少しずつ読んでいる三上章の文法書。馴れない分野なので飲み込むのに苦労したり、三上さん独特のユーモアにクスクス笑ったり。
『現代語法序説――シンタクスの試み』(くろしお出版)の第2章に入って、真髄に触れる思いがします。
今はまだきちんと理解していないかもしれませんが、「日本語に主語は不要」という三上さんの主張は、単に英語の「Ⅰ love you」が、日本語では「好きです」になって、「Ⅰ(私)」が消えるということではないようです。
「好く」という動作・状態(述語)の主体になるのは「私」であって、述語に対する主格としては存在する。
文法用語がややこしいのですが、主語と主格とはちょっと違うのです。三上さんによれば、主語とは、英語やフランス語の活用に見るように、術後となる動詞の形を決めたり、形容詞との間をつなぐbe動詞の形を決めたりして、ひとつの文の構造に決定的な役割を果たすものだというのです。彼は「主語は、主格が或る特別なはたらきをする国語において、その主格に認められる資格、としか考えられないものである」といっています。
これに対して、日本語では主格が述語動詞の活用を支配したりするような特権的な地位にはない。また、文の主題を主語が示すという考え方に対しても、日本語では「象は鼻が長い」のように助詞「は」が主題を提示する役割をもっているので、主格となる語(この場合は「鼻が」でしょうか)が必ずしも文全体の主題を示したりはしない、というのです。
同様のことを指摘している文法学者は他にもいるのであって「ただ主語という用語の廃止を主張しているのが、目下のところ私一人なのである」と、三上さんは書いています。
けれども、用語の違いは考え方の違いに通じるので、やはり「日本語に主語はない」という言いかたは刺激的です。これが妥当かどうかを知るために、(私は)しばらく勉強をつづけなくてはなりません。
なんだか、文の作り方に妙な意識が働くようになってしまいました。
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