「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~江戸・佃ゆかりの地と八島巡り「西淀川区」

2013-09-20 21:32:20 | 日記
訪問日:平成26年8月23日(土)
出 発:JR「塚本駅」
到 着:JR「加島駅」

 大阪市内を流れる「淀川」。その北部にある「淀川3区」。最も下流にある「西淀川区」は、大正14年の区編制により誕生し「阪神工業地帯」の中心として多くの工場が並び、また工業用水取水のため地盤沈下が進んだことなどから「公害の町」「海抜0メートル地帯」などと呼ばれた。そんな町も今では、工場の跡地にマンション等が立ち並び、大阪駅にも近いことから人口約9万8千人の住宅街へと生まれ変わった。
 そして、「神崎川」に浮かぶ中洲の町「佃」は、かつてここの漁民が江戸に移り住んだことから「江戸・佃」ゆかりの地と言われる。また、淀川の中洲の上に発達した町は古代「難波八十島」と呼ばれ、多くの歌にも詠まれている。今でも17町のうち約半数の8つの町名に「島」がつく。「江戸・佃」ゆかりの地と「八十島」ならぬ“8つ”の島(町)、そして「海・航海の神様」である「住吉神社」8社を歩く。


 「JR宝塚線」。淀川を渡り「大阪駅」の次ぎにあるのが「塚本駅」。線路が「淀川区」との区境である。もうそこは「キタ」の繁華街とは別世界。以前にも述べたが「下町」とは東京の「山手」に対する対語。東京以外に「下町」はないというのが私の持論。「下町」を「庶民的」という意味で使うのなら「塚本」は下町だろう。というより「大阪」は「下町」だらけだ。午前9時、「JR塚本駅西口」を出発。「下町」に入る。
 

 「淀川区」編では塚本駅東口を訪れた。駅西口には「サンリバー柏里」という200mほどのアーケード街が抜ける。
 

 結構、古い店もあるようだ。
 

 

アーケードを抜けた所の曲がりくねった道が「中津川左岸の跡」と言われる。「中津川」とは、「新淀川」が開削される前に流れていた旧淀川の支流である。
 

 右(北)に曲がり、「中津川」左岸沿いの路地を進むと100mほどで左に「柏里西公園」。
 

 そこには、この後、訪れる「鼻川神社」の御旅所が建つ。今日一日の安全を祈願しよう。
 

 公園から西に進み、旧村内の街並みに入ると「池永家住宅」。江戸時代の典型的な近郊農家の建物である。
 

 国の登録有形文化財に登録され、かつての景観を今に伝える。
 

 そして、何と「池永家住宅」の東側には、素晴らしい「長屋」が残る。
 

 路地を南へ抜けると小さな四つ角に出る。南東角のタバコ屋さん前に小さな「野里の渡し・槲の橋跡」碑が建つ。かつて「中津川」には「野里の渡し」という渡し船が運行されていたようだ。
 

 その後、「槲(かしわ)の橋」という橋が架けられたようだが、明治39年、「中津川」が埋め立てられたことにより橋もなくなった。
 

 そして、この路地が「中津川右岸の跡」と言われる。と言うことは、この辺りの「中津川」の川幅は300m以上あったということだ。
 

そして少し南に下れば「野里住吉神社」。西淀川区は海に面した町であるため「住吉神社」が多く祀られている。永徳2(1382)年、足利義満により創建されたと伝わる。
 

 また、神社の石垣は、かつての「中津川」右岸堤防の名残と言われる。
 

 淀川下流に位置し、頻繁に水害に見舞われたことから村を救うため人身御供となった乙女の「一夜官女」という物語が伝わる。境内には「乙女塚」が建つ。毎年2月20日には、乙女の霊を慰める「一夜官女祭」が行われる。
 

 夏祭りでは3基のだんじりが町中を練り歩く。
 

 神社の前にも「旧家」が残る。
  

 鳥居の真ん前には「野里本町商店街」。210mほどのアーケード街だ。
 

 このお店も古くからやっているんだろうな。
 

 

 今日は、おそらく「淀川」河口にある「矢倉緑地」での昼食となるだろう。そこには店はないので、商店街の「ブーランジェリー夢屋」というベーカリーショップで昼食を購入。保冷バックに凍らせたペットボトルとともに入れる。
 

 アーケードを抜ければ「野里交差点」。「国道2号線」が走る。
 
 
 一旦、南に進み、淀川堤防下には、最初にお参りした御旅所の本宮である「鼻川神社」。「神功皇后」と「須佐之男命」を祀る。社伝によると「神功皇后」行幸の際、住民たちが「柏餅」を振る舞ったと言われる。「柏里」という地名や「槲の橋」という橋名と関係があるのだろう。
 

 境内には、明治42年の「新淀川」開削に伴って架けられた「西成大橋」の親柱碑が建つ。
 

 神社横の「地車庫」前の路地は、御旅所前の「中津川左岸」跡と言われる路地の延長線である。本宮と御旅所の位置関係がよくわかる。
 

 ここから一方通行の路地を100mほど逆行すると屋敷の塀の中に大きな木がそびえる。
 

 かつて「中津川」左岸堤防上に自生していた「くろがねもち」という木が育ったものらしい。大阪市の保存樹に指定されている。
 

 路地を入れば古い酒屋さん。
 

 鼻川神社のすぐ南には「新淀川」が流れる。明治42年、水害に悩まされてきた「旧淀川」の支流である「中津川」を開削して造られた大阪を代表する川である。
 

 「国道2号線」が走る「淀川大橋」の北詰を越える。
 

 更に川沿いを西へと歩く。
 

 「阪神本線」と「阪神高速神戸線」の高架をくぐれば、一つ目の島「姫島」の町に入る。
 

 北に抜ける道は「大和田街道」。路地に入れば「旧家」が。
 

 その前にも「二戸一」の「町家」。
 

 「鎌田酒類食品店」という立派な酒屋さん。
 

 街道らしい街並み。
 

 さらに街道沿いを進む。
 

 そして右に「姫嶋神社」。御祭神は「阿迦留姫命(アカルヒメノミコト)」。「古事記」や「摂津國風土記」に登場する新羅系の女神だ。
 

 由緒は不詳であるが古い神社であり、樹齢900年といわれたクスノキは空襲で焼かれてしまった。
 

 幹には「焦げ跡」が残る。
 

 隣の公園では、盆踊りの準備がされていた。
 

 神社を過ぎると何でもない街並みが続くが、ここは昭和初期まで繁華街として賑わい、芝居小屋などが並んだと言われる。
 

 3~4分ほどで緑豊かな緑道に突き当たる。かつて「新淀川」と「神崎川」を結んだ「大野川」という運河で、水運や治水に利用されてきたが、工場排水により悪臭を放つ「ドブ川」となり、昭和46年から54年にかけて埋め立てられ「大野川緑陰道路」として生まれ変わった。
 
 
 約3.9kmの遊歩道は、サイクリング道なども整備されている。緑道を海(西)に向かって歩く。青くカラー舗装されているのは、川をイメージしているためである。
 

 涼しげな緑道を進む。
 

 「阪神なんば線」と「国道43号線」を越え、左(東)に折れると2つ目の住吉神社である「福住吉神社」。明暦2(1656)年、住吉四神を勧請して創建された。「住吉四神」とは、伊邪那伎命が禊払いした際に生まれた「底筒之男命」「中筒之男命」「上筒之男命」の住吉三神に応神天皇の母「神功皇后」を加えた「航海」の守護神である。鳥居には「文化4(1807)年」の刻字。
 

 細い道を抜け「大野川緑陰道路」を渡って「向かい岸」へ。この辺りは2つ目の島「百島」の町である。
 

 古い散髪屋さん。
 

 路地を抜けると3つ目の「大野住吉神社」。正保元(1644)年、大野の集落が開発された際に、「住吉四神」を勧請して創建。かつて「福住吉神社」とともに毎年8月17日には「豊漁祭」が行われていたという。
 

 神社の横に「海抜表示」。西淀川区内には約300の「海抜表示」が設置されている。そして、区の大部分が「マイナス」。つまり「海抜0メートル地帯」ならぬ「海抜0メートル以下地帯」なのである。
 
 
 神社脇から「新淀川公園」を抜ける。
 

 「大野川緑陰道路」に戻り西へ進む。
 

 そして「旧大野川」は「淀川」と合流。そこは「福漁港」と呼ばれる「舟溜まり」になっている。ここから当分「自販機」がないので、この手前で「給水」しておくこと。
 

 法律上は正式な漁港ではないが、多くの漁船が繋がれている。
 

 「大阪市漁業協同組合」もある。
 

 「舟溜まり」と「淀川」をつなぐ「西島水門」を渡れば3つ目の島「西島」。
 

 ここは工場街で、かつての「阪神工業地帯」の面影を残す。
 

 この辺りは、明治時代に「新田」として開発された所であり、その跡地に工場が建てられた。
 

 そのまま真っ直ぐ進めば「矢倉緑地」。昔の「矢倉新田」である。
 

 人工石が入れられているが、コンクリートで固められていない自然の磯である。
 

 人工ではあるが「潮溜まり」などもある。
 

 水鳥やカニなどの水生動物が生息する。
 

 

 「緑地」先端から「淀川」河口を望む。「阪神高速湾岸線神崎川橋」の向こうに「大阪湾」が見える。
 

 干潟に向かって「野鳥観測所」が設けられている。
 

 小高い丘の上には「あずまや」。時間は、午前11時50分。ちょうど「昼時」となった。いつものとおり「ぴったり」だ。
 

 「ブーランジェリー夢屋」で買った「きのこピザ(230円)」「カツサンド(320円)」と缶コーヒーで昼食とする。右端の小さな「クロワッサン」は、サービスの「試食品」。
  

 清潔なトイレも設けられている。手前の「水場」は、「大阪市水道局」なので「高品質」な水道水が流れているはずだ。
 

 昼食を終え「西島水門」の手前まで戻る。対岸には「ユニバーサルシティ(此花区)」や遠くには「キタ」の高層ビル街が見える。
 

 

 水門は「淀川」につながる。
 

 「西島川」という運河に沿って工場街を北へ進む。「西島」は、この川と「淀川」「神崎川」に囲まれた、本当の「島」である。
 

 「淀川通」の高架橋をくぐった所に自販機。「給水」をしよう。
 

 そしてすぐ前に4つ目の「西島住吉神社」が見える。元禄11(1698)年、「住吉四神」を勧請して創建。明治に入り、この後、訪れる「五社神社」に合祀されるが、昭和22年、分離遷宮される。
 

 境内には、享保16(1731)年の刻字がある石灯籠が残る。
 

 これは、阪神大震災で倒壊した鳥居らしい。
 

 参拝を終え、更に北へ進むと水門に突き当たる。道なりにUの字に曲がると「城島小橋」という人道橋で「神崎川」を渡る。
 

 そこは、4つ目の島「中島」。ここも「神崎川」と「中島川」に囲まれた「中洲」である。
 

 「海抜-1.5m」か。胸くらいだな。
 

 「城島小橋」を渡って右(東)へ。この辺りは「中島新田」跡地。島の東端に「五社神社」が鎮座する。
 

 元禄元(1688)年、新田開発に際して勧請された。お祀りされている「5柱」の神名が書かれた扁額。「西島住吉神社」が合祀されたので「住吉さん」も祀られている。
 

 神社の東を走る「国道43号線中島大橋」で「神崎川」を渡る。
 

 橋の左右には「阪神工業地帯」の面影が残る。
 

 ちょっと「空気が汚いな。」
 

 ここは「佃」。町名に「島」は付かないが、「左門殿川」と「神崎川」の間に浮かぶ完全な「島」である。
 

 突き当たりに「左門殿(さもんど)川」。元和3(1617)年、洪水を防ぐため尼崎城主「戸田左門氏鉄」が改修したことに因んで川に「左門殿」という名を付けたという。昭和初期までは、重要な運搬航路であった。
 

 川が大阪と兵庫の府県境で、対岸は「兵庫県尼崎市」だ。
 

 「国道43号線」をくぐるため、一旦、「尼崎市」に入り、再度、「大阪市」へ。
 

 「左門殿川」に沿って東へ歩き、「阪神高速神戸線」の高架をくぐって「佃」の町へ。
 

 「佃6・5・4・3丁目」と東進して行くと阪神電車「千船駅」。
 

 高架をくぐり「交番」の奥には、付近を開発した「見市家」の屋敷跡。今は資料館になっているようだが、一般公開はされていない。
 

 駅東の「新佃公園」を抜ける。
 

 「国道2号線」を越え、「浄土真宗本願寺派正行寺」前から路地に入る。
 

 「佃1丁目」の町へ。「-0.4m」。膝くらいだな。
 

 「市立佃小学校」前から「宝生湯」というお風呂屋さんの前を通り過ぎる。
 

 突き当たりには「田簑神社」。
 

 ここも「住吉さん」をお祀りしている。6つ目の「住吉神社」ということだな。
 

 境内には「佃漁民ゆかりの地」碑が建つ。天正14(1586)年、住吉大社を参拝した「徳川家康」の船頭を務めた「佃漁民」は、将軍家への献魚の役目を命ぜられる。そのため34名の佃漁民が江戸に移り住み、彼らが開拓した「隅田川」河口に故郷と同じ「佃島」と名付けたことが、「江戸・佃」の始まりと言われる。
 

 また、ここは平安時代の歌人「紀貫之」が訪れた地でもあり、境内には「紀貫之歌碑」が建つ。碑の前では猫がお昼寝。
 

 「東照宮」をお祀りし「徳川家康」との関係の深さが窺われる。本殿垣内にある狛犬は、元禄15(1702)年に造られた大阪府で最も古いものだと言われる。
  

 参拝を終え「浄土真宗本願寺派西法寺」前の路地を抜けていく。
 

 この「高層マンション群」も工場跡に建てられたのだろう。
 

 マンション脇には、古い家も残る。
 

 古い牛乳屋さん。
 

 「国道2号線神崎大橋」に設けられた「防潮扉」。区内には20基の「防潮扉」が設けられており、台風や集中豪雨の際、これらの扉が閉められ水害から「海面下」の町を守る。
 

 「国道2号線」を渡れば「佃ふれあい公園」。
 

 平成7年の阪神大震災以降、川の岸壁は「防災船着場」として整備されている。道路が寸断された際、船で被災者や救援物資の搬送が行われるのだ。
 

 「阪神本線鉄橋」「千船大橋」をくぐり、しばらく「神崎川」に沿って歩く。
 

 「千北橋」で「神崎川」を渡る。
 

 5つ目の島「出来島」だ。「できじま」と読む。今は「島」ではなく、ここからは大阪平野につながる陸地を歩く。
 

 堤防上は「なにわ自転車道」になっているようだ。
 

 堤防の下には「大和田の舟溜まり」。この辺りでは「大和田の鯉つかみ」と呼ばれる鯉の手づかみ漁が盛んであった言われる。
 

 堤防の急な階段を下り、路地を抜ければ「大和田住吉神社」。
 

 7つ目の住吉神社だ。境内には「源義経」が「屋島」へ向かう前に手植えしたと伝わる「判官松之碑」が建つ。碑の横には「新千船橋」の親柱碑。
 

 鳥居の横には「万葉歌碑」が建つ。万葉集にも詠まれるほど美しい風景が広がっていたのだろう。
 

 この辺りは、午前中に歩いた「大和田街道」の延長であり「歴史の散歩道」になっている。
 

 街道沿いの「市立大和田小学校」の敷地内に「大和田城」という城があったようだ。
 

 小学校横の「海抜表示」。足が着かない。
 

 「大和田街道」沿いを南に進む。
 

 午前中、「姫嶋神社」参拝後に交わった「大野川緑陰道路」に北側から合流。午前とは逆の東(左)へ進む。
  

 まるで川の側を歩いているようだ。「阪神高速神戸線」「阪神本線」をくぐり、更に東へ歩く。
 

 「国道2号線」が走る「歌島橋」をくぐり、さらに「新歌島橋」をくぐって進む。
 

 「御野橋」横からスロープで「旧大野川」の左岸(東側)に上がる。
 

 そこは6つ目の島「歌島」。腰くらいか?
 

 あちらこちらで「地蔵盆」の準備をしている。
  

 「阪神高速池田線」をくぐり「歌島1丁目」の町へ。
 

 この緑道は「大野川緑陰道路」の東端。JRをくぐれば、以前、歩いた淀川区へと続く(「淀川区」編参照)。
 

 緑道を越え、更に進むと一際大きな工場。「江崎グリコ本社」だ。「1粒300m」。大阪のシンボルとなっている「道頓堀」のネオン広告。
 

 「江崎グリコ」本社前を過ぎる。
 

 あたりは「グリコ王国」だ。
 

 再度「阪神高速池田線」をくぐり西へ進むと7つ目の島「御幣島」に入る。「みてじま」と読む。
 

 この辺りも高層マンションが並ぶ。
 

 「御幣島東公園」を通り抜ける。
 

 「市立御幣島小学校」の南側を抜け、「みてじま筋」を渡れば「御幣島公園」。
 

 公園内には「住吉神社跡」碑。8つ目の住吉神社だが、今は碑が残るだけである。
 

 この辺りも「海面下」。
 

 通りに出て、一旦、左へ。蔵のある立派なお屋敷の隣には「大阪府西淀川警察署御幣島警ら連絡所」。白く可愛らしい建物だ。
 

 北に戻ると右手には「浄土真宗西本願寺派光明寺」。
 

 ここにも「紀貫之」の歌碑が建つ。相当、美しい風景が広がっていたのだろう。「公害の町」と呼ばれた頃からは想像もつかない。300年以上生き「景行」「成務」「仲哀」「応神」「仁徳」の5代天皇に仕えたという「竹内宿彌」の墓や「一休和尚」碑などもあるらしいのだが、見つけることはできなかった。
  

 マンションや病院の並ぶ町を抜け、北へ進む。
 

 途中から「工場街」となる。
 

 途中、右に「ナニワコーヒー株式会社」。昭和23年創業らしい。
 

 大阪では、冷たいコーヒー「冷珈(冷コー)」と呼ばれる「アイスコーヒー」の瓶詰め商品を扱う。1本788円。
 

 「竹島南公園」と呼ばれる緑道を越えれば、8つ目、最後の島「竹島」に入る。これで「八十島」すべて回ったぞ!?
  

 工場街から右へ入ると「竹島温泉」というレトロなお風呂屋さん。
 

 お風呂屋さんの前の路地を入ると「古い街並み」が残る。
 

 大きな「門」。
 

 立派な「蔵」。
 

 そんな中に味のある「町工場」。
  

 かつての「新田」を支えた豪農の建物なのだろう。新田跡には、工場が建ち並び、その後、住宅地として開けた町に「水田」は残っていない。「古い街並み」だけが、当時を偲ばせる。
 

 街並みを抜ければ「竹島公園」。
 

 その一角に「天神社跡」碑。文禄3(1594)年、勧請された「竹島天神社」の祠跡であるが、明治42年、隣の淀川区・香具波志(かぐわし)神社に合祀された(「淀川区」編参照)。
 

 公園を抜ければJR東西線「加島駅」の西口。今日のゴールだ。線路が「淀川区」との区境になっている。
 

 駅構内に入れば「淀川区」。平成9年3月に出来た新しい駅だ。東口は、ロータリーになっている。午後4時25分着。本日の歩紀「36194歩」(31.12km)。「海抜0メートル地帯」かつての「阪神工業地帯」は、新しい町に生まれ変わっていた。
 
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2 コメント

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写真が素晴らしい (大阪野里の高等遊民)
2016-11-03 22:07:21
いずれの写真も素晴らしい。
返信する
Re:写真が素晴らしい (nozatomatiaruki2)
2016-11-05 19:39:34
大阪野里の高等遊民 様

コメントありがとうございます。
写真は、まったくの素人で、芸術というより記録のつもりで撮っています。
これからもどんどん歩き続けます。

野里町歩紀
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