釋守成の転居物語(旧タイトル・GONTAの東京散歩)

またまた転居を目論んでいます。
5年間で5回の転居。
6回目の転居の経緯を書いていきます。

長谷寺はコピー寺

2013年02月14日 18時11分26秒 | 寺社仏閣

今日はお寺を作るのに趣向を凝らす江戸人の話。

人間て不思議ですね。
「長谷」は漢字をどう読んでも「はせ」には読めないのに、「はせ」と読んでしまう。
「長」が「は」で「谷」が「せ」なんていうことはありません。
二つ合わせて「はせ」なんです。

だから「長谷寺」は「はせでら」と読んでしまう。
当然といえば当然です。

日本人に多い苗字に「長谷川」さんがありますが、この長谷川さんのルーツも「初瀬川」にあるということです。
「長谷」、なにげなく読んでいる文字にも深い意味があるんですね。

同じような文字に「春日(かすが)」「飛鳥(あすか)」「日下(くさか)」などがあります。
それぞれ諸説があるようです。

昨日書いた「長谷の泊瀬・初瀬」という表現は万葉集の用例にないので否定する説もあります。
「長い谷のところ」=「初瀬」という地名を説明したというあたりが妥当なのではないでしょうか。

麻布の長谷寺は観音様が奈良の長谷寺と同じだから「長谷寺」になったのではないかと私の考えを申し上げましたが、日本には約240も様々な宗派の長谷寺を名乗る寺院があるということです。
そのほとんどが観音様を祀っています。


特に有名なのは、鎌倉の長谷寺(はせでら・浄土宗)ではないでしょうか。
ここの観音様は、奈良の長谷寺の本尊と同じ楠を二つに割って作られ、伊勢海に流したものが鎌倉に漂着したものだという伝説があります。

ただし、今の奈良のご本尊が後世(室町時代)に作られたもので、鎌倉のものも制作年代がはっきりしないことから伝承の域を出ません。

奈良と一木といわれる麻布の像は、江戸時代の正徳二年(1716年)に高さ二丈六尺(約8m)の新しい像が作られたときに、その体内に収めたということです。
しかしこの像は、昭和二十年三月十日の空襲で焼失してしまいました。
ですから、これも調べる術はありません。

また、奈良の像と同じ木で作られたという伝承は日本各地にあるようです。
奈良の長谷寺が、正しく観音信仰の総本山であったために、観音様の権威付けに作られた伝承が多いのではないでしょうか。

また、各地の長谷寺の十一面観音は、錫杖を持った特異な形をしています。
これは、地蔵菩薩の徳も持ち合わせ、衆生を救うために巷を行脚する姿だそうで、長谷寺式十一面観音と言われています。
もちろん、麻布の新しい観音様もそのお姿をしておられます。


(錫杖を持った麻布大観音)

昨日、佐渡の長谷寺は、奈良の長谷寺を模して作られたと書きました。
ここにも十一面観音が祀られています。(長谷寺式ではありません。)
今日、注目したいのは、「長谷寺を模して・・・」という部分です。

境内が奈良の長谷寺の特徴である長い階段の上にあるのです。

奈良の長谷寺の観音堂は、山の中腹に有り、麓から長い階段の回廊が続いています。
(参拝したのが学生時代ですので、記憶が不鮮明ですが。)



上の地図をご覧になってわかるように、「長谷」といわれる「初瀬川」を谷底として観音様のいる本堂に向かって階段状の回廊がつながっているのです。

その形状を考えていた時に、ふと麻布の長谷寺も同じようなつくりになっているんじゃないかと思えたのです。



現在、西麻布朝日通り、夕日通りから真っ直ぐに長谷寺に登る道が、江戸時代から戦災で焼失するまでの参道で、登りきった正面に観音堂があったそうです。
朝日通りが、笄川の暗渠であることは以前お話したと思います。


(昔はこの道が参道で、突き当たりに観音堂がありました。
この坂にはなぜか名前がありません。
名前が無いのは、お寺の境内だったからではないでしょうか。
江戸時代の地図にも寺の内部は書かれていませんから、一般人には坂の名前をつける必要がなかったのではないでしょうか。)

参道の向きとといい、谷底に川があるつくりといいそっくりではありませんか。

この坂は人工的に作られたものだとわかります。
夕日通りにそって西南側に崖があるのはお分かりだと思います。
その崖が、この参道で切り取られています。
六本木通りが今はありますから、崖の続きはわかりづらいのですが、六本木通りを越えて、四丁目にもその崖は続いています。
ですから、この参道を作るために、崖を切り崩してなだらかな道を作ったのです。

今でも、こちらの坂の方が六本木通りの笄坂よりも傾斜が緩やかなのも、参詣者を思って作られている気がします。


(旧・タッパウエアーの横から見える崖)

(坂の途中の右側も少し高くなっている。いわゆる切通し)

(坂の右側には一段低い公園があって、この部分は坂が嵩上げされている。)

(崖は六本木通りを越えても続く)

このように見ていくと、麻布の長谷寺は、本家の奈良の長谷寺に似せるために、境内の構造までそっくりに作ったのは明白です。

「観音第一の大和長谷寺の観音様と同じ木で作られた観音様があるならば、いっそ寺の名も長谷寺にして。」
「寺を作るなら、大和の長谷寺を真似ましょう。川の流れる長い谷から観音様へ上り坂の参道をを作って。」
「似せられるところは似せちゃいましょうか。」
「観音様も大和と同じぐらい大きいものにしませんか。」

そして、江戸中期には大きさもほぼ同じ観音様まで作ってしまうという壮大な話。

観音信仰の本場をちゃっかりつくってしまうという、江戸時代人の洒落っ気というか、ものすごさには感心させられます。
全て、江戸人のご趣向なんです。

あれ、江戸には似たような話があります。

上野の寛永寺です。
比叡山延暦寺を模して、東叡山寛永寺。
ご丁寧にも琵琶湖を模した不忍池もあり、中には竹生島を模した弁天様までいます。

詳しくは忍ぶ忍ばず

そういえば上野には清水観音堂まである。

なんで今まで、長谷寺がコピー寺だって気がつかなかったのが不思議なくらいです。

この発想は、地方の有名寺院の本尊を江戸まで持ってきて行われる出開帳や、その後の深川不動尊(成田山の別院)、高野山別院、青山善光寺とかに受け継がれているのではないでしょうか。
旅がままならなかった時代、行けないのならば作っちゃおうという発想は素晴らしいものがあります。

東京ディズニーランドや中華街なんていうのもその発想の延長かな。
さらに、各県の物産アンテナショップやデパートの物産展なんかもそんな感じがしますね。

そうそう、今年現代では珍しい出開帳が両国回向院で行われます。
もしかして江戸時代以来初めてかも。

今回は、江戸のお寺事情を垣間見た気がします。

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