計が時たまボーンボーンと鳴って、まだ生きてるてることを訴えている。
 
能登の被災地もまた生きている。
 

夢の中で死者と共に生きる被災者・・・朝日文庫「私の夢まで、会いにきてくれた 3・11亡き人とのそれから」

2024年02月20日 22時40分23秒 | 災害サバイバル(地震・津波・水害)
東日本大震災後の東北で、不思議な体験をする人が続出したドキュメント「魂でいいからそばにいて」を2年ほど前に紹介したら、多くの人が読んでくれたようだ。
読んだ人も友達に紹介してくれているようだ。
本書は東北学院大学の学生たちが、夢の中で死者に慰められている遺族に聞き取り調査してまとめた、「私の夢まで、会いにきてくれた 3・11亡き人とのそれから」も心に染みる本。
 
心霊体験の検証や、夢の心理分析などどうでもいい。
 
大事なのは家族を失って憔悴する遺族に対し、これらの体験がどれだけ生きるチカラを与えているかという事実。もう会えないとおもっていたら夢の中で会えた・・・自分の中で共に生きていると実感しているのだ。
 
津波に飲まれ、泥だらけになってみつかった少女の母親は、水がないので顔を舐めて清めた逸話に涙した。
 
避難した自宅の二階に津波が迫ってきて、「最後の一服をつきあえ」と娘婿にタバコをすすめ、「いやぁ、俺の人生、好き勝手やらせてもたったから楽しかった・・・」とつぶやき、奇跡的に助かった老人の逸話に、突然迫った死を受容できる心境に驚いた。
 
わたしもオヤジを亡くしてから、生きている時より身近に感じるようになった。よく殴られたけど、優しさばかりが思い出されて、懸命に生きていたナとシミジミ思う。
 
これから能登にボランティアに行く。微力でもチカラになれたなら幸い。
 
 
 

富山県高岡市からの漂着物・・・能登半島地震の記憶

2024年02月19日 07時43分45秒 | 災害サバイバル(地震・津波・水害)
震災後2度目の漂着物チェックで筒石へ。
 
高岡市の「日本海マリン」と書かれたフロート式のキーホルダーにつけられた鍵が漂着していた。
持ち主の手がかりになる情報のある漂着物は珍しく、中学の時に電話番号がかかれた救命胴衣をひろって以来だ。
裏側には「燃料キャップ」とマジック書きがある。どなたか持ち主に心当たりある方、連絡ください。
すこし離れたところに牛刀とロープカッター(ギザギザの刃のナイフ)もあった。
 
牛刀はスエーデン鋼をつかった堺刃物の高級ブランド品のようだし、ロープカッターも小型漁船ではあまり使わないだろうから、プレジャーボートか沖泊りする大型漁船のものか?
 
もしかしたら遺品の可能性もあり、「日本海マリン」に電話問合せしてみた。数隻が沈没したが幸いなことに死傷者はなく、これもなにかのご縁だと、わざわざ社員が引き取りにくてくれることになった。海の男は義理堅い。
 
わたしも高校生の時にボートを台風の大波にさらわれた経験があり、愛艇を失った自責の念と喪失感は身に染みている。親族、ペット、家、仕事を失った人々の哀しみはいかばかりか・・・。
 
 
 

勾玉の型を遺物に学ぶ・・・臨作、そして守破離

2024年02月17日 06時40分30秒 | ぬなかわヒスイ工房
書道家の臨書と同じく、遺物の臨作(複製)は操作願望や予定調和からの解放だ。型の中で無心に遊ぶ感じが心地よい。
最近はやわらかい滑石で臨作。手本は弥生時代中期の宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉。
 
今どきの日本人の多くは型という言葉に「型にはめるのはよくない」とマイナスイメージを持つが、日本の諸芸は型を学ぶことからはじまる。
型とは均一さや規格などではむろんなく、カタチそのものではない。型はカタチを生み出す原動力、内実の源泉と気づく。
次に蛇紋岩で臨作。
 
「平成の大首飾り」で243点もの遺物の複製をさせてもらってから弥生時代の勾玉に魅了され、手本にしていた宇木汲田遺跡出土の丁子頭勾玉のつくり方を研究していたが、ついに蛇紋岩やヒスイの実物大つくりに成功した。
そしてヒスイで臨作。以前の遺物モデルは光沢がでるまで研磨して艶消ししていたが、ここ最近は遺物のような半艶研磨でも切削傷なく整えられるようになった。遠回りしたプロセスがあってこそ。
 
宇木汲田勾玉ブラザースの記念撮影w
 
しかし文化的な必然性があった往古と、現代では包含する重みがぜんぜん違うから、当時の勾玉と比べると我が勾玉はなんと浅薄なものよと打ちひしがれる。この自覚を昔の人は「型なし」と自嘲した。
 
この気付きの自覚こそが中級者のスタートライン。あたらしい気付きのたびに、その境地の初心者になる。
 
型を学び、独自の工夫を見出し、型から離れることを守破離(しゅはり)というが、臨作を重ねることが「型あって型なし」の境地への道筋ではないだろうか。ちょっと大人になった気分w
 
 
 
 

休耕田のススキに大鎌で挑む!・・・信州の大鎌を特注

2024年02月14日 07時21分31秒 | 田舎暮らし
地区の人から休耕田を埋めつくすススキを刈ってほしいと頼まれ、参考に「現代農業」のバックナンバーを取り寄せたら、刈払い機(草刈り機)をつかわずに信州特産の大鎌で畦畔の人力除草をする草刈り名人が紹介されていた。大鎌除草は健康にいい・環境にもやさしい・楽しいといいことづくめだとか。
 
興味をもってYouTubeを検索したら、「現代農業」で紹介されていた草刈り名人の中川原さんの動画を発見!
研ぎ方&振り方のコツ! 中川原さんの大鎌草刈り②

サクサクと草が刈られていく音が心地よくオラも「草刈りエクササイズ」やってみたいと、「現代農業」で紹介されていた信濃町の「小林与一商店」に相談した。

オラの特注した大鎌は柄の長さは、175センチの身長にあわせて150センチ。「小林与一商店」さんには店舗のない卸売業者。事務所の奥は鍛冶屋がつくった鎌に柄をすげる工房になっている。

信州の鎌は柄から急角度に鎌が寝ているので腰をかがまなくてよく、刃先から根本まで緩いカーブになっているから力まかせに振り回さず、リズミカルに刃先を滑らせるように横に薙いでいくから疲れないそうだ。
柄からの角度があるために腰をかがまなくていいのネ。
 
名人は柔らかい草用の薄刃をつかっているが、硬いススキ用に中厚刃、身長にあわせて長めの柄を特注したら、ネット販売品の半額以下の安さで驚いた。
 
鋼の材質を聞いたら安来鋼「白紙」とのことだから、カミソリみたいによく切れる反面、刃こぼれしやすい硬い鋼なのでマメに研ぐ必要がありますナと刃物談義。鋼の材質を語り合える人は古武術研究家の甲野善紀先生以来だが、きっといい人に違いないw
 
ちなみに農家の友人が欲しがっていた西洋大鎌のことを聞いたら、平原で牧草を刈るための鎌なので、地形の複雑な田んぼの雑草刈りには信州鎌の方が向いていると仰ってましたぞ。
 
 

最悪な事態を想定してネガティブをポジティブに取り組むのが本当の防災・・・わたしの災害ボランティア活動

2024年02月12日 08時36分50秒 | 災害サバイバル(地震・津波・水害)
被災地支援だけがボランティア活動ではないと、防災の伝道師みたいなことしてたら相談をうけるようになった。
 
会社で働く外国人技能実習生の寮は大丈夫か?イザという時はどこに避難させたらいいか?
山間地にある家の土砂崩れは大丈夫か?などなど。
スマホアプリの「新潟県防災ナビ」は各都道府県版があるようだから、旅行先でも活用してほしい。
 
国土交通省の「重ねるハザードマップ」もいい資料だ。
https://disaportal.gsi.go.jp/maps/?ll=35.353216,138.735352&z=5&base=pale&vs=c1j0l0u0t0h0z0
 
しかしパソコンのない出先だとスマホでサイトを見せても、高齢者には画面が小さすぎて理解してはもらえない問題に直面した。
消防本部で紙媒体のハザードマップがないか相談したら、「防災ハンドブック」に土砂災害ハザードと洪水ハザードが併載されており、地区別の土砂災害ハザードもあったので5部づつもらった。
地区別の土砂災害ハザードマップをつなげて、対面で相談者に説明してミッション完了。自宅を赤マジックで囲んで避難経路を青マジックで書き込むなどすればなおいい。
 
ハザードマップで大丈夫でも油断禁物だ。台風の増水時に津波がきたら?大雪の時に地震がきたら?外出先で災害が発生したら?と、複合災害を想定してこそ防災。
最悪な事態を想定し、ネガティブをポジティブに考えるところがスタートライン。
 
旧日本軍はそれをしなかったから、不沈艦「大和」は2時間足らずの空襲で沈んだし、ミッドウェー海戦やガダルカナル戦、インパール戦の大損害につながっている。フクシマもまた然り。
 
 
 

勾玉の時系列をビジュアルで解説・・・ヒトと勾玉の物語

2024年02月10日 07時53分08秒 | ぬなかわヒスイ工房
遺物モデルの滑石勾玉を時系列で並べて展示し、体験会や講演会の時に持ち出せる工夫をした。
壁に固定した展示枠の上が開いているので、展示板を上に引き上げて外すことができるようになっている。
 
縄文早期末の黎明期→断絶期→後期末の復興期→500年の断絶期→弥生中期の復興期→数千年の断絶期→近代以降の復興期と、断絶期の後に必ず大きな好みの変化と技術革新があるのは何故だろう?と考察してもらう資料になると思う。
 
勾玉やヒスイのトンデモ説を信じこむ人は多く、ヒスイ職人ならスピリチュアルな話しが好きとか、霊能力の持ち主と思われることもある。確かにそれを売りにする職人や販売業者も少なくはない。
 
しかし、わたしは霊感商法モドキとは距離を置いてアカデミズムの知見を基盤とし、自分の体験で得たこと以上は言わないと高らかに宣言・・・しなくていいようにつくったのデス( ´艸`)
 
興味のある人は勾玉の系譜、つまりは物語について書いた下記も読んでちょうだい。
上段3個はおよそ6,000年前の縄文早期末~前期の勾玉で、この当時はヒスイで不定形の大珠はつくられていても、勾玉は加工技術が未熟であったのか、それとも何か素材に込める意味があったのか不明だが、ヒスイではつくられずに滑石や蛇紋岩でつくられている。形状的には石製の牙玉とその派生形、あるいは半分に割れた玦状耳飾りの再加工品であって、この当時は胎児っぽさが前面に出てはいない。
 
不思議なのがその後2,000~3,000年間は、大珠はカツオ節形やドーナツ形など盛んにつくられていても勾玉の類例の出土が極端に少なくなるセミ断絶期となることで、稀に出土しているのは前期の伝世品?それとも細々と命脈を保っていたものか?
 
中段3個はおよそ3,000年前の縄文後期~晩期の勾玉で、大きな好みの変化や技術革新があったらしく、このころからヒスイ製となり、明確に胎児を意識したような形になる。この後の弥生中期まで500年間の断絶期!
 
そして下段の左が弥生中期の北部九州に登場する丁子頭勾玉で、明らかに縄文時代の勾玉の形状に変化し、つまりは意味が違ってきた可能性が伺えるのではないか?技術もより高度になり、バリエーションも豊富になる。
 
中央が粗製乱造されるようになった(笑)古墳中期の山陰系勾玉モデル。素材は青碧玉や赤メノウであって、なぜかヒスイで勾玉がつくられなくなる。威信材(権威の象徴)のヒエラルキーのトップが金属器や絹織物にとってかわられたからだろうか?
 
三度の断絶期は、江戸中期~昭和の好事家・考古家たちに勾玉が再発見されてコレクションの対象となり、贋物?や新作がつくられるようになる近代と、戦時中にヒスイが再発見されて戦後から一般に流通する現代に至る。右端がわたしのオリジナル勾玉。
 
一概に勾玉とは!と一括りに断じられないことがお分かりいただけると思う。断絶期の後に好みが変化して、技術革新があるのはなせだろう?海の向こうからヒトの交流があったと考えるのが自然ではないか?では日本人とは?日本の文化とは?ヒスイや勾玉をベースに興味は多岐に派生してゆく。
 
これがヒトとヒスイの物語。
 
 
 

仕事はじめは遺物の複製・・・古に学ぶ

2024年02月08日 07時13分36秒 | ぬなかわヒスイ工房
工房の耐震改装を終えた仕事はじめに勾玉の系譜を説明しやすいように、時代ごとの典型的な遺物を選んで滑石で複製した。
縄文早期末~現代の勾玉の複製は、勾玉体験会などでつかわれている道具に加えて石錐やハマグリの貝殻など。
 
その中で最大の関心事は、勾玉の最高峰といっていい弥生時代中期の北部九州の丁子頭勾玉で、電動工具は回転運動であるために球体にちかい頭部と腹部の接合部分に、どうしてもアールがついてしまうのが癪だった。
手作業による前後運動でないと、実物のような線状の接合にはならないと推測していたが大正解で、実測図と写真でしか見たことがない手本にした宇木汲田遺跡の丁子頭勾玉の存在感に圧倒される。
 
次は頭部の3本の刻みのつくり方。丁子頭勾玉の刻みには宇木汲田遺跡出土品のような三角に広がった溝の深いタイプと、ほぼ同じ深さの刻みの溝が浅いタイプの二種類あり、前者は60°前後の角度をもつ三角形の石錐で刻んでいることがわかった。
いろいろと試したが、三角錐の鉄錐でいい具合になった。
宇木汲田遺跡の遺物は縦50㎜弱もあるので、わたしの勾玉の中でも大きい部類の縦27㎜を横に並べてみた。いかに北部九州の勾玉がでかいかわかると思う。
 
なんで頭部に刻みを入れた丁子頭勾玉をつくったのかは当時の作者でないとわからない。あるヒスイ販売業者が「やっぱりぃ、インパクトじゃないでしょうかね!」と軽く言っていたが、ではなんでインパクト出す必要があるの?知ったかぶりしてはいけない。
 
勾玉ってなに?も同様。都合よく情報を切り張りした独断を史実のように公表して商売する、ニュー・アカデミーさんやスピリチュアルさんにはなりたくないので、ヒスイ職人のわたしは書道家の臨書と同じ意味で臨作する。そのプロセスの中で気づくモノがあれば、真偽はともかく行為から得た感覚にウソはない。
 
 

備えあれば憂いなしの耐震DIY・・・工房の耐震改装工事終了

2024年02月07日 06時59分53秒 | ぬなかわヒスイ工房
朝6時に久しぶりの揺れで目覚めた。
重たいものは下へ・出し入れしやすい・掃除しやすさをコンセプトに工房ギャラリーの耐震補強がやっと終わり、今週から工房仕事を再開した。
桐箱に入れて立てかけてあった「古代風首飾りヌナカワ姫・ヌナカワ彦」は地震で落ちたので、紙芝居の箱式の収納箱の横から出し入れできるように壁固定。こんな時のために塗り壁下地は、石膏ボードの下にベニア板を捨て貼りしてあるのでどこでもビスが効く。面倒だけど大事なこと。
転がった土器は博物館の展示のように釣り糸で固定してしまうと出し入れができないので、タンスの上に動かない工夫をした枠に収めた。
以前より片付いたので眺めてはニヤニヤしているが、備えあれば憂いなしで油断大敵だ。