釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

鎌倉はうらむが如く、金澤は笑うが如し

2006年11月07日 21時43分52秒 | お散歩日記/東京地名の話
松尾芭蕉の奥の細道の「象潟」に『松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。』という一節がある。
その文をまねてみた。
象潟は秋田県南部にあり、地震で隆起する以前は松島と並び賞される歌枕であった。
ここのうらむは「憾む」・・・悲しい、寂しいという意味である。

どうも九月の今にも雨が降り出しそうな鎌倉の印象が強くて、鎌倉の基本は「陰」であり「憾」の感情を秘めた場所のような気がする。
どこを掘っても骨が出るらしい。
人の屍の上にできた都市というのはいいすぎだろうか。
鎌倉幕府が滅亡したときの刀傷のある人骨や、災害(地震)のときに大量に埋葬されたもの、さらに墓地の遺跡。
そんなわけで鎌倉は「憾む」のイメージが強い。

そんな鎌倉の陰気をすべて吹き晴らすような場所に行った。
鎌倉の東、三浦半島の稜線を越えたところ、東京湾に面した横浜市金沢である。
金澤文庫(かねさわぶんこ)で知られる土地である。

鎌倉は相模の国、ここ金澤は武蔵の国、久良岐郡六浦荘といって海上交通の要所であったらしい。
金沢文庫は、北条氏の一族で執権の補佐役でもあり、文化人でもあった北条実時(金沢実時)が晩年、金沢の屋敷内につくったもので、政治・文学・歴史など多岐に蔵書が納められた。書籍の収集は代々の金沢北条氏に受け継がれ、蔵書の充実がはかられた。
金沢北条氏は鎌倉幕府の滅亡(1333)と運命をともにしましたが、文庫は隣接する金沢氏の菩提寺の称名寺によって管理され近代に至った。
現在は神奈川県立金沢文庫として神奈川県が管理している。
国宝や重要文化財の保存管理のほか、歴史博物館として公開されている。


神奈川県立金沢文庫

神奈川県立金沢文庫の裏手のトンネルを抜けると、称名寺の境内に出る。
トンネルを抜けると大きく広がった青空や背後の岡の緑が本当に晴れ晴れした気分にさせる。
寺の建物は本堂を中心にこじんまりとまとまり、一番目をひくのは中央に島のある大きな池がである。
その池には山門から中島に太鼓橋が渡り、さらに中島から本堂前に橋が架かっていたらしい。
いたらしいというのは、近年本堂前の橋は老朽化が進み、取り払われたままになっている。太鼓橋もそれに伴い通行できない。ちょっと残念である。


称名寺本堂

本堂にお参りして、本堂の裏手、谷の奥の岡の中腹にある北条実時の墓に訪れた。


北条実時と一族の墓

さすがに墓の周りは人影もなく、霊域の感じがした。でも空はあくまでも青い。
墓までも道のりには桜の古木や太い木々が生え、その手前、本堂の横手から裏手の谷の入り口には一面セイタカアワダチソウが咲いていた。
相当広大な寺域を持つ大きな寺院だったことがわかる。

今回は横手から寺に入ったので、正面の参道に回ることにした。
山門から見る景色はまさに浄土庭園の形式。



池を渡って極楽浄土にある本堂に渡るという形である。
ここから見ると、さらに晴れ晴れとした景色である。
空の青さ、岡の緑、太鼓橋の赤、気分爽快とは正しくこの気分である。
これが「笑う」の正体である。あの鎌倉の比企谷でも寂しい、悲しい「憾む」の感覚とはまさに逆の「笑う」なのである。


称名寺山門

山門から何度も称名寺の境内の景色を堪能して、参道を正面の入口の赤門に向かう。両脇は塔頭やお休み処になっている。ここもなかなか風情のある場所である。両側は桜並木。春は背後の山の桜とともにさぞ美しいだろう。


赤門

遠い昔、中学校の遠足で弁当を食べたのが称名寺の境内だった記憶がある。その時は金沢八景の海岸で潮干狩りした。
今回も称名寺をあとにして海に向かった。






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